だから僕は音楽を辞めた 歌詞 意味。 ヨルシカ「だから僕は音楽を辞めた」の歌詞の意味・解釈を考察してみた

ヨルシカ 初のフルアルバム『だから僕は音楽を辞めた』をリリース決定

だから僕は音楽を辞めた 歌詞 意味

いつもDLかサブスクで音楽を聴いている。 ヨルシカを聴いたのは初めて。 最初に。 歌詞カードがほしくてCDを探しているなら、初回限定盤はおすすめしない。 この詩のお菓子箱に、考えているような歌詞カードははいっていない。 「人生、二十七年で死ねるならロックンロールは僕を救った」 耳から離れない歌詞。 どういう意味なんだろう。 胸を掻き立てられるのに意味がイマイチわからない。 歌詞を見ながら聴いたらわかるのかな。 わかりたい。 CDを買おう。 久しぶりに。 3日間、全曲をサブスクで聴き続けて決めたんだし、気合いを入れる。 レビューを読み込む。 ヨルシカファンによる書き込み率が高いのか。 初回限定版を勧めるレビューが多い。 箱にメモが入っていて、それが「エルマ」への手紙のようらしい。 いい仕掛けだ。 興味が沸いて、初回限定版を購入。 しばらくして、ほんとうに箱が届いた。 茶色い小さなお菓子箱みたい。 なんの変哲もない。 旅のお土産を開けるみたいな気分だ。 「PCにCDを読み込ませているあいだにメモを読んだ」というレビューがあった。 ついつい、ならって取り込み中にメモを読み進める。 恋に破れた。 バイトも逃げ出した。 音楽を辞めた。 そして人生も…27歳で辞めるために異国へ旅に出た「僕」。 なるほど、これは手紙だ。 青いインクの、かすれた手紙。 あいだに写真が挟まっている。 雰囲気のある、異国の路地や街並み、海や木々の写真。 サブスクで聴いている時、インストゥルメンタルが挟まれてる……と不思議に思っていた。 イントロとしてインスト曲が配置されているCDはよくある。 手紙を読んでもらうためじゃないだろうか。 これは手紙か、もしくは日記。 エルマにあてた。 たぶんだけど……ただひとつの方法を除いてこの長い私的なメモを人に読んでもらう方法は、ない。 それくらい、いろんなことがこまごまと、思いつくままにつづられている。 本なら読みやすいだろうにメモだよ。 カードの束。 たったひとつの方法、それが「音楽」だった。 カードの束の下に、CDケースが入っている。 物語の中に入り込んでしまったようだ。 「エルマ」も、もしこんなものが届いたら、CDを掛けながらメモを読み始めるんじゃないだろうか。 手紙だと思って読み進めていたカードには、写真が挟まれている。 そして、 手紙だと思って読んでいたものの中に、「歌詞カード」が混ざっていたんだった。 なぜ「写真」が挟まっているのか? 写真が出てくると、だいたいは 次のカードは「歌詞」の合図だった。 挟まれているインストは、それ以外の、つまりほんとうの「手紙」を読んでもらうための「間隙」なのか。 だって読むんだもん。 現に自分が、 インストの間に歌詞カードでもなんでもない、「手紙」の部分をさ。 タイトル自体に日付が多かったのは、このCDが「1年間」ぶんの物語で構成されていたから。 この「手紙」の束にはすべて日付が入れられている。 そして面白いのが、「日付」は前後する。 起こった順番に並んでいない。 これは「エルマ」への「手紙」だから、「伝えたい順番」に並んでいるんだろうか? すごいものを買ってしまった。 インストの間に「手紙」を読む。 歌が始まってしまう。 あわわ、歌詞カード、歌詞カード……カードをまた猛烈に戻して、ふせんの役割をしている写真を頼りにエイヤッとめくっていく。 必死だよ。 順番を保つのに。 慌てまくってるのに必死。 だって、たぶん、この順番に意味があるんだ。 しかももうこれを並べた人間はいない そうなのか!?どうなんだ!?。 元に戻せないものをつくるな。 天才なのか。 そう思ったら泣けてきた。 泣きながら「六月は雨上がりの街を書く」を読む。 サブスクで聴き流してた時は泣かなかったのに、やっぱり物語の没入力はすごい。 「手元にある」っていうのはこういうことなんだな。 今じゃ「僕」の人生を聴き流せない。 「人生、二十七年で死ねるならロックンロールは僕を救った」 これだ。 この歌詞の意味を知りたくて、このCDを買った。 それは薄々、中盤頃の「手紙」の内容でわかってきてた。 わかってしまって、次から次から、歌詞カードを見つめながら、どの曲でも泣き始めてしまう。 何回か出てくる8月のカードは、2つの「8月」のことを描いている。 「音楽を辞めた8月」と、「人生の最後にしようと決めた8月」だ。 曲調が異なる理由は、「怒りの量」にあるのではないかと思う。 「手紙」の中で「 創作は怒りによって行うものだ」という持論が展開されているからだ。 そして、怒れなくなったから、音楽を辞めたともある。 「見返したい」という気持ちより「売れたい」「認められたい」という気持ちが勝るようになった。 だから「音楽を辞めた」。 けれどそんな中でもまだ、 「怒り」を歌った歌は、「僕」にとっての「ロックンロール」だったんだろう。 初めて聴いた時、「だから僕は音楽を辞めた」がいちばん好きだと思った。 とてもエモーショナルだし。 藍二乗も最高。 八月、某、月明りもいい。 夜紛いもすごくいい。 五月は花緑青の窓辺からなんかはもう、すごくすごく、いい。 藍二乗以外は「怒り」を歌っているような気がしないでもない。 「夜紛い」に振られた日付は7月だけど、「手紙」を読んでいるとあの路上ライブをした日にも「夜紛い」という表現が出てくるから、 1回目の8月に込められた失望感、怒り、喪失感、激情は大きいことがわかる。 「だから僕は音楽を辞めた」は「去年の8月」を歌っている。 「手紙」では「どうでもよかった」と書かれていた。 だけど、ここで仮説を立てた。 もっとも「どうでもよくなかった」のが、あの路上ライブの最中に「中年の男性」に言われた言葉だったんではないだろうか。 「詰まんない歌だな」。 それが、創作に必要な 消えかけていた 「怒り」を呼び起こした。 え? どうして、 いちばんのエモーショナルが「エルマ」に向けたものじゃないのかって? これはほんとうに個人的な解釈で、聴く人の数だけ答えがあると思う。 でも、終始「エルマ」に書かれているはずのこの「手紙」。 読んでいると、恋はしているけど、恋しい人に対しての手紙というよりは、 「同じ創作をする者としての苦しみ、葛藤に共感を求める」内容が色濃そうに見えないか。 わかんないよ わかんないよ わかんないよ…… 「詩書きとコーヒー」より。 だってだって、一枚目の「手紙」にこう書かれている。 「結局僕には音楽しか」。 何処まで往っても作品のことばかりと言ってる。 彼は、27歳で死んでいったミュージシャンたちのように「終わり」を自分に与えたくて旅に出た。 「エルマ」への断ちきれない想いが「音楽」を作らせるのか、「音楽」を捨てられないから 「エルマ」を歌ってしまい「エルマ」を断ち切れないのか、混然一体となったカオスで「僕」は異国の街をさまよい歩く。 やっぱり、彼は「エルマ」が好きなのに、 いちばんのエモーショナルが掻き立てられるのが「自分」と「自分の音楽」についてなんじゃないか? それを苦しんでいるんじゃないか。 似たようなことが書かれている。 「エルマ」への愛こそが「音楽」と認めてしまうと、自分の 生々しい、生活に紐づいた 「人生」が「芸術」を生み出してしまって、 「芸術」が「日記」のようになってしまう。 「その矛盾がずっと、苦しかった」って。 「僕」の「芸術」、「音楽」は尖って鋭くて、ナイフみたいに「だれかに風穴を空けるもの」じゃなきゃいけなかった。 たぶん「僕」は日常が、生活が楽しくなかったんだろう。 日常に「怒り」はあんまりないからね。 怒りや鋭さこそが「詩的」だと思うなら、あったかい日差しや、「エルマ」への気持ち、コーヒーを飲んでゆっくりする時間は「詩的」じゃないもんな。 傍から見るとすごく詩的な感性なんだけど……。 「怒り」は薄れるわ、「愛」なんてもんから「音楽」が生まれてしまうわ、 愛が生まれちゃったら日常全部が輝いちゃって、日常や君のことを歌い出すわ、そしたら人生が全部芸術に紐づいちゃって、「日記」を歌い始めちゃって苦しいんだよ。 だから「僕」は音楽が楽しくなくなってしまったんじゃないだろうか。 「エルマ」のことを「歌」「音楽」にしてしまうのにも苦しんでる。 想い出になる 君が邪魔になっていく 想い出になる 君が詩に成っていく 「詩書きとコーヒー」より。 そういえば「八月、某、月明かり」が歌われたのは、1回目の8月の7日。 「初めてバイトを逃げ出した」ときの歌なんだね。 なるほど「怒り」があふれ出すように「音楽」になっていっている。 こういうものが書きたいのに、「詩書きとコーヒー」ができてしまう。 「嫌いだ。 わかんないよ。 君が邪魔になっていく。 幸せの色は準透明。 なら見えない方がよかった」。 「八月某、月明かり、自転車で飛んで東伏見の高架橋、小平、富士見通りと商店街」 「僕」はこんなに苦しんでいるのに、なんていい歌詞なんだろう。 教科書に「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る/正岡子規」という短歌があった。 あれなんだ。 圧倒的に写生的だ。 自分も怒りで自転車を飛ばす時に、こんなふうにくっきり高架橋が目に飛び込んできてほしい。 今通りを突っ切っていると自覚してみたい。 これを自覚して、文字に起こし、書き留めるその精神性こそが「詩書き」であって「音楽」なんだろう。 「人生、二十七年で死ねるならロックンロールは僕を救った」 27で死ねるなら、 かろうじて ロックンロールは僕を救ったことになる。 ロックンローラーで終わりたかった。 ロックンロールは非日常だから。 非日常だけが芸術で、日常は芸術じゃなかった。 「僕」は音楽を辞めてしまった。 こんな写生的な目を持っていて、 「日常も、愛もまた芸術だ」と思えなかったことが一番の悲劇だ。 曲を聴きながら考えるのは、彼が死んだのかどうか。 いや、不毛な話だけど……。 2度目の8月に彼はどうしていたんだろう。 彼は「音楽」を手放してたんだろうか。 「手紙」を手繰る。 「エルマ」。 最後に選ばれたのはエルマ。 もうさよならだって歌った。 暮れて夜が来るまで。 歌っている。 エルマを。 この歌は、この「手紙」は、怒りじゃない。 「怒り」じゃないこの曲は、「音楽」じゃなかっただろうか? いや…… いや。 音楽だ。 音楽だって叫びたい。 聴いてる側が思うのは、創作物を食べる側の人間は残酷だってことだ。 音楽を作る人間が、いや、 芸術を作る人間が苦しみ、もがき、足掻き、のたうち回る姿を美しいと思う。 塩をふりかけられても美味しいと思い、カカオニブの苦さを美味しいと言い、レモンの酸味も唐辛子の辛さもすばらしいと言ってたいらげる。 これだけは入れたくないんだ、と創作者が砂糖を使っても、これはデザートだ大好きだよ、と言う。 なんて残酷な話だ。 何処かの遠い国で、浅い夏の隙間に寝そべったまま、歌っていた。 夜が来るまで歌っていた。 「僕」は最後まで音楽を辞めてなんかいなかった。 「僕」が「音楽」だと定義していたもの、「怒り」から抜け出してしまっただけだ。 何処かの遠い国で、夜が来るまで「エルマ」を歌った。 その姿は、見る側のこちらの人間からは間違いなく美しいものなのに「僕」には違う。 頑なに「音楽」とは「ロックンロール」だったんだな。 だから手紙の一番底に入っている歌詞が「だから僕は音楽を辞めた」だったんだろう。 「辞めた音楽」をまた始めさせてくれたのがなんだったのか、そこには書かれて……最後は読めない。 なんてことなんだよ。 認めかけている。 愛も音楽だと。 最後の日に。 もう「エルマ」を同じ気持ちで聴くことはできないよ。 どうして「エルマ」をラストにしない? すごすぎるでしょ。 どうして1度目の8月をラストの曲にできるんだ。 この箱がなんなのか、それは「手紙」に書かれている。 しつこく書くけど、歌詞カードがほしくてCDを探しているなら、初回限定盤はおすすめしない。 このお菓子箱のような木目の箱には、考えているような歌詞カードははいっていない。 こういうふうにCDを手元に置いておきたい。 この写真の撮られた街へ行ってみたい。 ヴィスビーに行きたい。 サンタ・マリア大聖堂から右方の階段を登って、街を一望する丘の上の道に出たい。 アルメダールを出て北に伸びる道、輪壁沿いの海岸線を臨む木陰のベンチからこの奇妙な石灰岩と海を見たい。 この青を見たい。 ずっと綴られていたこの青いインクみたいに青い青を見たい。 ここには見たこともない、「かたちのあることの意味」が、はいっている。

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ヨルシカ「エルマ」における感想と考察

だから僕は音楽を辞めた 歌詞 意味

このことから、藍二乗はエイミーがへと旅をする前に、エルマのことを想って書かれた歌だということがわかる。 藍二乗の藍はエイミーが使う万年筆のインクの色であると同時に、2乗すると「-1」になる単位の「i」、つまり 「君がいない」ということを表している。 楽曲を通してエルマに会いたいけれど、もう会うことはできないという、何かの決意のようなものを感じる。 そしてMVの最初、黒い画面の中に小さく「dear」の文字が見える。 この楽曲自体がエルマへ向けた手紙ということなのだろう。 また、「止まったガス水道」という歌詞から光熱費を払うことができない状況、つまりエイミーは仕事を辞めていることが伺える。 もちろんテレビも新聞もある筈がなく、世の中で起こっているニュースも知らずに、ただ曲作りに集中していたのだと思われる。 あの頃ずっと頭に描いた夢も大人になるほど時効になっていく ただ、ただ雲を見上げても 視界は今日も流れるまま 遠く仰いだ夜に花泳ぐ 春と見紛うほどに 君をただ見失うように 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この一節からは、かつて思い描いていた夢を諦めている様子が伺えるが、 エルマを思い出している間だけはそんな過去を忘れ、心に春が来たような気持ちにさせてくれていたのだろう。 けれど自分で作った曲は売れず、人生が思うようにいかないことを知り、何を信じていけば良いのかわからなくなってしまった。 (顔中を覆っているインクのようなものは、涙を流すエイミーの心情を表しているのかもしれない。 ) 人生は妥協の連続なんだ そんなこと疾うにわかってたんだ エルマ、君なんだよ 君だけが僕の音楽なんだ 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna これは売れる為には自分の作りたい曲ばかりを作っていては駄目なんだと、まるで自分に言い聞かせているようでもあり、エルマの作る音楽こそが自分の求めていたものだと述べていることから、エルマの持つ音楽の才能に気づいていたことを示していると思われる。 この詩はあと八十字 人生の価値は、終わり方だろうから ただ、ただ君だけを描け 視界の藍も滲んだまま 遠く仰いだ空に花泳ぐ この目覆う藍二乗 「藍二乗」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「この詩はあと八十字」から、きっちり歌詞が80字で終わっている為、エイミーは物語の完結に対する強いこだわりを持っていた同時に、エイミー自身の寿命があと僅かであったということを示唆しているのかもしれない。 それと「視界の藍も滲んだまま」には、藍二乗のもう1つの意味が表されている。 エイミーが空を見上げると涙で視界が滲み、空の藍色が 涙で二重に見えるという情景だ。 MVの最後には、エイミーと思われる男性が空っぽの木箱に手紙を入れている様子が映されている。 きっとこの歌がエルマに宛てて作られた最初の楽曲なのだろう。 インク瓶• 万年筆• カメラ• 詩と楽譜を仕舞う木箱• バイトで貯めた資金 と最低限の荷物を持って、人生最後の旅に出ることを手紙で宣言している。 そして、この街の聖堂で詩を考えるのがになっているという記述から、恐らくこの「詩書きとコーヒー」もそのルンド大聖堂で作られた曲である可能性が高い。 最低限の生活で小さな部屋の六畳で 君と暮らせれば良かった それだけ考えていた 幸せの色は準透明 なら見えない方が良かった 何も出来ないのに今日が終わる 最低限の生活で小さな部屋の六畳で 天井を眺める毎日 何かを考えていた 幸せの価値は60000円 家賃が引かれて4000円 ぼやけた頭で想い出を漁る 「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 幸せの色は 準透明とは2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」 の収録曲であるのことを指し、確かに存在するが、目に見えない 幸せというものに対して、それが自分の元を去っていく エルマにはもう会えないという不幸を感じる くらいなら、そもそも幸せなんて知らないほうが良かったと表現しているのだろう。 そして幸せの価値という言葉も2ndミニアルバムの収録曲の歌詞 幸せの文字が¥を含むのは何でなんでしょうか。 「」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna から由来しているものと思われる。 つまりここで言う幸せとは、お金と関係する意味合いを持ち、 幸せとお金は繋がりのあるものという認識がエイミーにもあって、 お金 給料 =幸せの価値と捉えていたのかもしれない。 従って、給料の60000円から家賃の56000円を引かれて、残りは4000円という生活の苦しさを歌詞で表しているものと考えられる。 また、「少し大きくなった部屋」からは、家具などを引き払い、どうにか生活をやりくりしていた様子が伺える。 寿命を売るなら残り二年 それだけ残してあの街へ 余った寿命で思い出を漁る 「詩書きとコーヒー」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「寿命を売る」なんていう表現は、一般的に使われることはない。 これは例えば何かの作品を世に出すような、創作家などが使う 活動期間のことを指すのではないだろうか。 そして本来はあと二年でその人生に幕を下ろすはずだったのかもしれないが、実際エイミーはこの旅を始めてから一年も経たずしてその生涯を終えることになる。 エイミーは人である前に芸術家であった。 その部分が勝ってしまったが故に、エイミーは人としての普通に関してあまり興味を持たなかったのだろう。 しかし、エルマと出会ったことで普通の生き方(エルマとの生活)に憧れ、求めるようになったが、とあるきっかけ(恐らく寿命)でそれが叶わぬものと知り、世界に、己の人生に失望してしまったのではないかと思われる。 これは推測だが、手紙に「に向かう道中でスリに遭った」と記されており、分けて保管していた現金とインクを盗られている。 このことから当初、エイミーは曲の制作活動を二年間行える程の資金とインクを持ち合わせていたが 詩書きとコーヒーより 、スリに遭ったことによってその活動期間を縮めざるを得なくなってしまったのかもしれない。 そして自分の人生の期限さえも自分で決めてしまう程の芸術至上主義だったということになる。 (インクの量=寿命と決めていた。 ) 更に、が遺した は三尺の童にさせよ という言葉についても触れていて、慣れて技巧ばかりを凝らすようになってしまった自分の音楽は、既に賞味期限が切れており、今まで続けていたものは所詮、芸術の真似事に過ぎないのだと心境を明かしている。 エイミーはこの時点で、リンショーピンという街に訪れているようだ。 数日前に書いた詩について 「青」とは毒性の人工染料で、エイミーが万年筆で使用していたインクのことだ。 恐らく、ノーチラスで服用していたものも「青」だと思われる。 そしてエイミーは「青」にもう一つの意味を持たせていた。 さようなら 青々と息を呑んだ 例う涙は青だ 黙ったらもう消えたんだよ 馬鹿みたいだよな 思い出せ! 「五月は青の窓辺から」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 手紙によると、あの詩に書かれているのは全て涙のことであり、涙というのは毒に近いものだと表現している。 涙は自分の弱さを正当化するための麻酔であると共に、辛い現実から目を背ける「逃避」なのだという。 加えて、作品を笑われた時のことを自分の弱さ=毒だと述べており、このことから、エイミーは過去に自分の作品を馬鹿にされた経験があるようだ。 従って、激しいロック調で演奏されているこの楽曲は、その時のエイミーの怒りを表しているのではないだろうか。 しかし、一つ気になる点がある。 「空いた教室」、「指を指された僕」など歌詞の中に学生時代を連想させる言葉が入っていることだ。 あくまで自己解釈だが、これは学生時代に出会ったエルマとの思い出ではなく、エルマに音楽を教えていた夏の記憶ではないだろうか。 エイミーは音楽を教えるという立場から、エルマといたその場所を教室と例え、その時間をまるで学生時代のように歌詞で表現したものと思われる。 けれど、エルマに音楽を教えている内にその才能に気づいてしまい、心のどこかで嫉妬のような感情が少しずつ湧きあがる。 そこに売れない自分の作品に対する怒りが重ね合わさり、涙さえも否定するという心情をこの歌詞で伝えようとしていたのかもしれない。 嗚呼、人間なんて辞めたいな そうだろ、面白くも何にもないだろ 嗚呼、自慢のギターを見せびらかした あの日の自分を潰してやりたいよ 伝えたい全部はもう 夏も冬も明日の向こう側で 灰になったから 淡く消え去ったから 疾うに失くしてたこの情動も何処かへ投げ捨てて 君がいいのなら ただ忘れたいのなら もう躊躇うことなんてないよ このまま夜明けまで踊ろうぜ 「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この歌詞では、それなしでは生きられない程に、自分の人生を変えてしまった音楽に対する恨みとその音楽を選んてしまった自分へのやるせない思いを表しているのだろう。 そしてそれら全てを、皮肉にも「踊ろうぜ」という曲名の歌で忘れ去ろうとしているように感じる。 嗚呼、音楽なんか辞めてやるのさ 思い出の君が一つも違わず描けたら どうせもうやりたいこと一つ言えないからさ 浮かばないからさ 君を知ったまま 日々が過ぎ去ったから どうか追いつきたいこの情動をこのまま歌にしたい 今が苦しいならさ 言い訳はいいからさ あぁもう、踊ろうぜほら 「踊ろうぜ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna エイミーにとって、音楽の他にやりたいことなど無く、思い浮かばなかった。 だから、の旅を通じてエルマに宛てた手紙と詩(楽曲)を書き終えることができたなら、音楽を辞めることにするという決意をこの時点で抱いていたのかもしれない。 ヴィスビーについて 時代に繁栄していた貿易都市で、今も中世の匂いが色濃く残る遺跡の街。 「輪壁」と呼ばれる、街の周囲をぐるりと囲む城壁は中世に作られたもので、年月が経っても変わらない姿を見ることが出来るそうだ。 恐らくここで言う「輪壁」は、エイミーの心を覆う 障壁のことを指しているのではないだろうか。 それと、エイミー個人の話も綴られていた。 昨夏の初め頃、バイトを辞めたエイミーは、久し振りに駅前で路上ライブを行っていたようで、ふと目の前を見ると、一人の中年男性が立ち止まって歌を聴いていたらしい。 そして次の曲が終盤に差し掛かった時、その男性が感想を言った。 「詰まんない歌だな」 その言葉を聞いてエイミーは、ただどうでも良かったと記しているが、手紙の最後には あの日見た夜紛いの夕暮れを、まだ忘れられないままでいるという怒りとも呼べない感情を書き表していた。 がらんどうの心が夕陽の街を歩いてく 銃身よりも重いと引き攣ったその嘘の分だけ 人生ごとマシンガン、消し飛ばしてもっと 心臓すら攫って ねぇ、さよなら一言で 「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna マシンガンという単語には2ndミニアルバム「負け犬にアンコールはいらない」の収録曲に似た、心の中に宿ってしまった破壊衝動を表しているものと思われる。 人生ごとマシンガン 消し飛ばしてもっと 苦しいんだと笑って ねぇ、さよなら一言で 君が後生抱えて生きていくような思い出になりたい 見るだけで痛いような ただ一つでいい 君に一つでいい 風穴を開けたい 「夜紛い」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 風穴を開けたいという歌詞は、一見すると物騒な言葉だが、 これはエルマにこのまま忘れられたくないという思いと、こんな自分を認めてほしいという存在欲求を比喩した言葉だと思われる。 つまりエイミーはエルマにとって、いつまでも忘れられないような 特別な存在になりたかったのだろう。 そしてその記憶を忘れない為の方法を探していた。 その答えがエイミーの取り柄でもある音楽の中、つまり歌詞に綴るという表現方法だったのであろう。 これは個人的な解釈だが、「ひとりぼっちのパレード」というどこか矛盾を感じる言葉には、エイミーが一人でエルマへの思いを書き連ねるパレード(文字の行列)という本来のパレードとは相反する儚い意味合いが込められているのではないだろうか。 ずっと前から思ってたけど 君の指先の中にはたぶん神様が住んでいる 今日、昨日よりずっと前から、ずっとその昔の昔から。 わかるんだ 「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna エルマの指先に注目して、まるで褒め称えているかのようなこの歌詞は、もしかしたらエルマが弾いていたピアノを指しているのかもしれない。 そしてそのピアノの音色に、自分にはない音楽の才能を見いだしていたのだと思われる。 また、この手紙はエイミーが書いた「パレード」の詩の翌日に書かれたものであり、その後日談のような内容たった。 身体の奥 喉の真下 心があるとするなら君はそこなんだろうから 「パレード」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 「身体の奥 喉の真下」が指すもの。 それは声(声帯)のことを指していて、目には見えないが、心臓を伝い、肺から気管を通り口から出る。 その空気の振動にこそ、心が宿るのだという。 これも推測だが、もしかしたらエイミーはもう一度エルマの声を聞きたくなったのか、 或いは感情が込められた歌声のように、心を宿らせることができるのは、人から発せられる声だけなんだということを伝えたかったのかもしれない。 それと、神様についての話も書かれていた。 神様は作品の中に宿るわけであって、人間の中に宿っているわけではないと思うのは創作家の傲慢だという。 そこにはエイミーの持つ思想について書かれており、自らをオスカーワイルドに倣う芸術至上主義者だと述べていた。 これには、その人の体験した人生や自然、社会といった周りの環境を模倣して芸術が作られるのではなく、むしろ芸術には人生を変えてしまう程の力を持っているという意味が込められている。 それから手紙の最後には、そろそろインクが尽きようとしている旨が書かれていた。 ヴィスビーは本当に良い街だけど、長居し過ぎてしまった。 お金もインクの残りも少なくなっている。 どうやらエイミーはこれからへ戻るようで、そこは彼が幼少期に住んでいた街らしい。 バイトを辞めたことについて 正確に言うと、逃げ出したようだ。 その日は綺麗な欠けた月が出ていたようで、自転車に乗っての駅前を無心になって漕いでいたという。 そしてその時にエイミーはもう、この夏で全てを終わらせる覚悟を決めていたようだ。 良いミュージシャンについて ロバートジョンソン、ジミヘンドリクス、ブライアンジョーンズ、ジムモリソン あの頃の良いミュージシャンは、皆27歳でこの世を去った。 27クラブなんて言う有名なジンクスもあるくらいだ。 この言葉から、(決して共感できることではないが)エイミーは27歳で人生の幕を下ろすことに美徳のようなものを感じていたのだと思われる。 手紙の最後には、の引用 「人生は何事をもなさぬにはあまりに長いが、何事かをなすにはあまりに短い。 」 という詩と共に、 一滴の涙の跡と思われるシミが付いていた。 心臓が煩かった 歩くたび息が詰まった 初めてバイトを逃げ出した 音楽も生活も、もうどうでもよかった ただ気に食わないものばかりが増えた 八月某、月明かり、自転車で飛んで の高架橋、小平、富士見通りと商店街 夜風が鼻を擽ぐった この胸の痛みは気のせいだ わかってた わかった振りをした 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この楽曲は歌詞全体を通して、自暴自棄ともとれるエイミーの荒々しい感情が表現されている。 その原因と思われる言葉が、歌詞の中に散りばめられており、何らかの病気を示唆しているものと思われる。 「心臓が煩い」• 「歩くたび息が詰まる」• 「胸の痛み」 心臓が煩かった 笑うほど喉が渇いた 初めて心を売り出した 狭心もプライドも、もうどうでもよかった 気に食わない奴にも頭を下げた 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 歌詞に出てくる「狭心」という言葉。 このことから推測できるのは、恐らくエイミーは 、或いは心臓の病気を患っていた可能性があるということだ。 病気の正体を知ってしまったエイミーは、その人生がもう長くはないことに気づき、このような死を意識した楽曲を作ったのではないかと考えられる。 最低だ 最低だ 別れなんて傲慢だ 君の全てに頷きたいんだ そんなの欺瞞と同じだ、エルマ 「八月、某、月明かり」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna この時のエイミーにとって、唯一の心残りはエルマであり、エルマにある音楽の才能をどうにかして本人気づかせたかったのだろう。 しかし、エイミーがそれをしてしまえば、自分にはその才能がないことを認めてしまう。 (自分の音楽を否定することになってしまう そんな嫉妬と葛藤するエイミーの思いが、この楽曲から感じられる。 その違いと理由について考えてみた。 一、「あんた」はエイミーの人生に影響を与えた外的要因。 ニ、「あんた」はエルマを皮肉った言葉。 まず前者は、エイミーの人生や考え方を決めてしまった(決めざるを得なくなってしまった)外的要因をまとめて、「あんた」と呼んでいたのではないだろうかというものだ。 病気の発覚や自分の作った音楽が売れない現実、才能のあるエルマとの出会いなどの体験は、エイミーにとって人生観や考え方を狂わせてしまった大きな原因であったと思われ、それらのせいで「僕は変わってしまったんだ」という自己主張なのだと考えられる。 そして後者は、やはり「あんた」という二人称はエルマのことを指しており、エルマの存在が自分を変えてくれたのだということを伝えたかったのではないかというものだ。 エルマと出会う前のエイミーは、夢を諦め、売れることだけを考えながら曲を作っていた。 しかし、エルマと出会い、彼女の価値観や作品に対する考え方に触れていく内に、売れることなんてどうでもいいことなんだと気付かされ、本来のエイミーの音楽を思い出させてくれたのだろう。 そのことを、感謝の意味を込めて「エルマのおかげ」と伝えようとしたが、素直になれないエイミーは「あんたのせい」と皮肉めいて書いてしまったのだと考えられる。 考えたってわからないし 青春なんてつまらないし 辞めた筈のピアノ、机を弾く癖が抜けない ねぇ、将来何してるだろうね 音楽はしてないといいね 困らないでよ 心の中に一つ線を引いても どうしても消えなかった 今更なんだから なぁ、もう思い出すな 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna 心の中に線を引いて(He/art:彼/芸術)音楽と距離を置いてみても、指で机を弾く癖が抜けないというこの歌詞からは、エイミーがかつて憧れていたピアニストの夢を未だに捨てきれないでいる様子が伺える。 このことから、やはりエイミーの人生には音楽しかなかったということがわかる。 幸せな顔した人が憎いのはどう割り切ったらいいんだ 満たされない頭の奥の化け物みたいな劣等感 間違ってないよ なぁ、何だかんだあんたら人間だ 愛も救いも優しさも根拠がないなんて気味が悪いよ ラブソングなんかが痛いのだって防衛本能だ どうでもいいか あんたのせいだ 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna それと同時に、音楽のことしか考えられない芸術至上主義のエイミーは、大切な筈だったエルマに対しても嫉妬を抱いてしまう己の醜さを「化物みたいな劣等感」と称していたのだと思われる。 僕だって信念があった 今じゃ塵みたいな想いだ 何度でも君を書いた 売れることこそがどうでもよかったんだ 本当だ 本当なんだ 昔はそうだった だから僕は音楽を辞めた 「だから僕は音楽を辞めた」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna そんな音楽に対する葛藤と矛盾が、エイミー自身を狂わせ、行き着いた果てが 音楽を辞めるという決断に繋がってしまったのではないだろうか。 そして手紙の初めには、もうインクが残り僅かになったことが書かれていた。 (実際に文字が少し掠れている) それとエルマに向けて、箱に入れた詩と曲は全て君のものであり、僕にはもう必要ないと述べ、作品のことばかり考える自分自身のことを「芸術狂いの醜い化物」と呼んでいた。 冒頭、インクが切れたようで、文字がかなり掠れている。 そこには、エイミーの人生観が綴られていた。 終わりのない小説は詰まらない。 それは人生にも言えることであり、エイミーにとってその物語は音楽でしか表せないそうだ。 そしてこの箱に入れられた詩曲が、エイミーを象った人生そのものだという。 それから、この手紙を入れた箱はエイミーが送った訳ではないらしい。 どうやらエイミーは、そのうち親切な誰かが送ってくれることを祈って、エルマの住所を書いたメモ書きを箱に添えただけのようだ。 (ということは、にわかには信じがたいが、物語としては本当にそうなったことになるのだろう) その人生は妥協の連続だったようで、エイミーはピアニストに憧れていただけではなく、小説家にもなりたがっていたらしい。 そんな一度音楽を辞めたエイミーが、こうしてまた夢を諦めきれずに詩を書き始めるようになったのはエルマの詩を読んだからだそうだ。 エイミーは、その時触れたエルマの詩に「月明かり」を見たようで、それは夜しか照らさない無謬の光を放っていたという。 そして手紙には、数滴の滲んだ涙と思われる跡が付いていた。 嘘つきなんて わかって 触れて エルマ まだ まだ痛いよ もうさよならだって歌って 暮れて夜が来るまで 「エルマ」ヨルシカ 作詞・作曲:n-buna.

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ヨルシカ「エルマ」における感想と考察

だから僕は音楽を辞めた 歌詞 意味

「こんなこと」というのは、やはり「別れ」だと思います。 「嫌いになったから別れた」という単純なことではないんだと思います。 岩沢さんの詞は一見すると抽象的な言葉が多いですが、聞けば聞くほど深いなぁと思います。 わたしはこの歌を初めて聞いたときは中学生でしたが、10年ちかく経った今、歌詞を読むと改めて人間味があっていい歌だなぁと思いました。 う~ん、何ていうか… 気持ちがわからなくなって(からっぽな感じ)別れを選んだと。 別れた後にはよくある事では? 微妙な複雑な気持ちを歌ってるんだと思います。 私も、以前、長く付き合っていた彼の事が好きかわからなくなって別れを告げた事があるので、なんとなくその時の感情に似てる気がするんです… とにかく切ない曲ですが、大好きな曲です。 歌は聞いたことがありませんが、歌詞を拝見しました。 難解ですね。 自分では好きという意味(本当の愛)を理解していなかったので、それが原因で別れを告げた。 虚しさを伴った言葉は、本心ではなく偽りの言葉、それを彼女に告げることで自分の気持ちが空々しくからっぽになった。 けれど、歩き出したというのは、彼女から逃げたかった。 彼女に見られて悲しくなるのは、そんなからっぽの自分を見透かされそうだから。 悲しいのは、いたたまれないというより、自分のからっぽさに気づくからでしょうね。 偽りの自分、からっぽの自分でいる間は、君の本当の姿は僕の中には映らない。 でも、君の本当の姿(影)を探している。 忘れることができない自分がいる、、つまり、本当の愛を常に探し求めている自分がいるから。 君の影を見つけるとき、それは偽りの自分ではなく、本当の自分を見つけたときだから。 君の影は、自分の本当の姿を暗示しているのではないでしょうか。 そして君の本当の姿(影ではない君)が、僕の中に映るとき、それは愛を見つけたとき。 主題は、愛をさがすからっぽな自分でしょうか。 私なりの解釈ですが、参考になれば。

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