もとの電報はプロイセン王ヴィルヘルム1世の侍従長アーベケンがビスマルクに宛てたもので以下のものです。 意図的な短縮化、主語の省略によってフランス大使が強硬な態度に出たように、またプロイセン王がフランス大使を強く拒絶したように印象を操作しています。 エムスにて発信、1870年7月13日。 朕はとうとう最後は多少きつく伯を退けた。 そんな義務をいつまでも負う必要はないし、それはできないものでもある。 もちろん朕は伯にいまだ何の知らせも受け取っていないし、また伯のほうがパリとマドリードの情勢について朕よりも早く情報を知っているので、朕がこれに関与する必要がないことが解かるだろうと言った。 すなわち陛下は大公からの書面によりベネデッティ伯がパリより得た知らせを確認したので、これ以上は何も大使に言うことはない、と。 アーベケンより。 ビスマルクが改竄し、新聞や各国大使に公表したのは以下の文。 エムスにて発信、1870年7月13日。 すなわち、ホーエンツォレルン家が改めて立候補することがあっても、国王陛下が決してそれを承認しないことを将来にわたってお約束すると、パリに打電する許可をいただきたい、と。 その後、国王陛下はフランス大使と会見することを拒否し、勤務中の侍従を通して陛下は大使にこれ以上何も伝えることはない、と大使に伝えさせた。
次のもとの電報はプロイセン王ヴィルヘルム1世の侍従長アーベケンがビスマルクに宛てたもので以下のものです。 意図的な短縮化、主語の省略によってフランス大使が強硬な態度に出たように、またプロイセン王がフランス大使を強く拒絶したように印象を操作しています。 エムスにて発信、1870年7月13日。 朕はとうとう最後は多少きつく伯を退けた。 そんな義務をいつまでも負う必要はないし、それはできないものでもある。 もちろん朕は伯にいまだ何の知らせも受け取っていないし、また伯のほうがパリとマドリードの情勢について朕よりも早く情報を知っているので、朕がこれに関与する必要がないことが解かるだろうと言った。 すなわち陛下は大公からの書面によりベネデッティ伯がパリより得た知らせを確認したので、これ以上は何も大使に言うことはない、と。 アーベケンより。 ビスマルクが改竄し、新聞や各国大使に公表したのは以下の文。 エムスにて発信、1870年7月13日。 すなわち、ホーエンツォレルン家が改めて立候補することがあっても、国王陛下が決してそれを承認しないことを将来にわたってお約束すると、パリに打電する許可をいただきたい、と。 その後、国王陛下はフランス大使と会見することを拒否し、勤務中の侍従を通して陛下は大使にこれ以上何も伝えることはない、と大使に伝えさせた。
次のまた今日も仕事でゴルフでした。 あーつかれるー。 午前中のスコアは最悪。 でも昼食時のビールで持ち直しに成功。 ま、いつものコトです。 いい気持ちで打ってたのですが、とつぜん嵐に。 さらに雷が。 「あとは18番ホールだけ」ってトコロであえなく中止となりました。 全国で年間数人が、ゴルフのプレイ中に落雷死している現実を見れば仕方ありません。 スコア計算は午前の記録のみ。 ・・・・・やられましたよ。 やられた人。 といえば「ナポレオン3世」でしょうか。 (ムリありすぎ) 彼が「戦争やりてー」と熱望していたプロイセンの罠にハマってしまった話は有名です。 話はスペインから始まります。 1868年にスペインで革命が発生し、スペイン国王が亡命する事件が発生。 臨時政府は次の国王として「ホーエンツォレルン家」のレオポルドを指名します。 この「ホーエンツォレルン家」というのは「プロイセン王家」でして、 レオポルドはプロイセン国王「ヴィルヘルム1世」の遠い親戚にあたる人物。 しかし、これに対してフランスが猛抗議します。 あたりまえでしょう。 これを認めたらフランスは「プロイセン王家」に挟まれてしまってマズーです。 フランス皇帝「ナポレオン3世」の態度は非常に強硬でした。 「絶対にそれは認めんっ!」 一方、プロイセン国王「ヴィルヘルム1世」はどうしていたのか。 というと このとき彼は「エムス温泉」で休暇中。 のんびりしてました。 まあ、熱海か箱根でゆっくりしてた。 と考えてください。 そんな状況下では、めんどくさい政治問題なんて考える気にもなりません。 「いいよー。 フランスがそう言うなら、レオポルドに辞退させるよ」 こうして「スペイン王位継承問題」はプロイセンが譲歩し、 レオポルドは王位継承を辞退する声明を出します。 この時点ではフランスが「政治的勝利」を収めていました。 プロイセン宰相「ビスマルク」は、この報告を受けて激怒します。 「なんだよー。 オレがいない間に勝手なコトしやがって~」 フランスと戦争したがってたビスマルクは、 「ナポレオン3世を挑発しまくって開戦させよう」 と考えていたのですが、既に後の祭り。 いまさらどうしようもありません。 しかし、ここでフランスが調子に乗ります。 フランス大使が「エムス温泉」でのんびりしているヴィルヘルム1世に謁見。 「今後、ホーエンツォレルン家は二度と 『スペイン王位』 を要求しない旨を ナポレオン3世に誓約しなさい」 と要求したのでした。 さすがにこのあつかましい要求には、ヴィルヘルム1世もムッとします。 ヴィルヘルム1世は丁寧にフランスの要求を拒絶し、 その事をベルリンにいるビスマルクに打電しました。 このときビスマルクはベルリンで、参謀総長のモルトケと夕食をとっていました。 「あーあ。 フランスと戦争したいなあ~」 「いや。 全くですなあ」 と、そこへ国王からの電報が届きます。 これを読んだビスマルクはニヤーリ。 すぐにビスマルクは電報の文章を改竄して新聞に発表します。 「国王が憤然としてフランス大使を蹴飛ばして追い返した。 貴様らなんぞに言うことなし」 これを読んだフランス国民は激怒して世論沸騰。 フランス政府は世論に流されるままにプロイセンとの開戦を決定し、 返り討ちにあって大敗したのでした。 まあ、いつでもどこでも対立する2国間とはこういうモノ。 この「エムス電報事件」は、最も鮮やかに決まった策略として有名です。 ちなみにかつてワークスで行われた「ディプロ」では「エムス電話事件」ってのが あったらしいのですが、ネーミングセンス良すぎです。 w とにかく政治はゲーム。 船出すのも参拝するのも頭使ってやって下さい。
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