ヒットラー の 息子。 ヒトラーの子孫の今

ヒトラーの子孫の今

ヒットラー の 息子

確かに彼らは、希代の悪人でした。 自分に反対する者については、容赦なく強制収容所へ放り込み 多くの国民を弾圧し、そして殺害しました。 彼ら3人の独裁者は、親から、虐待され続けたせいで、 徐々に心が歪んでいき、平気で多くの人間を、弾圧・殺害するような 冷酷・残忍な性格になっていったのかもしれません。 それでは、彼ら独裁者たちは、幼少時代 親から、どのような虐待を、受けてきたのでしょうか? それを、次に書いていきたいと思います。 スターリンが受けた虐待 スターリンの父親であるヴィッサリオンは、ひどいアルコール依存症で、 気に入らないと事があると、すぐに 妻と子供 スターリン を、ムチで打って、虐待していました。 そのために幼子は、何日か、血尿が止まらなかった。 」 このように、ひどい虐待を受けてきたスターリンでしたが、 スターリンにとって、さらに不幸だったのは この父親だけでは無く、母親までもが スターリンを虐待した、という事でした。 スターリンの母親であるエカテリーナは スターリンが言うことを聞かなければ、 しつけのために、スターリンの事を、容赦なく殴ったのです。 なぜなら母エカテリーナの体罰と、父ヴィッサリオンの虐待によって 育てられた息子スターリンは、その後 数百万人を虐殺するような暴君となったからです。 ([] [] []) ヒトラーが受けた虐待 ドイツの独裁者であったヒトラーもまた、スターリンと同様に 父親から、暴力をふるわれて、育てられた人間でした。 ヒトラーの父親は、農業を営んでいましたが それが失敗に終わると、そのイラ立ちから 息子ヒトラーに対して、鞭を使った体罰を、たびたび行ないました。 しかし、ヒトラーは、ある作戦を思いつきました。 実際に、父親から殴られるたびに、その回数を ヒトラーが「1、2、3、4、5」と、大声で数え始めると ヒトラーの父親は「息子 ヒトラー が、気が狂ってしまった」と思って、震え上がり ヒトラーの事を殴るのを、やめたそうです。 ([] []) サダム・フセインが受けた虐待 イラクの独裁者であったサダム・フセインは 自身が生まれる前に、実父を亡くしており、 母親の再婚相手である継父から 暴力・体罰などの虐待を受けて、育てられました。 「信頼と愛情に満ちた親子の関係が、打ち切られ 親からの 体罰という恐ろしい目に、 子供が あい続けますと その子供は 次第に親だけではなく、周りの誰をも信頼できなくなり 『いつ危害が、加えられるか分からない』と、警戒・敵視し 相手が攻撃的では無いのに 『先制攻撃に出る、暴力的・衝動的な態度』が、身についてきます。 『反社会性人格障害をもつ犯罪者』に、特徴的なことは 幼児期から、周囲との暖かい人間関係が妨げられ 『正常な感受性、良心、道徳心』が育たず 他人の苦しみや悲しみに無関心で 『相手に、苦痛や被害を与えても、相手の痛みが分からない』など 感受性の希薄さが、感じられる事です。 」 以上の事は、「スターリン」「ヒトラー」「サダム・フセイン」の全員に あてはまる内容では無いでしょうか。 この点において 「スターリン」「ヒトラー」「サダム・フセイン」の人格形成において、 親からの虐待が、悪い形で影響した事が、うかがえます。 もちろん、親からの虐待が、全く無かったとしても、 やはり冷酷・残忍な独裁者になっていた可能性もあります。 しかし、で書きましたが、 児童虐待を防止する事によって 悪人になるかもしれない人を、善人へ 変える事ができる可能性もあるのです。 もし、彼ら3人の独裁者が 親から虐待されずに、愛情のある家庭で、育てられていたならば、 そして、その結果、良心のある人間に育っていたならば、 歴史は、大きく変わっていた事でしょう。 ヒトラーによって、引き起こされた、第二次世界大戦は 起きなかったかもしれませんし、 数百万にも及ぶユダヤ人の大虐殺も、起きなかったかもしれません。 ソ連 ロシア における、血の粛清 大虐殺 も、起きなかったかもしれません。 あるいは、「イラン・イラク戦争」「湾岸戦争」「イラク戦争」も 起きなかったかもしれません。 そのように考えていくと、「児童虐待の防止」とは 「歴史すら、大きく変える力を持つ改革」と言えるのでは無いでしょうか。 「数多くある改革案の中でも、 児童虐待の防止が、『最も重要な改革』 『全ての問題の解決に、つながる改革』であり 『児童虐待の防止』以上に、大きな影響を、世界に及ぼす事ができる改革は 他には無いのかもしれない」という事は、で書きましたが、 もし「児童虐待の防止」が、世界中で、効果的に行なわれていくならば、 まさに世界や歴史を、大きく変える事が出来るのかもしれません。 前のページ…….

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親から虐待されていた独裁者たち――ヒトラー、スターリン……

ヒットラー の 息子

概要 [ ] 出生地はであり、としてはではなくであったが、現在のオーストリア国民の大多数がそうであるようにドイツ民族に属する。 首相就任前のになってようやくドイツ国籍を取得している。 までは無名の一青年に過ぎなかったが、戦後にはにおいて、の党首としてを中心に据えたとを掲げた政治活動を行うようになった。 に中央政権の転覆を目指したの首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大した。 には大統領による指名を受けてとなり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、。 1934年8月、大統領死去に伴い、大統領の権能を個人として継承した()。 こうしてヒトラーという人格がドイツ国の最高権力である三権を掌握し 、ドイツ国における全ての法源となる存在となり 、ヒトラーという人格を介して運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築いた。 この時期のは一般的に「」と呼ばれることが多い。 ヒトラーは、、などに影響された選民思想()に基づき、が世界を指導するべき ()と主張していた。 またや経済方面におけるなど、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(・)や、、、とドイツ国民の接触を断ち、また迫害する政策を推し進めた。 またドイツ民族であるとされた者でも、、、、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者はの血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された()。 さらにや著書『』で示されているように、自らが指導する人種を養うため、旧来の領土のみならず「」として帝国主義的な領土拡張と侵略政策を進めた。 やがて1939年のに始まるを引き起こし、大陸ヨーロッパの大半を占領した。 この戦争の最中でユダヤ人に対する、障害者に対するなどの虐殺政策が推し進められた。 幾度か企てられたを生き延びたが、最終的にの反撃を受け、全ての占領地と本土領土を失いヒトラー率いるドイツ国政府は崩壊した。 ヒトラー本人は包囲された市の内でしたが、その後生存していたという説も存在している()。 出自 [ ] ヒトラー家 [ ] 父 ヒトラー家の出自については謎が多く、本人も「私は自分の一族の歴史について何も知らない。 私ほど知らない人間はいない。 親戚がいることすら知らなかった。 (中略)…私は民族共同体にのみ属している」と語っている。 出自について詮索される事も非常に嫌い、「自分が誰か、どこから来たか、どの一族から生まれたか、それを人々は知ってはいけないのだ! 」と述べており、妹は「兄には一族という意識がなかった」としている。 そもそもヒトラーの実父アロイス・ヒトラーからして出自が不明瞭な人物で、彼は地方にあるシュトローネス村に ()という未婚女性のとしてに生まれ、 アロイス・シックルグルーバーと名付けられている。 父アロイスは祖母マリアが42歳の時に生まれたかつであった。 さらに祖母は子供の父親として考えられる相手の男性について決して語らず、結果的にアロイスの台帳は空白になっている。 後にマリアはアロイス出産後に粉引き職人 ()と結婚 、アロイスは「継父と母が儲けた」で後に結婚したのだろうと語っているが、その根拠はない。 職人として各地を放浪しながら働いていたゲオルクとマリアに接点があったとは考えがたく、またアロイスはゲオルクの養子にはされずシックルグルーバー姓で青年期まで過ごしている。 暫くしてアロイスは継父の弟で、より安定した生活を送っている農夫 ()に引き取られ、義叔父ネーポムクはアロイスを実子のように可愛がった。 ちなみに兄弟で名字が異なるが、読み方の違いであって綴りは同じ Hiedlerと記載されている。 もともと Hiedlerは「日雇い農夫」「小農」を語源とする姓名で 、それほど珍しい姓名でもなかったとされている。 「ヒトラー」「ヒードラー」「ヒュードラ」「ヒドラルチェク」などの姓はした、および・などに見られるとも言われる。 1887年、アロイスは地元の公証人に「自分は継父ヨハン・ゲオルク・ヒードラーの実子である」と申請を出し、教会にも同様の書類を提出した。 改姓にあたっては義叔父ネーポムクが全面的に協力しているが、実はネーポムクこそアロイスの実父であったのではないかとする意見もある。 それまでシックルグルーバー姓で満足していたアロイスが突然改姓したのは娘しかいなかったネーポムクが隠し子に一家の名と財産を相続させたかったからではないかと推測されており、現実に大部分の遺産を譲られている。 あるいは体面を気にするアロイスにとって自身の出自が不明瞭である事を示す、母方のシックルグルーバー姓を忌まわしく感じた可能性もある。 改姓前後からアロイスは母方の親族と全く連絡を取らなくなり、娘の一人である末女パウラは親戚付き合いが殆どない事について「父さんにも親族がいないはずはないのに」と不思議がっていたという。 ともかくアロイスは「Hiedler」姓に改姓したが、読み方については「ヒュットラー」でも「ヒードラー」でもなく「 ヒトラー」と書かれており、おそらく公証人が読みやすい名前で記載したものと思われる。 ちなみにで最初に報道された際には「 ヒットレル」と表記され(の発音が基になっている) 、その後は「 ヒットラー」という表記も多く見られた。 父母と兄弟 [ ] 1898年から1905年までヒトラーが家族と住んだ郊外の家 父アロイスは義叔父の下で(国民学校)を出た後、へ靴職人として修行に出向いている。 しかしウィーンに出たアロイスは下層労働者で終わる事を望まず、19歳の時に税務署の採用試験に独学で合格して公務員となった。 上昇志向が強いアロイスは懸命に働いて補佐監督官や監督官を経て最終的には税関上級事務官まで勤め上げたが、これは無学歴の職員としては異例の栄達であった。 40年勤続で退職する頃には1100グルデン以上の年収という、公立学校の職より高い給与も勝ち取っていた。 アロイスはこうした成功から人生に強い自尊心を持ち、親族への手紙でも「最後に会った時以来、私は飛躍的に出世した」と誇らしげに書いている。 また軍人風の短髪や貴族然とした厳しい髭面を好み、役人口調の気取った文章で手紙を書くなど的な趣向の持ち主であった。 アロイスは性に奔放な人物で、生涯で多くの女性と関係を持ち、30歳の時にはテレージアという自分と同じようなを最初の子として儲けており、生物学的には彼女がヒトラーの長姉となる。 1873年、36歳のアロイスは持参金目当てに裕福な独身女性の50歳のアンナ・グラスルと結婚したが、母マリアのような高齢出産しか望みのないグラスルとは子を儲ける事はなかった。 代わりにアロイスは召使で未成年の少女だったフランツィスカを愛人とし、1880年に事実を知った妻アンナからは別居を申し渡されたが、人目も憚らずフランツィスカを妻の様に扱って同棲生活を送った。 1883年、最初の妻アンナの死後にアロイスはフランツィスカと再婚して結婚前に生まれていた長男 ()を正式に認知、続いて結婚後に長女 ()を儲けた。 だがアロイスは既にフランツィスカへの興味を失いつつあり、新しい召使であったクララ・ペルツルを愛人にしていた。 クララの父はヨハン・バプティスト・ペルツル、母はヨハンナ・ペルツルという名前だったが、このうち母ヨハンナ・ペルツルの旧姓は ヒードラーだった。 彼女は他でもないアロイスの義叔父であり、実父とも考えられるヨハン・ネポムク・ヒードラーの娘であった。 もしアロイスがゲオルクの子であったとすればクララとはの間柄となり、ましてネポムクの子であればとですらあった。 しかも彼女はアロイスより23歳年下と親子ほどの年齢差だった。 フランツィスカはアンナの二の舞を恐れて結婚前にクララを家から追い出したが、フランツィスカが病気で倒れるとアロイスの手引きでクララは召使として再び入り込んだ。 1884年、フランツィスカが病没すると1885年1月7日に47歳のアロイスは24歳のクララと三度目の結婚を行った。 少なくとも法的には従妹である以上、結婚には教会への請願が必要であったので「血族結婚に関する特別免除」をリンツの教会に申請して、から受理されている。 クララは結婚から5か月後に次男グスタフを生み、続いて1886年に次女イーダ、1887年に三男オットーを生んだが三子は幼児で亡くなっている。 1889年、四男アドルフ(ヒトラー)が生まれ、長男アロイス2世とともに数少なく成人したヒトラー家の子となった。 1894年に五男エドムント、1896年に三女パウラが生まれている。 また、上記にあるようにヒトラーの父のアロイスが婚外子ということで、ヒトラーが政権を把握すると彼自身が「ユダヤ系」ではないかと巷の噂が流布されたが、ヒトラーの死後の史家による徹底的な調査の結果、否定されている(下記も参照)。 生涯 [ ] 幼少期 [ ] 生い立ち [ ] ヒトラー(最後列の中央)が10歳から11歳まで通った小学校の集合写真 1889年4月20日の午後6時30分、当時ヒトラー家が暮らしていたにある旅館ガストホーフ・ツー・ボンマーでアロイス・ヒトラーとクララ・ヒトラーの四男として出生、2日後の4月22日にローマ・カトリック教会のイグナーツ・プロープスト司教からを受け、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と名付けられた。 洗礼には叔母ハンニと産婆ポインテッカーの二人が立ち会っている。 ヒトラーが3歳の時に一家は別の家に引っ越して、の市へ転居している [ ]。 圏の内、オーストリア方言からバイエルン方言の領域へ移住したことになった。 彼の用いるドイツ語には標準ドイツ語と異なる独特の「訛り」が指摘されるが、それはとしての出自ゆえのことである [ ] [ ] [ ]。 幼いヒトラーはに出てくるインディアンの真似事に興じるようになった。 また父が所有していたの本を読み、に対する興味を抱くようになった。 1895年、リンツに単身赴任していたアロイスが定年退職により恩給生活に入ると、一家を連れてハーフェルト村という田舎町に引越し、屋敷を買って農業と養蜂業を始めている。 ヒトラーは ()の郊外にあった ()の国民学校(小学校)に通った。 1896年、異母兄アロイス2世が父との口論を契機に14歳で家から出て行き、二度とヒトラー家には戻らなかった。 異母弟ヒトラーや継母と折り合いが悪かった事も一因と見られている。 跡継ぎとなったヒトラーは1897年まで国民学校に在籍した記録が残っているが [ ]、移住後から学校の規律に従わない問題児として、ヒトラーも父と諍いを起こすようになった [ ]。 1897年、父親の農業は失敗に終わり、一家は郊外の農地を手放してランバッハ市内に定住している。 ヒトラーも系の小学校に移籍し、に所属するなどを熱心に信仰して、聖職者になることを望んだ。 ベネディクト修道会の聖堂の彫刻には後にナチスのシンボルマーク章として採用するが使われていた [ ]。 本人によれば、信仰心というよりも華やかな式典や建物への憧れが強かったようである。 1898年、ランバッハからも離れてリンツ近郊のにアロイスと一家は同地に定住したが、後年にヒトラーから生家を案内されたゲッベルス曰く「小さく粗末な家」であったという。 弟エドムントが亡くなる不幸などを経て、次第にヒトラーは聞き分けの良い子供から、父や教師に口答えする反抗的な性格へと変わっていった。 感傷的な理由からではなく、単純にアロイス2世の家出もあってヒトラーが唯一の跡継ぎになってしまい、一層に父親からの干渉が増したからである。 1899年、各地を転々としていたヒトラーはを終え、の卒業資格を得た。 父とのいさかい [ ] 母クララとの関係は良好だったが、的なアロイスとの関係は不仲になる一方だった。 アロイスの側も隠居生活で自宅にいる時間が増えたことに加え、農業事業に失敗した苛立ちから度々ヒトラーに鞭を使った折檻をした。 アロイスは無学な自分が税関事務官になったことを一番の誇りにしており、息子達も税関事務官にすることを望んでいた [ ]。 これもますますヒトラーとの関係を悪化させた。 後にヒトラーは父が自分を強引に税関事務局へ連れて行った時のことを、父との対立を象徴する出来事として脚色しながら語っている [ ]。 1900年、(・)を学ぶ年頃になると(大学予備課程)で学びたいと主張したヒトラーに対して、アロイスはリンツの(実科中等学校、Realschule)への入学を強制した。 自伝『』によれば、ヒトラーは実科学校での授業を露骨にサボタージュして父に抵抗したが、成績が悪くなっても決してアロイスはヒトラーの言い分を認めなかった。 恐らくヒトラーが最初に ()やに傾倒したのはこの頃からであると考えられている [ ]。 なぜなら父アロイスは生粋のの支持者であり、その崩壊を意味する過激なを毛嫌いしていたからである。 また政治的にもおそらくは自由主義的な人物で宗教的にも世俗派に俗した。 周囲の人間も殆どが父と同じ価値観であったが、ヒトラーは父への反抗も兼ねて統一ドイツへの合流を持論にしていた。 ヒトラーはは「雑種の集団」であり、自らはドイツという帰属意識のみを持つと主張した [ ] [ ]。 ヒトラーは学友に大ドイツ主義を宣伝してグループを作り、仲間内で「ハイル」の挨拶を用いたり、ではなく「」を謡うように呼びかけている。 ヒトラーは自らの父を生涯愛さず、「私は父が好きではなかった」との言葉を残している。 ただしアロイスによる強制というヒトラーの主張は疑わしいと見られている。 税務官などの官吏に登用されるには法学を学ぶ必要があるが、当時のドイツで法律を学ぶにはが必修であった。 実科学校はと異なりラテン語教育が施されることはまずなく、仮に官吏になったとしても税務官のような上級役職に進める人間はそれこそアロイスのように特例であった。 実際、ヒトラーの同窓生達で官吏になったものも鉄道員、郵便局員、動物園職員などに留まっている。 もしアロイスが本当に税務官になることを望んだのなら、むしろ入学を強制したはずである。 よってギムナジウムに進学できなかったのは単にヒトラーの学力不足であって、父アロイスは成績不良の息子が手に職を就けられるように気遣った可能性が高い。 1901年、田舎の小学校で学んでいたヒトラーは都会の授業についていけず、リンツ実科中等学校一年生の時に必修の数学と博物学の試験に不合格となり、となった。 1902年には二年生に進級したが、学年末にまたもや数学の試験を落として再試験を受けて辛うじて三年生に進級した。 1903年1月3日、14歳の時に父アロイスが65歳()で病没する。 地元の名士だった父の死は地方新聞の記事になっており、料理店で食事中に脳卒中で倒れて死亡したという。 しかし憎む対象を失った後もヒトラーの問題行動は収まらず、成績も悪化を続けた。 同年には外国語()の試験に不合格となって2度目の留年処分を受け、扱い兼ねた学校からは四年生への進級を認めて貰う代わりに退学を命じられる有様だった。 退学後、リンツ近郊にあった市の実科中等学校の四年生に復学したが、前期試験でと、後期試験ではで不合格となった。 私生活でも下宿生活を送る中、学友と酒場に繰り出して酔った勢いに任せて在学証明証を引き裂くなどの乱行を行い、教師達から大目玉を食らっている。 結局、1905年には試験や授業を受けなくなり [ ]、病気療養を理由に2度目の学校も退校している。 ヒトラーにとって唯一正式に教育を終えたのは先述ののみであり、息子の学業に望みを持っていた父と結果として同じ経歴となった。 青年期の挫折 [ ] リンツでの日々 [ ] 1905年、実技学校を離れたヒトラーは一旦は寡婦となった母がいるリンツに戻った。 アロイスの死後、ヒトラーは母の溺愛と唯一の男子という立場から「小さなアロイス」として専横的に振舞った。 共に父からのに怯えていたはずの妹にも家父長的に接し、パウラが学校に向かうのを見張り、何か気に食わない行動があればを食らわせた。 しかし家の外に広がる社会に対しては消極的で、気まずさもあって昔の友人とも会うのを避けていたが、暫くしてという同年代の青年と交流を持つようになった。 クビツェクはアロイスと同じく小学校を出てすぐに働きに出ていたため、実技学校を離れたヒトラーにかえって憧憬を抱いており、ヒトラーに付き従ってリンツ郊外などの散策や歌劇場の観覧に出向いていた。 他にシュテファニーという女性に熱を上げていて、実際にアカデミーを出て画家になってから結婚を申し込みたいという手紙を送っている。 リンツはヒトラーにとって第二の故郷であり、総統就任後も青年期に構想していたリンツの都市改造計画を実施しようと専用の建築官房まで設立していた。 クビツェクによれば当時のヒトラーは手入れの行き届いた清潔な格好をしており、黒い帽子や皮手袋、象牙が用いられたステッキなどを身に付けていた。 この上流趣味は父を失ってなおヒトラー家が富裕層であったことを意味しており、ヒトラー自身も「パンのために働く仕事」を軽蔑していたという。 母クララは息子が何の仕事にも就かないことを心配しており、義兄(姉の夫)のレオ・ラバウルも「アドルフを職に就かせるべきだ」と迫っていた。 本来であれば学業を辞めたのなら同年代の青年達と同じく、何か従弟修行や職業訓練を受けさせなければならなかった。 だがヒトラーは執拗に母に画家になる夢を語り、意志の弱いクララは息子の夢に理解を示していたが 、内心で不安でもあった。 クビツェクはしばしばクララからヒトラーが亡父が望んだような生き方を選ぶように説得してほしいと頼まれたという。 そう話すクララの容貌を「実年齢より老け込んで見えた」と回想しており、息子が芸術家としてどうやって身を立てるのか、肝心な部分が曖昧だった事に不安を覚えていたのだろうと推測している。 ある時、ヒトラーは絵だけではなく音楽に興味を向け、クララはピアノを買い与えて軍楽隊出身の家庭教師まで付けているが、数か月もしないうちに興味を失って投げ出している。 1907年1月、母クララが倒れ、医師の診察で重度のと診断され、ヒトラーとパウラに「殆ど望みはない」ことを告知した。 見るからに痩せ細っていくクララにヒトラーは動揺したが何もできず、介護や家事は殆ど叔母ハンニや姉アンゲラ、さらにはまだ小学校に通っていた妹パウラに任せきりだった。 ウィーンへの移住 [ ] 1907年4月、18歳になったヒトラーは法律上700クローネ相当の遺産分与の権利を得たが、これは当時の郵便局員の収入の一年分であった。 父の遺産に加えて遺族年金から仕送りを得る約束を母親から貰い、芸術の都であるへ移住して美術を学ぶことを決めた。 同年9月にを受験した。 当時のウィーン美術アカデミーはなどの高等教育機関ではなくであり、年齢制限や学歴などの条件が緩く、実科学校を途中で放棄したヒトラーでも受験が可能であった。 前年の1906年にはヒトラーより一歳年下で後に画家として名を成したが工芸学校を卒業後、16歳で入学している。 しかし、ヒトラーの結果は不合格であった。 試験記録には「アドルフ・ヒトラー、実科学校中退、ブラウナウ出身、ドイツ系住民、役人の息子。 頭部未提出など課題に不足あり、成績は不十分」と記述されている。 受験人数は113名 と少人数で、合格者も28名 と4倍程度の倍率で、極端に難関という訳ではなかった。 試験内容は実技とこれまで製作した作品の審査からなっていたが、前述の通り頭部デッサンの未提出など、審査用の作品に不足があると判断されて不合格となった。 アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判した際には、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言された。 ウィーンでの美術館巡りでは、建物自体の観賞を好んだと書き残すなど、ヒトラーも実際には建築物を好んでいて、この助言に大いに乗り気になったが、程なく画家よりさらに非現実的な望みであることを知って断念したと書き残している。 「 …画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難であることに気が付いた。 私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。 建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。 どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ… 」 画風については、丹念な描写に情熱を注ぐものの独創性に乏しいという評価で、後に絵葉書売りで生計を立てた時も既存作品の模写が多かったという。 ミュンヘン時代の知人の証言では、ヒトラーは同地で生活した頃は名所の風景画を中心に売っていたが、本人は現地には行かず、記憶やほかの画家が描いた絵などを参考に描くという独特の手法をとっていた。 本人はこうした自らの傾向を「古典派嗜好」ゆえのことと自負していた節があり、、やなどの新しい芸術運動に嫌悪感すら抱いていた。 シーレらがアカデミーに迎えられたことについて、後年までルサンチマンを抱き、総統となってからは、彼らの作品やアカデミーを「」として徹底的に糾弾し、弾圧下に置いている。 芸術に限らず、ヒトラーは自らを認めなかった「硬直的な正規教育課程」を憎み、晩年まで憎悪を口にしていた。 ウィーンに出向いている間、ヒトラーは故郷との連絡をなるべく避け、母やブロッホらに葉書を送る時も当たり障りのない内容に留めて受験結果も伝えなかった。 クララは見舞いに来たクビツェクに堰を切ったように息子への怒りや悲しみを嘆き、「あの子は自分の道を歩んでいる、他の人なんかいないみたいにね…あの子が独り立ちしたとしても、私は見られないでしょうね」と諦めた声で呟いたという。 1907年10月、ブロッホはクララに正式な宣告を行って親族にも告知した。 流石のヒトラーも実家に戻り、変わり果てた母の姿を見て呆然とした。 一生を通して初めて叔母と妹と家事を手伝う様になり、痛みで苦しみすすり泣く母の傍を片時も離れず、夜もベッドの隣に置いた長椅子で眠った。 1907年12月21日、クララは47歳で病没し、レオンディングにある父アロイスの墓の隣に葬られた。 葬儀が終わった後、ブロッホの下をヒトラーが訪れ、出来うる限りの治療をしてくれた事に心からの感謝を述べた。 その様子についてブロッホは「わたしの一生で、アドルフ・ヒトラーほど深く悲しみに打ちひしがれた人間を見たことがなかった」と回想している。 後にヒトラーは『我が闘争』の中で以下の様に語っている。 「 母の墓を前にして立っていたあの日以来、私は一度も泣いた事がない。 」 放浪生活 [ ] 2月、妹パウラを異母姉アンゲラの嫁いだラウバル家に預けて再び首都ウィーンに舞い戻ると今度は生活拠点も移し、シュトゥンペル街に下宿先を借りた。 程なくして音楽学校に合格したクビツェクがウィーンへやってくると、シュトゥンペルの下宿先で共同生活を送るようになった。 ウィーンの裏通りにある下宿先は月20クローネの2人部屋で、ゆったりとした生活スペースにクビツェクが練習用に借りたと2つのが置かれていた。 朝に学校に向かうクビツェクに対してヒトラーは部屋で寝ており、帰ってきたクビツェクがピアノの練習する時間帯になると図書館や公園に出かけていった。 時に昔のように2人で美術館や街の散策に出かけると、美術上の知識や持論を延々と語っていた。 クビツェクが音楽学校の休暇でリンツに帰った後も滞在を続け、手紙のやり取りをしている。 すでにヒトラーは父からの遺産分与700クローネをある程度使用しており、また母親の葬儀費用などで370クローネを支払っている が、母からは父の遺産全額の3000クローネが残されたし、また妹パウラとヒトラーが24歳になるか就業するまでは孤児保護の恩給として月50クローネの受給もオーストリア・ハンガリー政府から認められた。 とは、更にクララの叔母であるワルブルガ・ロメダーの遺産の一部、最低でも数百クローネがクララを通じて入ってきていたと指摘している。 孤児恩給の半額は妹パウラを引き取った義姉アンゲラに養育費として渡されたが 、10代の青年としては十分過ぎる程の遺産と当面の生活費が残されたのであり『わが闘争』にあるような無一文でウィーンにやってきたような描写とは異なる。 またシュトラールは「遺産を受け取り、労働が可能で、かつ就学もしていないヒトラーの身の上を鑑みればパウラが恩給の全額を受け取る権利があったにも関わらず 、妹や後見人に無断で勝手に孤児恩給の申請書を出すなど策を巡らし、学校に通っていた妹から半分恩給を奪い取っている 」と指摘している。 1908年末、この年にもアカデミーを受験したが、再び失敗した。 2度目の試験では実技試験にすら受からず、むしろ合格は遠ざかっていた。 同年9月、クビツェクの前からヒトラーは突然姿を消した。 これは入試に失敗したことを知られたくなかったためと、徴兵忌避のためとであった。 ウィーンに戻ったクビツェクの側も特に行方を捜すことはなかった。 ヒトラーはたびたび住居を変え、1909年11月末頃には住所不定無職の人物としてに入り、次いでメルデマン街にある者用の公営に移り住んだ。 経済上のことというよりは、20歳から始まる徴兵義務を逃れるためであったと見られている()。 この寄宿舎は休憩室や読書室を備え、就寝室は個室になっており、食事も安く、正業を持っているものも一時的に利用することがある施設であった。 ヒトラーはこの頃絵葉書や版画の模写をおこない、インテリ層や商人などに絵画を売ることもあった。 売り込みは ()が行い、売上は折半していた。 、姉アンゲラから全額を妹パウラに譲るようにリンツ地区裁判所で訴訟を起こされた。 この背景には叔母ハンニからヒトラーが可愛がられており、遺産となる財産の殆どをヒトラーの「芸術活動」に援助していたことに、夫ラウバルの死後も妹パウラを養い女子実科中等学校にも通わせていたアンゲラが憤慨したためである。 ハンニがヒトラーに与えた財産がどの程度だったのは定かではないが、ハンニの死後その預金3800クローネが引き出されたにもかかわらず、ハンニの実妹は遺産を相続していないため、少なくとも2000クローネ程度は援助されていたと見られている。 仮に今までの生活で父母の遺産を使い果たし、孤児恩給を失ったとしても、今度は叔母ハンニの財産でまだ数年は「寝て暮らせる」生活であった。 また遺産を取り崩しながらの生活ながら自作の絵葉書や風景画を売ることで小額の生活費は稼いでいた。 ヒトラー自身も『我が闘争』の中で「ささやかな素描家兼水彩画家として独立した生活を送っていた」と記述しており、裁判において「自分で生活できる」と証言し、孤児恩給の放棄に同意した。 この頃ヒトラーは食費を切り詰めてでもに通うほどに心酔していたとされる。 また暇な時に図書館から多くの本を借りて、歴史・科学などに関して豊富な、しかし偏った知識を得ていった。 その中にはやらが提起したやなども含まれていた。 を指導していた(後にウィーン市長)やに基づく民族主義政治運動を率いていたなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたといわれる。 この時代にヒトラーの思想が固まっていったと思われているが、仮にそうだとしても、ヒトラーは少なくとも青年時代には政治思想に熱意を注いではいなかった。 の頃のヒトラーはや共産主義を批判していたが、反ユダヤ主義的な発言の記録はない。 ヒトラーは絵画をユダヤ人画商に好んで売り、ユダヤ人は頭がよく協力しあうと称賛することもあったし 、ユダヤ系画商との夕食会に参加するなど親睦も結んでいた。 一方で、ユダヤ人種は体臭が違うし、ユダヤの血はテロに走りやすいとも述べていた。 またクビツェクは「リンツにいた頃から反ユダヤ主義者だった」と述べている。 ミュンヘンへの移住と逮捕 [ ] 1913年5月、24歳になったヒトラーは隣国ドイツの南部にあるに移住し、仕立て職人ポップの元で下宿生活を送った。 ヒトラー自身はオーストリアとウィーンの腐敗した環境に耐えられなかったと述べているが、実際には徴兵忌避罪を逃れるためであったと見られている。 ヒトラーは故郷リンツにおいて徴兵検査を受けなかったことで兵役忌避罪と、その事実を隠して国外に逃亡するという2つの犯罪を犯した立場となった。 事実が発覚して逮捕された場合、1か月から1年の禁固刑と2000クローネの罰金という重罪が科せられることが想定された。 この移住に際してヒトラーは、自分をオーストリア国民ではなく「無国籍者」であると申請している。 リンツ警察は8月11日から捜索を開始し、ヒトラーは1914年1月18日にミュンヘン警察によって逮捕、オーストリア領事館に連行された。 仰天したヒトラーは領事館員のすすめで書いた弁明書で、1910年2月にウィーンで兵役の申告を行ったとした上で、「(1909年ごろには)誰からの金銭上の援助がなく」と、自らの貧困を訴える嘘を書き連ねている。 ヒトラーは納税証書を同封し、労働者階級としては多い年収1200マルクの収入があったが、支出が多いため現在も裕福ではないと弁明している。 実際にはミュンヘンでの生活は安定しており、近所の人々からも信用されていた。 ヒトラーはインテリ風の良い身なりをしており、家主のポップとはよく政治論を戦わせていたという。 このころの月収は100マルク程度あったが、当時同年齢の銀行員の月収は70マルクであった。 さらに1913年5月16日には、孤児金庫から819クローネ98ヘラーの資産が交付されている。 1914年1月18日、で行われた検査で不適格と判定されたため兵役を免除され、罪も免除された。 第一次世界大戦 [ ] 従軍時のヒトラー(椅子に座る兵士の右端)と所属部隊の隊員達 同年8月1日に勃発した第一次世界大戦ではバイエルン王宛に請願書を送り、バイエルン陸軍に志願した。 翌日には入隊許可書が届き、バイエルン王国第16予備歩兵連隊にとして入営した。 連隊は主にの北仏・ベルギーなどに従軍してやなど幾つかの会戦に加わっている。 ヒトラーは、フランス兵を捕える等の功績と伝令兵としての勤務ぶりを評価され、6回受勲している(1914年に、1917年に、1918年に、、、三級軍務勲章)。 しかし階級は 留まりであり、受勲回数の割には低い階級のままで終戦を迎えている。 理由については、「本人が伝令兵の地位に満足し昇進を希望しなかった」、「伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋った」、「上官に媚びて授勲されただけで昇進に足る活躍はなかった」 など諸説あるが、最も信憑性があると見られているのは「指導力が欠けており、部下を持つことになる伍長以上の階級には相応しくない」と司令部が判断したという説で、直属の上官中尉が証言している。 入営時の証明写真 1916年、でヒトラーは脚の付け根(鼠径部)に怪我を負って入院している(左大腿であったとする論者もいる)。 またこの負傷でヒトラーが生殖機能に障害を負ったとする俗説があるが、真実の程は定かでない。 負傷そのものは会戦後にを受勲した記録が残っている。 ヒトラーは大戦以前から熱心な大ドイツ主義者であり、また大戦でドイツ軍(正確にはバイエルン軍)の一員として戦ったことで益々ドイツへの愛国主義は高まっていった(しかしドイツ市民権は1932年まで取得していない)。 ヒトラーは戦争を人生で重要な経験であると捉え、周囲からも勇敢な兵士であったと評価を受けた。 大戦末期の1918年10月15日、ヒトラーは敵軍のによる化学兵器攻撃に巻き込まれて視力を一時的に失い、ポンメルン地方の ()にある野戦病院に入院している。 一時失明の原因についてはガスによる障害という説以外に、精神的動揺(一種の)によるものとする説がある。 ヒトラーは治療を受ける中で自分の使命が「ドイツを救うこと」にあると確信したと話しており 、ユダヤ人の根絶という発想も具体的手段は別として決意されたと思われている。 1918年11月、ヒトラーは第一次世界大戦がドイツの降伏で終結した時に激しい動揺を見せた兵士の一人であった。 この日、もしくは次の日にヒトラーは超自然的な幻影を見て視力を回復した。 この回復の課程には、治療に当たっていた ()博士の催眠術による暗示の可能性があるとされる。 ヒトラーは民族主義者や国粋主義者の間で流行した「敗北主義者や反乱者による後方での策動で前線での勝利が阻害された」とする論を強く信じるようになった。 政界進出 [ ] ヒトラーのドイツ労働者党党員証。 しかし、彼の入党時に正式な党員証はまだなく、後に偽造されたものである。 政治家への転身を考えた後も軍に在籍を続ける道を選び、陸軍病院から退院すると部隊の根拠地であるミュンヘンへと戻った。 同地では1918年11月8日にによって共和制宣言が出されて「バイエルン共和国」が成立しており、バイエルンの陸軍も当初これを支援していた。 ヒトラーも1919年2月16日からミュンヘンのに入っていた。 また2月26日に暗殺されたアイスナーの国葬パレードに参加した。 1919年4月13日にはによって共産党主導のが成立した。 4月15日にヒトラーはレーテの評議員に立候補しており、19票を獲得して当選している。 5月、によってミュンヘンが占領されると、ヒトラーは革命中に政治活動をしていた人物に、共産主義傾向があるかを調べる革命調査委員会の委員となった。 この委員会での働きが認められ、ヒトラーは帰還兵への政治教育を行う啓発教育部隊に入ることとなった。 6月には国軍の情報将校であった大尉によってミュンヘン大学で予備教育を受けるよう命ぜられた。 ヒトラーはこの時に初めて大学でなどのの専門的な講義を聴く機会を持ち、潜入捜査の技能と「戦争で士気が阻喪し、した部隊に民族主義を植え付けさせる」のに必要な教養を与えられた。 この際ヒトラーは同じく講習を受けていた兵士たちに反ユダヤ主義を交えた演説を行い、兵士たちを感激させた。 ヒトラー自身もはじめての演説に好感触を得、「私は演説することができた」と回想している。 9月12日、ヒトラーはマイヤー大尉の命令で(DAP)の調査に入った。 ヒトラーはこのとき、オーストリアとバイエルンの連合を唱える大学教授のバウマンと論戦になった。 ドイツ労働者党の創設者は「短いがキビキビとした演説を行い、皆を熱狂させた」と回想している。 ドレクスラーはヒトラーの演説の際に感銘を受け、一週間後に再び弁士として来るよう依頼し、入党を要請した。 ヒトラーはマイヤーに対して「この人々は前線の兵士の思想を主張しているため、入党を許可していただきたい」とする報告書を提出し、55人目の党員として入党した。 的な秘密結社「」に所属する思想家ともこの時に知り合った。 9月16日にはマイヤーの命令で、アドルフ・ゲムリッヒという国軍兵士のユダヤ人に関する疑問に答える形で「 ()」を執筆した。 これは現存する限りでヒトラーが思想を書き示した最古の記録である。 ヒトラーが軍や諜報機関を離れた時期は定かではないが、いつしか政治活動にのめり込んでDAPの専従職員になったのは間違いないと見られている。 彼は周辺国や国内の政治団体に対する過激な演説で名前を知られるようになり、DAPでも有力な政治家と目されていった。 この頃、マイヤーが自身も所属していた将校の政治団体「 ()」の代表であったとヒトラーを引き合わせた。 レームやエッカート、らはヒトラー派を形成、党内を次第に制圧するようになった。 、党内協議により党名を「(NSDAP、ナチ党)」へと改名する。 ヒトラーは当初「社会革命党」を提案したが、 ()が、にあった政党「(DNSAP)」に倣うように説得した。 、党内で分派闘争が起きると、一時的にドレクスラーによって党内から追放されるが、党執行部のクーデターにより逆に彼は名誉議長として実権を奪われ、代わりにヒトラーが第一議長に指名された。 すでにイタリアで一党独裁政治を行っていたが採用していたに倣って、を取り入れたのもこの頃のことである。 の活動などでミュンヘン政界でも知られる存在となったヒトラーは、エッカート、、らの紹介で、社交界でも知られるようになった。 ピアノメーカーのオーナー未亡人であった ()などの上流階級婦人が熱心な後援者となり、生活の援助をしたほか、ヒトラーに紳士の立ち振る舞いを身につけさせた。 ミュンヘン一揆 [ ] 詳細は「」を参照 党勢を拡大したナチ党を含んだ左派政党の団体である ()は、のが行ったを真似て進軍を望むようになった。 バイエルン州で独裁権を握っていた州総督も同様にベルリン進軍を望んでおり(バイエルンは伝統的に反ベルリン気質があり、独立意識が強かった)、ドイツ闘争連盟と接触を図っていたが、カールは中央政府の圧力を受けてやがてその動きを鈍くした。 不満を感じたヒトラーは、カールにベルリン進軍を決意させるため、1923年11月8日夜にドイツ闘争連盟を率いて、彼が演説中の「」を占拠し、身柄を押さえた。 ヒトラーから連絡を受けた前大戦の英雄大将も駆け付け、彼の説得を受けてカールも一度は一揆への協力を表明した。 しかしヒトラーがビュルガーブロイケラーを空けた隙に、カールらはルーデンドルフを言いくるめて脱出し、一揆の鎮圧を命じた。 11月9日朝、ヒトラーとルーデンドルフはドイツ闘争連盟を率いてミュンヘン中心部へ向けて行進を開始した。 ヒトラーもルーデンドルフも大戦の英雄に対しては軍も警察も強硬手段は取らないだろうという過信があった。 しかし、バイエルン州警察は構わず発砲し、一揆は総崩れとなった。 ヒトラーは逃亡を図り、党員の別荘に潜伏したが、11月11日には逮捕された。 逮捕直前には自殺を試みるが、ハンフシュテングルの妻によって制止された。 収監後しばらくは虚脱状態となり、絶食した。 失意のヒトラーをヘレーネやドレクスラーら複数の人物が激励したとしている。 裁判でヒトラーは自信を取り戻し、弁解を行わず一揆の全責任を引き受け自らの主張を述べる戦術を取り、ルーデンドルフと並ぶ大物と見られるようになった。 花束を持った女性の支持者が連日留置場に押しかけ、ヒトラーの使った浴槽で入浴させてくれと言う者まで現れた。 司法の側もヒトラーに極めて同情的であり、主任検事が起訴状で「ドイツ精神に対する自信を回復させようとした彼の誠実な尽力は、なんと言おうとも一つの功績であり続ける。 演説家としての無類の才能を駆使して意義あることを成し遂げた」と評するほどであった 判決直後にミュンヘンでが撮った集合写真。 右から4人目がヒトラー 1924年4月1日、ヒトラーは禁錮5年の判決を受けに収容されるが、所内では特別待遇を受けた。 オーストリア国籍を持っていたヒトラーは国外追放されるおそれがあったが 、判決では「ヒトラーほどドイツ人的な思考、感情の持ち主はいない」として適用されなかった。 この間、ヒトラーは禁止されていた党をの指導に任せていたが、ドイツ北部の実力者、兄弟らとの反目が激しくなった。 シュトラッサーらは5月にルーデンドルフと連携した偽装政党「」を立ち上げて国会議席を獲得し 、さらに党をルーデンドルフのと合同させた。 これによりローゼンベルク、らミュンヘン派、シュトラッサー兄弟らの北部派()の関係は悪化したが、ヒトラーは介入しなかった。 7月7日には著書の執筆を理由として「国家社会主義運動の指導者たることを止めて、刑期が終わるまで一切の政治活動から手を引く」ことを発表する。 この際にヘスによる口述筆記で執筆されたのが『』である。 ヒトラーは刑務所の職員まで信服させ、9月頃には所長から仮釈放の申請が行われ始めた。 州政府は抵抗したが、裁判を行った判事がヒトラーのためにアピールを行うという通告もあり 、12月20日にされた。 シュトラッサーの運動は内部抗争によって分裂し、12月の選挙でも大敗を喫した。 権力闘争 [ ] 1925年2月27日、禁止が解除されたナチ党は再建された。 しかし大規模集会で政府批判を行ったため、州政府からヒトラーに対して2年間の演説禁止処分が下され、他の州も追随した。 この間にヒトラーはミュンヘンの派閥をまとめ上げ、4月には突撃隊の指導者であったレームを引退させた。 私生活ではこの頃オーストリア市民権抹消手続きをとり、の許可をとった。 また『我が闘争』の執筆作業を行い、7月18日に第一巻が発売された。 秋頃には社会主義色の強いシュトラッサーら北部派と、ミュンヘン派の対立が激化した。 一時はシュトラッサーの秘書らが「日和見主義者」ヒトラーの除名を提案するほどであったが、1926年2月24日のによって「指導者ヒトラー」のによる党内独裁体制が確立した。 一方シュトラッサーは党内役職を与えられて懐柔され、ゲッベルスはヒトラーに信服するようになり、党内左派勢力は大きく減退した。 1928年5月20日には、ナチ党として初めてのに挑んだが、と呼ばれる好景気に沸いていた状況で支持は広がらず、12人の当選にとどまった。 この間にヒトラーは『』(続・我が闘争)と呼ばれる本を執筆したが、最後まで出版はされなかった。 ヒトラーの財政状況は悪くなく、に別荘「」を買う余裕もできた。 また1929年頃には党の公式写真家であったの経営する写真店の店員と知り合い、交際を始めた。 ナチ党の躍進 [ ] 1932年大統領選挙の投票用紙(第2回投票時) 候補者名は上からヒンデンブルク(無所属)、ヒトラー()、() のによって急速にの悪化したドイツでは、街に大量のが溢れかえり、社会情勢は不安の一途をたどっていた。 さらにへの反発が(SPD)政府への反感の元となった。 党勢の拡大にもかかわらず、待遇が改善されない突撃隊には党幹部に対する反感が生まれ、ヒトラーは突撃隊を押さえるためにで軍事顧問をしていたレームを呼び戻さざるを得なくなった。 1931年9月18日、溺愛していた姪のが自殺し、ヒトラーは大きな衝撃を受けた。 一時は政界からの引退もほのめかしたが、数日後に復帰した。 この後を宣言し、肉食を断った。 1932年2月25日には党幹部の手配により、のベルリン駐在州公使館付参事官となった。 これは名目上のことであり、公務員に自動的に与えられるドイツ国籍を取得するためのものであった。 ()したヒトラーは、に出馬する。 大統領選挙では現職の、の、代表での支持を受けた、作家 ()の5名が立候補した。 選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、膨大な量のビラをまき、数百万枚のポスター、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説や当時はまだ新しいメディアだったラジオなどで国民に鮮烈なイメージを残した。 第1次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49. しかし大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者3名によるが行われた。 その投票でヒンデンブルク1935万9983票(得票率53. ヒトラーはヒンデンブルクに敗れたものの、1次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけ、ドイツ共産党にとってはナチ党との差が決定的となったことを物語る選挙となった。 続く1932年7月の議員選挙では、ナチ党は37. 首相就任 [ ] 全権委任法成立後に演説を行うヒトラー(1933年3月) では、内閣に不信任案を提出して可決、選挙を迎えた。 この時のゲッベルスは、が主導する大規模な交通に突撃隊員を参加させた。 財界やなどのは、に懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張しての二の舞のような事態だけは避けなくてはならず、ナチ党は共産党に対抗できるとみなされた。 ナチ党への献金は増加したが、この段階でも政財界からのの圧倒的な量は勢力に流れており、この時点での党の大半は党費収入によるものであった。 一方で事態を打開することができなかったパーペン内閣はの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。 彼はシュトラッサーらを取り込もうとしたが失敗した。 シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒンデンブルク大統領の承認を得たヒトラーは国家人民党の協力を取り付けることに成功、1933年1月30日にが発足した。 ヒトラーは就任した30日夜に内相を通じた談話で、 1 国際社会との平和裏の共存、 2 ワイマール憲法の遵守、 3 共産党を弾圧しないといった施政方針を表明した。 しかし、これらは程なくして反故にされることとなった。 独裁政権 [ ] 詳細は「」を参照 内閣発足の2日後に当たる2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。 2月27日の深夜、が炎上する事件が発生した()。 ヒトラーとゲーリングは「共産主義者蜂起の始まり」と断定し、直ちに者の逮捕を始めた。 翌28日にはヒンデンブルク大統領に要請して憲法の基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに逮捕できる大統領緊急令を発令させた。 しかし、共産党議員はすでに逮捕・拘禁されており、さらにSDPや諸派の一部議員もされた。 これらの議員を「出席したが、投票に参加しない者と見なす」ように議院運営規則を改正したことで、ナチ党は的法令に必要な3分の2の賛成を自動的に獲得できるようになった。 ヒトラーと(1933年3月21日) 3月21日、新国会が開かれた。 この日は「」と呼ばれ、1871年に帝国宰相が最初の帝国議会を開いた日でもあった。 これを記念する式典では、空席の皇帝の座の後ろに元皇太子が着席した。 元皇太子が見届ける中で、ヒトラーはモーニング姿でヒンデンブルク大統領に頭を下げた。 この演出によって、ヒトラーが帝政の正統な後継者であるかのような印象が人々に与えられた。 3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て、新国会でを可決させ、議会と大統領の権限は完全に形骸化した。 7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、12月1日には党と国家が不可分の存在であるとされた。 以降ドイツではナチ党を中心とした体制が強化され、党のを強く反映したが行われるようになった。 しかし、他の幹部とは異なる政権構想を持っていた突撃隊ではさらなる「第二革命」を求める声が高まり、突撃隊幕僚長レームらとの対立が深刻化した。 業を煮やしたヒンデンブルク大統領や国軍からの最後通告を食らったヒトラーは、ゲーリングやらによって作成された計画を承認し、1934年6月30日、突撃隊幹部のほか、シュトラッサーらナチス左派などの政敵をまとめて非合法的手段で粛清した()。 この時、党草創期からの付き合いであったレームの逮捕にはヒトラー自らが立ち会っている。 1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。 ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効させ、である大統領の職務を首相の職務と合体させ、「指導者兼首相 であるアドルフ・ヒトラー」個人に大統領の職能を移した。 この措置は8月19日に ()を行い、89. これ以降、日本の報道ではヒトラーの地位を「」と呼ぶようになった。 指導者は国家や法の上に立つ存在であり、その意思が最高法規となる存在であるとされた。 権力掌握以降、ヒトラーのは国民的なものとなった。 1935年1月22日には、公務員や一般労働者が右手を挙げて「」と挨拶することや、公・私文書の末尾に記載することが義務付けられた。 民衆が党や体制に対する不満を持つことがあっても、地方・中央の党幹部に批判が向けられ、ヒトラー自身が対象となることはほとんどなかった。 国家元首に就任して以降、国際的な行動を実行する日にしばしば土曜日を選んだ。 これは週末は他国政府の対応が遅くなるという理由からである。 1935年3月16日の、1936年3月7日のはどちらも土曜日である。 政治 [ ] 詳細は「」、「」、および「」を参照 ヒトラーは、従来合議制であった閣議をほとんど開催せず、書類の回覧によって決裁を行った。 また重要な方針については大筋の方針を決めるだけで、詳細は所轄官庁に任せた。 この「口頭政治」により、1941年に成立した法律は、回覧による制定法11、総統布告24、9、国防閣僚評議会命令27に対し、所轄官庁命令が373に達している。 このため、各官庁とヒトラーの間に立って調整を行う総統官邸長官や、党官房長の権力が高まった。 一方でを含む党の各組織や、ヒトラーが任命する全権、などが並立したため、それぞれの組織の自立性が高まる一方で、党と国家との法的関係は曖昧なままとなり、法律と行政は複雑化し、統一性は失われた。 によって各組織の指導者は、ヒトラーに与えられた権力の範囲内で絶大な権力を持つが、権限が重複する相手との対立や混乱が絶えず、結果として最終的にこれらを調停し得る唯一の存在となった彼への従属をますます強めることとなった。 ヒトラー自身もわざとそういった問題を放置したり、しばしば重要事項に関する決断を回避したため、余計に権力闘争に拍車をかけることになった。 は、ナチス・ドイツのこうした体制を「ヒトラーだけにしか全体を眺望し得ない国家」と評している。 個別の政策では、党と国家の一体化を推し進める一方で、の設置などヴェルサイユ条約で禁止されていた再軍備を推し進めた。 また同時に行われていたラインハルト計画により、1933年には600万人を数えていた失業者も1934年には300万人に減少している。 一方で新聞の統制化も行い、1934年には約300の新聞が廃刊となった。 営業不振となった新聞社・雑誌社はナチ党の出版社 ()に買収され、情報の一元化が進んでいった。 1935年3月16日にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄()、公然と軍備拡張を行った。 1936年には非武装地帯とされていたを行った。 ヒトラー自身も英仏が対抗措置を採る可能性を完全に払拭し切れていたわけではなかったが 、結局英仏は動かず、賭けに勝利したヒトラーの威信はさらに向上した。 また同年にはとの二大会がドイツで行われた。 当初ヒトラーはに対して「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが 、1933年3月にはベルリン大会支持の声明を出している。 またこれまで都市主催であったオリンピックに国家が積極的に介入することで、ベルリンオリンピックはかつてない大規模なものとなった。 また、リーフェンシュタールが撮影した記録映画『』は世界で高い評価を得た。 オリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的に迫害政策を緩和したが、その後は国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の下「の優越」と「」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別を基にした迫害を再び強化していく。 外交と生存圏 [ ] オーストリア併合後にウィーン市内をパレードするヒトラー(1938年10月) ナチ党政権下時代の外交政策は、一般にヒトラーの能動的な計画に帰す「ヒトラー中心主義」的解釈が行われることが多い。 ヒトラーが時に外交政策に大きく関与したことは事実であるが、近年ではやドイツ外務省、ゲーリングといった国内諸勢力の影響も研究対象となり、「ドイツの(外交)政策を、ヒトラーと同一視し続けることができるであろうか」という歴史家ウィリアム・カーの指摘も存在する。 1922年からヒトラーが訴えてきた基本的な外交方針は親英伊・反仏ソであり、当時のドイツ外務省の方針とは対政策を除いて大きく異ならなかった。 ヒトラーには3つの固い信念があった。 第一はベルサイユ条約でバラバラになったドイツを再統一すること、第二は資源確保のためにロシアあるいはバルカン半島方面に領土を拡張すること、第三はロシアの共産主義者を根絶やしにすることであった。 西ヨーロッパの知識人は保守系はもちろんリベラル系の一部までが、思想の伝播を恐れており、その防波堤として、ヒトラーに指導されたドイツに期待していた。 第一次世界大戦では対独強硬派であった元英首相は11月28日に、「近いうちに、おそらく一年以内だと思うが、わが国の保守主義勢力は、ドイツをヨーロッパで拡散する思想に抵抗する前線基地だとする考えで一致するであろう。 ドイツの再軍備を拙速に批判するようなことがあってはならない。 わが国の友邦としてドイツを歓迎する日が来る」と述べている。 ドイツの軍拡はイギリスのお墨付きの上で進んだ。 3月にを行い、5月にを実施した。 そして二年間の秘密交渉の結果、1935年6月 ()が締結された。 この協定はを実質反故にするものであり、主要国には寝耳に水の協定であった。 フランスにとっては大きな打撃となった。 猛烈な反独感情を抱き続けるフランスはドイツの再軍備の動きに反応してロシアに接近した。 1935年5月2日、がで調印され、2月27日、フランスはこの条約を批准した。 ヒトラーはこの条約を違反であるとみなしており、批准されないことを願っていたが、批准された以上はを無防備のままにしておけなかった。 1936年3月にはとに反して非武装地帯と定められていたを実行した。 ヒトラーは主要な理由にの赤化工作攻勢に対抗しなければならないことを挙げた。 イギリスの対独宥和姿勢を肌で感じていたヒトラーは、イギリスはこの動きに理解を示すだろうとの自信はあったが、「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった」と後に述べている。 フランス軍からの攻撃はなかった。 フランスはこの問題を理事会に提訴し、連盟はドイツの行為はベルサイユ条約とロカルノ条約違反と決議したが、制裁についての議論はなされなかった。 ヒトラーは3月29日に国民投票を実施し、98. ロカルノ体制の崩壊で思想の拡散にヨーロッパ諸国は怯えた。 一方ソビエトは、再生ドイツを恐れるヨーロッパ諸国に向かって、彼らを救済する国がソビエトであるとのポーズをとり始めた。 ヒトラーは、共産主義の脅威に対抗しヨーロッパ内部における地位を高めたいという共通の思いを持つ、とを締結した。 さらにヒトラーは、ベルサイユ条約ではドイツの重要な河川海運は国際連盟の国際委員会の管理下に置かれることになっていたが、この条項を破棄すると発表した。 ヒトラーは1936年7月ににおいて、スペイン共和国政府の過激な思想が西ヨーロッパ全体に広がることを恐れて、反乱軍の支援を決定した。 同年9月、ヒトラーはジョージ・ロイド元英首相とで会談し、共産主義思想からドイツを防衛していることを評価された。 同年11月18日、独伊両国はフランコ政権を正式に承認し、ドイツは空軍部隊、イタリアは地上部隊を派遣した。 1937年4月26日には、人民戦線軍の退却を阻止するために、ドイツ空軍「」による、合法的軍事目標である橋などを狙ったが行われたが、目標をそれた爆弾が市街地を直撃し、付属的被害として、一般市民に犠牲者が出た。 東欧を主眼とするヒトラーの対外政策にスペインはほとんど関係なかったが、スペイン内戦が長引けば長引くほど、国際社会の目はドイツ再軍備から遠のき、政府支援をめぐり国論が二分されたフランスの政治的混乱は続き、英仏とイタリアの関係が悪化して、イタリアはドイツに頼らざるを得なくなるなど、ヒトラーにとって好都合であった。 実際ドイツは第三国を通じて、人民戦線軍にも武器を売却しており、ヒトラーはスペイン内戦の早期終結はドイツの国益に合致しないと考えていた。 春、ヒトラーは、フランスと国境を接する地方ではなく、南のを攻めるよう、に進言することを命じたが、それは、人民戦線派の拠点であるカタロニアを占領すれば、内戦が終わってしまうからであった。 ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。 左からチェンバレン、、ヒトラー、ムッソリーニ、伊外相 1931年に発生した以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年11月には、駐独日本国のとドイツ外相の間でが結ばれ、率いるへの対抗を目指した。 同協定は翌1937年11月6日にイタリアも入りとなった。 1937年1月30日、ヒトラーは演説で、ベルサイユ条約の戦争責任条項(第231条)を弾劾し、ドイツがオーストリア、イタリア、日本、ポーランドと締結した条約や協定を挙げて、他国との協調の重要性を訴え、ベルギーやオランダへの中立保障案件やフランスとは事を構える考えがないことを言及したが、対ソビエトの姿勢だけは厳しかった。 1937年11月5日には陸海空軍の首脳を集め、「」獲得のための戦争計画を告げた()。 計画に批判的であった国防相らは陰謀によって追放され、独立傾向があった軍を完全に掌握した()。 1937年11月19日、ヒトラーはイギリスのの卿とで会談した。 ハリファックス卿はベルサイユ条約による、およびに関わる線引きの変更については反対しない、と伝えた。 ただし、それを平和的な手段で行なうことが条件であった。 ハリファックス卿の考えはイギリス政府の考えを示すものであることは、彼が翌年2月に外務大臣に登用されたことからも明らかだった。 彼が山荘を後にした時のヒトラーは高揚し、「ハリファックスは賢い政治家だ。 オーストリア併合の第一歩である7月11日に結ばれた独墺間の合意では、両国はドイツ文化圏に属していることを確認し、文化交流を阻害する規制の即時撤廃を謳っており、両国の新聞は相手国を客観的に報道し、攻撃的な内容にしてはならないこと、オーストリアの外交は、ドイツの進める平和外交を勘案しながら進めることが決められていた。 またオーストリアには野党からも代表を指名し、国家運営に責任をもたせることになった。 ナチス・ドイツのプロパガンダ組織は、表面上は友好的な態度であったが、その裏で国家社会主義の宣伝に努めていた。 2月4日、中央ヨーロッパで攻勢に出ることに反対していた国防相らが突然解任された。 1938年2月12日、ヒトラーは首相とで会談し、自発的に併合の道を歩むことを迫った。 その手始めとして、オーストリア・ナチス党幹部の入閣、ナチス党員の釈放、対独強硬派の参謀総長の解任を要求し、「オーストリアを助けに来る国はどこにもない」と続けた。 イギリスでは、ベルサイユ体制の歪みの解消に理解を示した卿が、対独強硬派のに代わって外相に就き(2月21日)、同じく強硬派だった外務次官は更迭された。 シュシニク首相はヒトラーの要求を表面的に容れる一方、3月13日に国民投票を実施しようとした。 この状況を見たヒトラーは軍事侵攻を決断し、3月12日朝、ドイツ軍はオーストリアに侵攻した。 教国のオーストリアはもともと国家のが嫌いで、(1866年)の敗北もあり、プロシア嫌いの感情は根深いものがあったが、ドイツ軍への抵抗は皆無だった。 オーストリア国民は侵入するドイツ軍をむしろ歓迎した。 発砲の事態が一つもなく、花束で迎えられた。 1938年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にを就任させ、にこぎつけた。 かつてのオーストリア=ハンガリー帝国皇太子がドイツの侵略計画に対抗する構えをみせたが、ヒトラーはこの動きを押さえつけてオーストリアの内閣を交代させたのである。 なお、ヒトラーはハプスブルク家を憎悪しており、オットーがオーストリア政府の頂点に立った場合はただちにオーストリアに侵攻する計画を練っていた。 その名も、ハプスブルク家当主オットーの名を冠した「 ()」というものだった。 こうしてオーストリア国内の抵抗勢力を封じ込めた後、3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。 オーストリア国民はヒトラーを里帰りの凱旋のごとく迎えた。 ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。 「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。 その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。 私はその任務を信じた。 私はそのために生き、そのために戦ってきた。 そして今その任務を果たしたと信じる」。 なお、この時、ヒトラーは、父親の生地を演習地に選び破壊している。 ヒトラーは3月15日朝、ウィーン市民の前で演説した。 広場にはヒトラーを一目見ようとする25万人の市民が集まった。 ヒトラーは当初、連邦国家にするつもりであったが、予想もしなかった熱烈な歓迎を見て、大ドイツ帝国の一部として併合することに決めた。 オーストリア国民の歓迎は、に対する恨みもあったが、ドイツの進めてきた経済再建を評価し、オーストリアを苦境から救ってくれるのではないかと強く期待したからであった。 ドイツに併合されたオーストリアの経済発展は目覚ましかった。 投資、工業生産、住宅建設が活発化し消費も増大した。 観光旅行を楽しむ者が増え、生活水準はたちまちに上がった。 1937年の失業率は21. オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いて、第一次大戦後に誕生した多民族の人工国家で、東方進出への障害である(チェコ系650万、ドイツ系325万、スロバキア系300万、ハンガリー系70万、ウクライナ系50万、ポーランド系6万)を狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるを併合しようとした。 1919年のでは、のに反して、西部ではドイツ系の多いスデーテン地方、北部ではの炭鉱地帯、南部ハンガリー方面では流域、東部は南部にあたる地域がチェコスロバキア領に含まれた。 彼らの要求はチェコ系によってことごとく無視された。 世界同時不況が始まると、ドイツ系住民が多い地域では失業者ばかりになったが、ドイツ系失業者への手当は、チェコ系に比べてかなり少ない額であった。 1935年から36年にかけて成立した法律で、チェコ系が公務員を占めることが多くなり、ドイツ系住民の地域にもチェコ系の警官が配置された。 イギリス政府は6年にわたってチェコスロバキア政府に警告を続け、1937年末には、ドイツ系住民への配慮が必要だ、そうでなければ物理的な衝突が起きると強い警告を発した。 1938年5月には、突然チェコスロバキアが軍を動員し、チェコ人警官がスデーテン地方で、誰何に答えなかったドイツ系の二人の男を射殺する事件が発生した。 1920年から1938年にかけて、少数派となった民族は国際連盟に請願を繰り返した。 そのうえ、1935年5月にはチェコスロバキアはと相互援助条約を締結していた。 1938年に入ると、西部ズデーテン地方のドイツ系住民はドイツへの編入に向けて実力行使に出た。 1938年9月12日から13日には、ヒトラーはズデーテン地方のナチス党指導者に蜂起を促し、ドイツとの併合を主張させた。 チェコスロバキア政府は戒厳令の施行で対抗した。 この状況をみたの首相は9月15日、ヒトラーと会談し、チェコスロバキア政府との事前交渉なしで、ドイツ系住民が5割を超える地域のドイツ編入を容認し、フランスにもそれを納得させると約束した。 9月22日、チェンバレンは英仏は9月15日の約束を承認したと伝えたが、ヒトラーはハードルを上げてズデーテン地方全域の併合を要求したため、交渉は決裂した。 チェコスロバキア、ドイツ、イギリス、フランスは臨戦態勢に入った。 1938年9月29日、ヒトラーはイギリス首相、フランス首相、イタリア首相ムッソリーニを招いてを行い、チェコスロバキアの意志とは無関係にズデーテン地方をドイツに譲ることが確定した。 イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。 ヒトラーは合意が成立するとチェンバレンと二人きりで秘密会談に臨み、「ドイツ総統と英国首相はミュンヘン協定と英独海軍協定こそが両国が二度と戦うことはないという証であると認めた」ということを明記した、独英友好をうたう書面に署名した。 イギリスの歴史教育サイト は、チェンバレンが対独宥和の代名詞となったミュンヘン協定を結んだ背景に次の6点を挙げている。 英国民はチェコスロバキアの領土をめぐって参戦することに同意しなかっただろうこと• ヒトラーの要求の多くが正当であると思われていたこと• チェンバレンは、ドイツがロシア共産主義の防波堤になるためにはそれなりの強国になる必要があると考えたこと• 英国陸軍は戦う準備ができていなかったこと• ヒトラーはドイツ経済を成長させていただけに、多くの人々がヒトラーに良い意味で驚嘆していたこと(1938年のタイム誌はヒトラーを「Man of The Year」に選出していた)• チェンバレンは先の大戦の悲惨さが身に染みていたこと 当時のヨーロッパ各国は戦争が回避できたことを素直に喜んだ。 そのことは帰国したチェンバレン首相をロンドン市民が熱狂的に歓迎したことからもわかる。 1938年10月2日、スデーテン地方併合の混乱に乗じて、はチェコスロバキアに侵攻し、を併合した。 チェコスロバキアに領土を奪取された恨みがあったも、地方の町(現)を奪った。 少数民族の圧力を軽減するためチェコスロバキアは、スロバキア(スロバク系)、(マジァール系・ウクライナ系)の自治を認めた。 また、ドイツとダンツィヒを分断するにもドイツへの復帰を求める150万のドイツ系住民がいた。 ヒトラーは内政上、ダンツィヒとポーランド回廊問題を放置することはできなかった。 ヒトラーはの交渉で併合がドイツ最後の要求であると各国指導者に説明しており、1月に期限10年のを締結していたポーランドとの領土回復交渉は、二国間の円満な合意によって解決したいと考えていた。 10月24日、ドイツの外相はポーランド駐独大使に「ダンツィヒのドイツ返還を容認し、同市へのアクセスルートとなる道路および鉄道をポーランド回廊内に施設することに同意してほしい。 その代わり、ダンツィヒの経済インフラストラクチャーおよび鉄道施設についてはポーランドがこのまま管理権限をもっても構わない。 現行のポーランド国境についてはそれを認める。 この問題が解決でき次第、独ポ反共同盟を結びたい」と提案した。 ヒトラーもリッベントロップもこの提案をポーランドが容認するはずだとの自信があったが、ポーランドの外相はこの提案を拒否した。 1938年11月7日、ポーランドから逃れてきたユダヤ人の青年がパリのドイツ大使館を訪れ、三等書記官を射殺した。 この事件をきっかけにユダヤ人に対する略奪と暴行が起こった()。 11月13日、ドイツ政府はドイツ国内のユダヤ人に対し連帯責任として10億マルクの罰金を科した。 さらにすべてのユダヤ人生徒を高校、大学から追放し、ユダヤ人が特定の職業に就くことを禁じた。 ユダヤ人の映画館、劇場、博物館、コンサート、講演会への立ち入りが禁止され、運転免許も没収された。 ユダヤ人隔離を徹底させる命令も出た。 のルーズベルト大統領はドイツ政府の措置を厳しく批判し、ドイツ情勢の聞き取りを理由に駐独大使を召還した。 ドイツはこれに反発してディークホフ駐米大使を召還し、1938年4月にドイツが合併したオーストリアの対外債務の継承を拒んで以来こじれていた米独関係はさらに悪化した。 1938年12月6日、が調印され、フランスはヒトラーの東方への拡張計画に同意する態度をとった。 1939年1月5日、ヒトラーはポーランドのベック外相をに招き直接交渉に臨んだ。 ヒトラーの要求は、イギリスの歴史家が驚くほど穏健なものであったと書くほどであったが、ベック外相はドイツの提案をすべて拒否した。 リッベントロップ独外相とベック外相はこの案件について、1月6日にで、1月25日から27日にかけてで話し合ったが、何の進捗もなかった。 3月になって、ヒトラーはベック外相とミュンヘンで会談し、ポーランドに格別の配慮を見せたが、ベック外相はヒトラーの示した条件をただちに拒否した。 こうしてヒトラーが期待するダンツィヒ・ポーランド回廊問題の外交的処理は暗礁に乗り上げた。 1939年1月21日、ヒトラーはチェコスロバキア外相をベルリンに呼び、チェコスロバキアはただちに国際連盟を脱退すること、その外交をナチス政権の要求に沿ったものにすること、陸軍を縮小することを要求した。 1939年2月、アメリカ駐仏大使はポーランドの駐仏大使に対して、「戦いが始まればアメリカはすぐにでも英仏の側に立って参戦する」と語り、の決意を伝えた。 1939年3月になると、チェコスロバキアの少数民族の動きが激しくなったため、3月7日、前年11月30日に就任した大統領は、独立を主張するルテニア自治政府を解散させ、3月10日、同じく独立を主張するスロバキア自治政府の首相を解任し、スロバキアの首都を占領した。 ティソはウィーンに脱出し、3月13日にヒトラーと会談した。 翌14日、スロバキアはチェコスロバキアからの独立を宣言し、ルテニアもとして独立を宣言した。 はヒトラーの容認を受けてルテニアに侵攻した。 ハーハ大統領はチェコ系が多数派の、の安全保障を考えなくてはならなくなった。 3月15日午前1時、ハーハ大統領とヒトラーの交渉がベルリンで始まり、午前4時、ハーハ大統領はチェコ民族とその国家をドイツの保護下に委ねる書面に署名した。 この日、ヒトラーはに入った。 ヒトラーの指示により傀儡国家のが成立し、チェコはドイツの保護領「」となった()。 この直後の1939年3月23日には、にによって占領されたを返還させることにも成功している。 3月15日、アメリカの大統領はイギリスの外相に対して、イギリスがその対独外交方針を変更しなければ、米国世論は反英に傾くと脅し、ドイツから英大使を召還することまで要求した。 チェンバレン英首相は米大統領やらの対独強硬派から圧力を受けて、それまでの対独宥和外交から対独強硬外交に変更し、3月31日、ポーランドの独立保障宣言をした。 フランスも追随した。 一方ポーランドは、アメリカやイギリスから圧力を受けて対独強硬姿勢を取った。 その結果、ヒトラーがダンツィヒ・ポーランド回廊問題を外交交渉によって解決する道は閉ざされた。 4月13日には、イギリスはフランスとともに、ギリシャとルーマニアにも軍事援助を約束した。 4月28日、憤ったヒトラーは独英海軍協定と独ポ不可侵条約の破棄を発表した。 しかし、ヒトラーはポーランドとの外交交渉を諦めておらず、「ドイツとポーランドが新しい合意に至るドアはまだ開いている。 両国が対等な立場であることを前提に、そのような合意がなることを歓迎したい」と訴えた。 5月5日、英仏の独立保障を得たポーランドのベック外相は議会演説で、ドイツとの交渉を拒絶すると言明した。 それでもドイツは諦めず、ドイツメディアに反発させないようにさせた。 「ドイツは英仏両国がポーランドに対して圧力をかけ、交渉再開させるだろうと思っている。 ダンツィヒ帰属問題をめぐってヨーロッパが戦争する価値などないことぐらいすぐにわかるだろう。 それがドイツの考えである」とフランス駐独大使は本省に報告した。 しかしポーランドの対独交渉拒否の姿勢は変わらなかった。 4月以降、英仏両国はと三国軍事同盟締結のための交渉を続けていた。 英仏ソ三国同盟が締結されれば、ドイツを牽制できることは確実だった。 同盟の政治的条件についての詰めは7月末に終わり、軍事面での条件を詰める作業だけになっていた。 8月11日、英仏代表団はに入ったが、交渉は一向に進捗せず、8月21日に無期限延期となった。 英仏軍事使節団は貨客船で11日間かけてソ連入りした後、からモスクワまで6日かけて移動していた。 しかも、使節団を率いたのは、英仏両軍の中でも地位の低い人物で、ソ連側が要求した政府高官の派遣は英政府によって拒絶されていた。 そのためにも英仏の戦争参加を思いとどまらせる方策が必要であり、また英仏と戦争になった場合、ソビエトが英仏側に立って参戦する可能性も考えられ、二正面作戦を避けるために、かねてから敵と公言していたソ連との接触を水面下で開始した。 5月3日、ユダヤ人で英仏との集団安全保障を主張していたソ連外相が罷免されると、ヒトラーはが本気でドイツとの関係改善を考慮していることを理解した。 独ソの関係改善の交渉は、最初は経済協力という名目で進められ、8月19日には独ソ間で経済協力協定が締結された。 8月16日、英仏の代表とスターリンのモスクワでの交渉に焦りを募らせていた独外相は「ドイツはソ連と不可侵条約を締結し、もしソ連政府が希望するなら、その期限を25年間とする用意がある。 ドイツ外相は8月18日の金曜以降、総統から委任された全権を持っていつでも空路でモスクワに飛ぶ準備ができている」というメッセージをソ連首相兼外相に送った。 8月20日、モロトフは駐ソ独大使に、ソ連側で作成した不可侵条約の草案を手渡した。 同日午後4時30分頃、ヒトラーは不可侵条約の締結についてのソ連側の提案を了承するという電報をに届けた。 8月23日午後4時過ぎ、リッベントロップ独外相を乗せた飛行機がモスクワに到着し、24日午前2時頃、8月23日付のが調印され 、世界を驚かせた。 この条約には、はソビエトの勢力範囲であること、ポーランドを独ソで二分割すること、はにソビエトが奪われた領土だと認め、ドイツは同地に利権を主張しないことという秘密協定があった。 開戦 [ ] 8月22日、ヒトラーはベルヒテスガーデンの山荘に国防軍の将軍たちを集めて、ポーランドと戦争する決意を語り、イギリスとフランスは戦争に介入してこないであろうという楽観的な見通しを述べた。 開戦の期日はさしあたり8月26日とされた。 8月24日、ヒトラーはポーランド侵攻を命じたが、多方面からの要請で一旦撤回した。 8月25日、ドイツ政府は駐独イギリス大使に、ドイツの要求は、ダンツィヒの回復とポーランド回廊問題の解決で十分であり、イギリスとの戦いは望まないと伝えた。 8月29日午後7時15分、ドイツ政府は英駐独大使に、イギリス政府が改めてポーランド政府に圧力をかけ対独直接交渉に臨むよう指導してほしいこと、ポーランド政府からの特使を8月30日にベルリンに来させるようにしてほしいことが書かれた覚書を届けた。 ドイツがポーランドに求める最終条件は、「ダンツィヒはドイツが併合する、ポーランド回廊地域は住民投票によりポーランドからの分離の是非を決める、同回廊へのアクセスはポーランド人およびドイツ人ともに認める。 また少数民族の交換も認める。 この条件をポーランドが認めれば、軍の動員を解除する」というものであった。 ドイツは30日にはポーランドが全軍に動員をかけたことを確認した。 30日になってイギリスがポーランドに交渉に応じさせたと伝えてきた。 ドイツはポーランドにすぐに全権特使を送るよう要請したが、ポーランドは全権特使を派遣しなかった。 31日、駐独ポーランド大使がリッベントロップ外相を訪れ、ポーランドはドイツの要求を考慮したいと伝えたが、全権委任状は持っていなかった。 ドイツは31日午前中まで待った。 8月31日午後、ヒトラーは全軍にポーランド侵攻を命じた。 独ソ不可侵条約締結直後の9月1日にソ連との秘密協定を元にを開始した。 同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへのを行い、これによってが開始された。 9月15日にの停戦協定を成立させたスターリンは、9月17日にポーランド東部に侵攻した。 イギリスとフランスは、ソビエトには宣戦布告しなかった。 ドイツ軍が独ソ不可侵条約秘密付属議定書で定められたを越えて、首都を含むワルシャワ州の一部とを占領したため、リッベントロップ独外相が9月27日にモスクワを訪問し、9月28日付のと秘密付属議定書が調印された。 10月中にポーランドはほぼ制圧され、ヒトラーの視線は西に向かった。 10月6日、ヒトラーは国会演説で、英仏両国に和平を呼び掛けたが、10月12日、英首相は英下院で、ヒトラーの演説にはとポーランドに加えられた不正を正す何の示唆も含まれていないことを指摘し、ヒトラーの和平の申し出を拒絶した。 1939年9月から1940年4月までの6か月間はドイツと英仏との間で本格的な戦闘はほとんど行われなかった。 9月2日、イギリスの内務大臣は「宣戦布告が即戦闘を意味するわけではない」という考えを明らかにしており、英独間には和平のための密使が激しく往来していた。 9月26日、ヒトラーは「もしイギリスが本当に和平を願っているのなら、彼らのメンツを潰さずに、二週間以内に和平を達成することができる。 条件はドイツがポーランドにおいて完全な自由を得ることを、イギリスが認めることだ」と語ったが、この条件はチェンバレンが受け入れることのできるものではなかった。 英独高官たちは何とか全面対決は避けようと秘密交渉を続けたが、すべて失敗に終わった。 5月10日、対独強硬派のがイギリス首相になって、英独全面対決が始まった。 1939年11月30日、ソ連軍がフィンランドに侵攻し、が始まった。 ソ連は苦戦し、死傷者47万人を出した。 1940年3月12日に和平条約が締結され、ソ連はと周辺を獲得した。 フィンランドの死傷者は17万人といわれる。 ソ連軍の弱体ぶりはヒトラーに多大な影響を与えた。 1939年12月16日、から諸国に戦火を広げよという圧力を受けていたイギリスの戦時内閣は、産がの港からドイツに搬送されるのを阻止するために、ナルヴィク上陸計画を容認した。 1940年2月5日、は、3個師団から4個師団をフィンランド方面に派遣することを決定した。 1940年4月8日午前4時半から5時に、イギリス海軍はナルヴィク港西方のに機雷を設置した。 1940年4月9日、ヒトラーの命令を受けたドイツ軍は北ヨーロッパのとへの侵攻を開始し、その日のうちにデンマークを無血占領し、ノルウェーは英仏連合軍の支援を受けて抵抗したが、6月10日に降伏した()。 5月10日ヒトラーは ()と呼ばれる前線指揮所に移り、そこでとの指揮をとった。 ヒトラーはこれ以降大半を各地の前線指揮所で過ごすことになるが、この指揮所はと呼ばれている。 ヒトラーは作戦の概要だけではなく細部にも口を出し、では疲弊した連合軍の相手は空軍で十分と考え、5月24日、戦車部隊による攻撃を停止させた。 ヒトラーはこの日、「6週間以内に世界に平和がやってきて、私はイギリスと紳士協定を結んでいるであろう」とコメントしている。 この判断は災いし、によって多くの連合軍将兵の脱出を許すこととなった。 しかしフランス侵攻自体は順調に進み、6月6日にはヒトラーも前線に近いベルギー南部の ()に移った。 このころイギリスに敗北感が漂い、政権内部にすらヒトラーとの和平を求める声が上がっていたが、チャーチル首相は和平交渉に断固反対の立場を押し通した。 6月4日、チャーチル首相は下院で「イギリスは断固、最後まで戦い続ける」と語った後、「新大陸がその力をもって旧大陸の救出と解放に乗り出してくるまで」とアメリカの参戦を待ち望んだ。 6月21日にを首班とするはドイツに休戦を申し込み、ヒトラー自ら第一次世界大戦の降伏文書の調印場である、因縁のでのフランス代表との降伏調印式に臨み、その後市内の視察を行った。 7月19日、ヒトラーはイギリスに最後の和平提案を行ったが、イギリスは直ちに拒否し、ヒトラーは大いに失望した。 ドイツ海軍は、ノルウェー作戦で巡洋艦3、駆逐艦10を沈められ、巡洋戦艦2、駆逐艦8が大破させられ、残された戦力は、重巡洋艦2、軽巡洋艦2、駆逐艦4となり、を突破してイギリス本土上陸作戦を実施するのは不可能となったため 、その後の対英戦ではヒトラーは空軍によって制空権を獲得した後にイギリス上陸を考えていた()。 しかしでドイツ空軍は撃退され、イギリスの抗戦意思はゆるがなかった。 7月30日、ヒトラーは「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である対ソ戦の開始を軍首脳達に告げ、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」 として対ソ戦の準備を命じた。 一方で8月30日のとその後のでハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの領土問題を調停し、9月27日には1937年に締結されていた日独伊防共協定の強化を画策していた日本とイタリアとの3国の間で「」を結ぶなど親ドイツ諸国と関係を強化し、を形成しつつあった。 しかし10月22日に行われたの独裁者との会談は不調に終わり、味方に引き込むことはできなかった。 1940年8月、からの極秘電報で、アメリカからイギリスへの駆逐艦50隻提供の件進行中と伝えられ、ヒトラーは1940年のうちはアメリカはおとなしくしてるであろうという、アメリカの動きに楽観的な見解を持っていたが、アメリカのイギリス支援は予想よりもはるかに迅速かつ効果的にな形で本格化するであろうと確信した。 これに対抗する手段は、日本をドイツの同盟国として獲得して、東アジアと太平洋でのアメリカに対する強力な重しとして活用することしかないと、ヒトラーは判断した。 9月9日と10日、独特使は東京で外相と会談し、まず日独伊三国間に同盟条約を成立させてその後ただちにソ連に接近するのが良い、日ソの親善はドイツが仲介にはいる以上たいした困難なく実現できる、独ソ関係は良好であるということを述べ、これは外相の言葉と受け取って差し支えないと保証した。 7月19日の以来、は独伊との提携強化と日ソ国交の飛躍的改善を強く望んでいたため、9月27日、ベルリンで日独伊三国同盟が調印された。 独ソ関係は1940年6月以降、目立って悪化しつつあった。 ソ連は1940年6月にを占領し、同年7月には併合した。 また同年6月にのと北を占領した。 ソ連がやに進出したことはヒトラーを苛立たせた。 特にブコヴィナは旧領であったため、多数のドイツ人が居住しており、ソ連の要求を承認することはできないと回答したが、ソ連が、北部に限ると通告してきたので、ドイツはやむなく承認したのであった。 一方、ドイツが戦争を遂行するためには、ルーマニアの石油が必要であった。 ソ連がルーマニアから領土を奪うと、もルーマニアの地方を要求し、もを要求したため、同年8月30日、ヒトラーはソ連に何の相談もなしにを行った。 しかも、ソ連が南ブコヴィナについて問い合わせていたのに、ドイツは回答せず、ヒトラーは10月12日、ドイツ軍をルーマニアの首都に進駐させ、ルーマニアをドイツの軍事的支配下に置いた。 また、ドイツは9月2日、ソ連にまったく相談せずに、ドイツの軍隊が国内を南から北へ通過してのへ向かうことを、フィンランドに承認させた。 独ソ不可侵条約の秘密付属議定書でフィンランドはソ連の勢力範囲に入ることが明記されており、ソ連はドイツの処置に大きな不満を抱いた。 独ソ関係を打開するために、1940年11月12日と13日、ヒトラーはソ連首相兼外相のとベルリンで会談を行った。 フィンランド、ルーマニア、ブルガリア、ブコヴィナとベッサラビア、・両海峡をめぐり、両者は真正面から対立した。 とくにフィンランドとルーマニアをめぐる対立は深刻であった。 またヒトラーは、日ソ独伊四国で大英帝国の遺産を分割することに目を向けるべきだと述べたが、モロトフはそんな夢のような話より、ソ連にとって切実なのはフィンランドとバルカンであると切り返した。 11月13日の第2回の会談では、モロトフはヒトラーの言葉に逐一反論し、ヒトラーを怒らせた。 会談後、リッペントロップ外相が日ソ独伊四国協定についての自分の草案を提示すると、モロトフはモスクワに帰ってスターリンに相談してから回答すると約束して、イギリス空軍の爆撃に脅かされていたベルリンをあとにした。 1940年11月25日、はモロトフの約束通り、ヒトラーへ回答した。 その内容は、ソ連政府はドイツ外相が示した日ソ独伊四国協商に、次の4つの条件つきで加盟する準備があるというものであった。 ドイツ軍は、1939年の独ソ不可侵条約のとおりに、ソ連の勢力圏に属するフィンランドから即刻撤退せよ。 ただし、フィンランドからドイツへの、木材との供給は、ソ連が保障する。 ソ連は、来る数か月以内にブルガリアと相互援助条約を結び、また、ダーダネルス・ボスポラス両海峡地方に、ソ連の陸海軍基地を設ける。 このことをドイツは了承してほしい。 ソ連の領土的希望の中心は、およびの南からほぼに至る地域に存することを了承してほしい。 日本は、北における石油と石炭の採掘権を放棄すること。 ヒトラーはこの4条件を法外な要求であると断定して、独ソ開戦を決意し、12月18日、指令を発した。 開戦予定日は1941年5月15日であった。 スターリンは1941年2月末までヒトラーの再回答を要求しつづけたが、同年3月2日、ドイツ軍はソ連の狙っていたブルガリアに進駐した。 同年3月27日、3月25日に日独伊三国同盟に加盟したばかりので反独クーデターが起こり、4月6日、の新政府はソ連と不可侵条約を結び、独ソ関係は一層悪化した。 3月5日、ヒトラーは「三国同盟をベースにした提携で、日本を可能な限り早く極東での戦いに参戦させなければならない。 そうなれば英軍の相当部分が極東にくぎ付けになる。 アメリカの関心も太平洋方面に移るだろう。 今次の戦いの大方針は、イギリスを早急に敗北に導くこと、そして同時にアメリカを参戦させないことである」という秘密指令を発した。 同年3月27日、ヒトラーはとベルリンで会談し、日本の対英戦争の早期参戦を要請したが、松岡はコミットメントしなかった。 1941年4月6日、反独クーデター鎮圧のためにを行うとともに、ギリシアを占領してし、ではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。 独ソ戦 [ ] 建造中のヴォルフスシャンツェで撮影されたヒトラーとその幕僚たち(1940年6月) 同年6月22日、が発動し、ドイツ軍はソ連に侵攻を開始した。 ヒトラーは「作戦は5か月間で終了する」 や「まず10週間」 と、先行きについてはきわめて楽観視していた。 6月22日にに置かれた総統大本営「」に移り、1944年11月20日までの大半をここで過ごすことになった。 ヴォルフスシャンツェは防空の観点から森の中に置かれたために昼でも薄暗く、その影響でとなったヒトラーは、深夜まで秘書や側近を相手にして一方的に語るようになった。 また8月には胸の痛みを訴えるようになり、を発症したことを知った主治医のは、ヒトラーにも秘密で心臓病薬の投与を始めた。 緒戦は順調に進み、完全な奇襲を受けて動揺したを各地で撃破した。 しかし7月にはヒトラーと軍首脳の間で意見の相違が生まれた。 軍首脳は攻略を主張したが、ヒトラーはの工業地帯やの攻略を優先させるよう命令し 、モスクワ方面への攻撃を停止させた。 ところが8月末には気が変わり、再度モスクワ進撃を命令した。 ドイツ軍は進撃を再開したが、10月には早くも冬が到来し、降雪とラスプティツァ(、泥濘)が進撃速度と補給を低下させた。 そこに体勢を立て直した赤軍の反攻が開始され、現場指揮官達の間で一時後退論が高まった。 ヒトラーは12月19日に陸軍総司令官など複数の将官を更迭した上に自らが陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁した。 このことで戦線の全面崩壊は免れた。 対ソ戦におけるドイツ軍の最初の後退が行われた直後の12月11日に、同7日に行われたによるイギリス領への侵攻()と、それに続いて行われたアメリカの準州であるのを受けて、これまで直接対峙することのなかったアメリカへの宣戦布告に踏み切る。 これに対しヒトラーは「負けたことのない日本軍の参戦は大きな力を与えてくれる」と喜んだといわれる。 1942年中盤に日本軍がイギリス軍をから放逐したことを受けて、同地におけるを行うことを目的にやを派遣し、日本軍占領下のの海軍基地を拠点にして日本海軍と共同作戦を行ったほか、ヒトラー自らの指示でUボートを日本海軍に提供した。 また日本海軍もドイツ軍からの依頼を受けて潜水艦と特殊潜航艇をヴィシー政権軍とイギリス軍が戦っていたアフリカ南部のに送り、イギリス海軍艦艇を攻撃し撃沈するなど被害を与えた()ほか、を行うなど、いくつかの共同作戦を展開した。 なお、これらの共同作戦のうちいくつかにはイタリア軍も参加し、ドイツの降伏に至るまで続けられることとなるものの、戦域が大きく離れていたこともあり、両国の戦況の好転に大きく貢献することはなかった。 守勢転換 [ ] 作戦指揮を行うヒトラー(1942年) 同年には東部戦線での春季攻勢が計画され、参謀本部は「計画」を提出した。 しかしヒトラーはこの計画を修正し、主作戦に当たる部分は自ら書き替え 、との攻略を主眼とするを命令した。 4月26日にはドイツにおける最後の国会が開会され、ヒトラーには既存の権利や法によらず処罰や解任を行う権利があることを承認する ()が採択された。 ブラウ作戦は当初順調に進んだものの、の攻略に失敗、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなった上にが包囲される事態となった()。 ヒトラーは撤退や降伏も許さず、「ドイツ陸軍史上、降伏した元帥はいない」という理由で第6軍司令官の大将を元帥に昇格させ、暗にを求めた。 しかしパウルスは1943年1月31日に降伏し、ヒトラーを激怒させた。 またにおいてはやなどでの敗北により、枢軸国の勢力は一掃された。 戦局の退勢が明らかになったことで、国内におけるヒトラー崇拝にも陰りが見え始めた。 救出されたムッソリーニと(1943年9月) 1943年にはで突出したソ連軍を包囲する「ツィタデレ作戦」が計画されたが、ヒトラーはこの計画を何度も延期させ、攻勢開始は7月までずれ込んだ。 7月5日から開始されたこの攻撃()は激戦となったが、7月13日に作戦の中止を命令した。 7月10日、に連合軍が上陸()したことで、イタリアの政治情勢が不安定となったという報告を受けており、ヒトラーはその情勢に気を取られていた。 また赤軍に与えた損害を過大評価していたことや、開発中の()や電動Uボート()などの新兵器によって、翌年にはドイツ軍の圧倒的な優位が保たれると考えていた。 にムッソリーニが失脚、その後9月8日に政権が休戦を発表し()、軍はイタリア本土に上陸した。 しかし9月12日に率いる特殊部隊によりムッソリーニを救出し()、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ムッソリーニを首班とするを成立させた。 こうして南部の連合軍と北部の枢軸軍によるが形成された。 連合軍によるドイツへのが激しくなると、ヒトラーはドイツ上空から爆撃機が去ったことが確認されるまで眠ろうとしなかった。 スターリングラードの敗戦以後は好きな音楽を聴くことも止め、側近に同じような話を連日連夜語るようになった。 この頃には日本軍も完全に守勢に回るようになったこともあってヒトラーの不眠症は激しくなり、健康状態はますます悪化した。 暗殺未遂事件 [ ] 詳細は「」を参照 7月20日に、陸軍の大佐が仕掛けた爆弾による未遂事件が起こり、数人の側近が死亡、参席者全員が負傷したが、ヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。 事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となった海軍大将(国防軍情報部長)、元帥、上級大将をはじめ4,000名に及んだ。 また、かつては英雄視された元帥も、関わりを疑われて自殺を強要された。 ヒトラーが奇跡的に死を免れたことは、彼が特別な能力を持っている証拠であるとされ、国民のヒトラーに対する忠誠心もやや持ち直した。 しかし、爆発のショックで極度の人間不信に陥ったと言われており、心身共に健康状態が更に悪化していった。 ドイツ軍は必死の抵抗を続けるも、連合軍は着実に北フランスの各都市を解放し、8月には遂にに迫った。 この際にヒトラーは「」と部下に何度も質問し、どんな手段を使ってもパリを廃墟にするよう命じたが、守備隊司令官大将は従わずに明け渡し、。 その後ヴィシー政権や東欧の同盟国は次々に脱落し、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。 特に油田を抱えるの脱落はドイツの石油供給を逼迫させた。 労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。 秋の終わりに西部戦線の連合軍が西岸に迫ると、ヒトラーは大きな賭けに出ることを決断し、からまでドイツ軍を突進させ、連合軍の補給を断つ作戦を自ら立案した。 米英軍に大きな打撃を与えれば、戦争の休戦とドイツ軍に対する援助を行い、独英米対ソ連の「東西戦争」が発生すると確信していた。 ヒトラーは作戦の準備との手術のため、11月20日にヴォルフスシャンツェからベルリンのに移った。 12月16日に開始されるドイツ軍の反攻作戦「ラインの守り」のため、ヒトラーは12月11日にフランス国境近くに設置された ()に移った。 作戦は当初成功し、連合国軍を一時的に大きく押し戻した。 しかし、天候が回復すると空軍の支援を受けた連合軍に圧倒され、戦線に一時的に大きな突出部を作るに留まった。 こうしてヒトラーの無謀な賭けは、ドイツ軍最後の予備兵力・資材をいたずらに損耗する結果となった()。 敗戦 [ ] アルデンヌ攻勢で戦うドイツ兵 1945年1月から赤軍はを開始した。 これを受けてヒトラーは、1月15日にベルリンの総統官邸に戻ったが有効な手は打てず、2月にはドイツ軍がのほとりまで押し込まれた。 同月にドイツ軍を作戦開始地点より東まで押し戻した米英軍は、3月にを突破した()。 また戦線も危機的になり、領内の油田失陥の可能性が高まった。 3月15日よりの奪還と油田の安全確保のため「」を行うが、またしても無謀な命令を連発したために失敗し、ただでさえ消耗しきった戦力は更に減退した。 ヒトラーは1月からで生活するようになり、3月頃からラジオ演説も止め、ほとんど庭に出ることもなくなった。 視力や脚力も衰え、支え無しに30歩以上歩くことも困難になった。 この頃になると利害が異なる各官庁からの意見調整もままならず、3週間の間に全く方針が異なる総統命令を出す有様であった。 3月19日、ヒトラーは連合軍に利用されうるドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう命ずる「」を発したが、戦後の国民生活に差し障ると軍需大臣のに反対された。 しかしヒトラーは「戦争に負ければ国民もおしまいだ。 (中略)なぜなら我が国民は弱者であることが証明され、未来はより強力な東方国家(ソ連)に属するからだ。 いずれにしろ優秀な人間はすでに死んでしまったから、この戦争の後に生き残るのは劣った人間だけだろう。 」と述べ、国民を顧みることはなかった。 結局シュペーアはこの命令を無視し、はほとんど実行されなかった。 4月16日、東部の最後の防衛戦を突破した赤軍はベルリンに向かった()。 側近や高官はヒトラーに避難を勧めたが、彼は拒絶した。 4月20日、56歳の誕生日を祝うために、軍とナチ党の高官が総統官邸に集まった。 この日開催された軍事会議で、連合軍によってドイツが南北に分断された場合に備え、北部を海軍元帥が指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった。 また、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。 この頃になると親衛隊すら信用できなくなり、「全員が私をあざむいた。 誰も私に真実を話さなかった」と言うほどであった。 部隊を視察するヒトラーとゲーリング(1945年4月) 赤軍はベルリン市内に砲撃を加え、じりじりと迫ってきた。 ヒトラーはなおもベルリンの門前で大打撃を与え、戦局が劇的に変わると言い続けていた。 しかし4月22日の作戦会議で、ヒトラーはついに「戦争は負けだ」と語り、ベルリンで死ぬと宣言した。 しかしその後は態度を変化させ、再び指揮を執り始めた。 しかしこれを受けて4月23日には、総統地下壕を脱出した空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長上級大将の伝言を携えゲーリングの元を訪れる。 ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。 ゲーリングは不仲であったボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。 電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図がある」とヒトラーに告げた。 これに激怒したヒトラーは、ゲーリングの逮捕と全官職からの解任、そして別荘への監禁を命じた。 しかしシュペーアによると、この2時間後にヒトラーは「よろしい、ゲーリングに交渉をさせよう」とつぶやいたという。 早期の降伏を考えていたシュペーアは、ゲーリングが降伏責任者となれば交渉で時間稼ぎをすると考え、飛行機に乗って連合軍と交渉しようとした際に備えて撃墜命令を出していた。 自殺 [ ] ヒトラーの死を伝える『』号外 4月23日、赤軍がベルリン市内に突入した()。 4月29日、親衛隊全国指導者ヒムラーが独断で英米に対し降伏を申し出たことがで放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。 彼は激怒し、彼を全職責から解任するとともにその逮捕命令が出されたが、もはやその執行すらできない状態であった。 終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行った。 後者の中で戦争はユダヤ人に責任があるとしたほか、あくまでユダヤ人を絶滅させようとしたことは正しかったと主張した。 そして大統領兼国防軍最高司令官職に海軍元帥、首相にゲッベルス、ナチ党担当大臣にボルマンをそれぞれ指名した。 さらに「国際ユダヤ人」に対する抵抗の継続を訴えた。 個人的遺書では愛人との結婚と、自殺後に遺体を焼却することを述べた。 この遺書をタイプした秘書にヒトラーは「ドイツ人は私の運動()に値しないことを自ら証明した」と語り、自らの政治活動が終焉したことを認めた。 遺書をタイプした後の午前2時 、エヴァと結婚式を挙げた。 そして、毒薬の効果を確かめるため愛犬を毒殺した後、午後3時にエヴァと共に自室に入り、自殺した。 56歳没。 自殺の際ヒトラーは拳銃を用い(青酸カリを使ったとする説もある )、エヴァは毒を仰いだ。 遺体が連合軍の手に渡るのを恐れ、140リットルのがかけられ焼却された。 焼け残った遺体は後に赤軍が回収し、もソ連のみによるものだったこと、また側近らの証言も曖昧で矛盾したものが多かった為、長い間ヒトラーの死の詳細は西側諸国には伝わらなかった。 これらのことが後年「ヒトラー生存説」が唱えられる原因となった。 ソ連によりヒトラーの死体は秘密裏に埋められたが、に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨された。 これらの情報は、終結後のに旧ソ連のと、後継組織であるのに保管されていた記録が公開されたことによって明らかになった。 略年表 [ ]• 1889年(0歳):オーストリア・ハンガリー帝国の地方での税関吏アロイス・ヒトラーの4男として生まれる。 1895年(6歳):父アロイスの農業事業のためにバイエルン王国パッサウ地方に移住。 1897年(8歳):父の事業が失敗し、一家はオーストリアへ戻る。 アロイスとヒトラーとの諍いが始まる。 1900年(11歳):小学校を卒業。 (ギムナジウム)には進めず、リンツの(リアルシューレ)に入学する。 1901年(12歳):二年生への進級試験に失敗、。 1903年(14歳):アロイス病没。 リンツ実技学校中退。 1904年(15歳):シュタイアー実技学校入学。 1905年(16歳):シュタイアー実技学校中退。 以後、正規教育は受けず。 1906年(17歳):遺族年金の一部を母から援助されてを受験するも不合格。 以降、下宿生活を続ける。 1908年(19歳):アカデミー受験を断念。 下宿生活を終えて住居を転々とする。 1909年(20歳):住所不定の浮浪者として警察に補導される。 独身者向けの公営住宅に入居。 1911年(22歳):遺族年金を妹に譲るように一族から非難され、仕送りが止まる。 の絵葉書売りなどで生計を立てる。 1913年(24歳):オーストリア軍への兵役回避の為に国外逃亡。 翌年に強制送還されるが「不適合」として徴兵されず。 1914年(25歳):にドイツ帝国が参戦するとバイエルン軍に義勇兵として志願。 1918年(29歳):マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより野戦病院に収監、入院中にが終結する。 最終階級は伍長勤務上等兵。 1919年(30歳):でに参加し、大隊の評議員となる。 革命政権崩壊後、ミュンヘンを占領したに軍属諜報員として雇用され、への潜入調査を担当する。 1920年(31歳):ドイツ労働者党の活動に傾倒し、軍を除隊。 党はに改名される。 1921年(32歳):党内抗争で初代党首を失脚させ、第一議長に就任する。 1923年(34歳):のに触発されてを起こすが失敗。 警察に逮捕される。 1924年(35歳):禁錮5年の判決を受けてに収監。 12月20日、仮釈放される。 1926年(37歳):『』出版。 党内左派の勢力を弾圧し、による党内運営を確立()。 1928年(39歳):ナチ党としての最初の国政選挙。 12の国会議席を獲得。 1930年(41歳):ナチ党が第二党に躍進。 1932年(43歳):ドイツ国籍を取得。 大統領選に出馬、決選投票でヒンデンブルクに敗北して落選。 しかし国会選挙では第一党に躍進してさらに影響力を高める。 1933年(44歳):ヒンデンブルク大統領から首相指名を受ける。 制定、一党独裁体制を確立。 1934年(45歳):突撃隊幹部を粛清して独裁体制を強化()。 ヒンデンブルク病没。 大統領の職能を継承し、国家元首となる()。 1936年(47歳):非武装地帯であったラインラントに軍を進駐させる()。 1938年(49歳):オーストリアを武力恫喝し、併合する()。 に凱旋。 でを獲得。 1939年(50歳):チェコスロバキアへ武力恫喝、チェコを保護領に、スロバキアを保護国化()。 同年に独ソ不可侵協定を締結、を開始、が勃発する。 以降大半を各地ので過ごす。 1940年(51歳):ドイツ軍がノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスに侵攻。 フランス降伏後、パリを訪れる。 1941年(52歳):ソビエト連邦に侵攻を開始()。 年末には日本に追随してアメリカに宣戦布告。 1943年(54歳):で大敗。 また連合軍が北アフリカ、南欧に攻撃を開始、イタリアが降伏する。 1944年(55歳):ソ連軍の一大反攻()により東部戦線が崩壊、連合軍が北フランスに大規模部隊を上陸させる()。 7月20日、自身に対する暗殺未遂事件によって負傷。 1945年(56歳):と結婚。 ベルリン内の総統地下壕内で自殺。 思想 [ ] 反ユダヤ主義 [ ] 本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された「生粋の者」と見なされる傾向が強い。 それはキリスト教社会であったヨーロッパ全体に広がっていた差別意識を発見し政治的に活用した色彩が強く、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつそのような差別意識を身につけたのか判断するのは難しいとしている。 ヒトラーが幼い頃に母親と通ったの主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。 なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師はユダヤ人であった。 ブロッホは後にユダヤ人迫害が開始された後も「 ()」として手厚く保護され、その後外国に解放されたという。 ヒトラーは自分が恩義を受けた相手にはユダヤ人であっても例外的に扱ったのではないかという指摘もある。 このような待遇を受けた人物としては、第一次世界大戦下でヒトラーの叙勲を推薦した上官 ()や、ヒトラー山荘に勤務した料理人 ()がいる。 エルンスト・ヘスはナチ党政権掌握後、ナチス政府に迫害を受けていたが、ヒトラーに迫害の中止を訴え、待遇が改善されている。 しかし1941年になると強制収容所に送られた。 エクスナー夫人はヒトラーお気に入りの調理人であったが、ボルマンの調査によってユダヤ系の血が入っていたことが発覚し、ヒトラーは彼女を解雇する代わりに彼女と家族に「名誉アーリア人」待遇を与えた。 また、ナチス政権下で、「名誉アーリア人」として航空省次官となったの父親はユダヤ人であったという説がある。 ヒトラー自身も言っていたように、ウィーン生活を送る1910年夏頃に反ユダヤ主義的思想を固めたと見られている。 ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。 ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。 また、ヒトラーの友人であったクビツェクはウィーンで同居していた頃に、すでに反ユダヤ的思想を持っていたと証言している。 それ以降にヒトラーと関係があったユダヤ人には、第一次世界大戦後にヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人がいる。 ヒトラーは管理人が作った食事を食べながら党幹部と打ち合わせを度々行っていたが、党勢の拡大とともにヒトラーはアパートを引き払った。 いずれにせよ、入党後の1920年8月23日には『』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた。 一方でユダヤ人のやのレコードを所持していた。 ヒトラーは「いったい、なぜドイツがかくも衰退したのであろうか?それは敵国とユダヤ人がドイツに対して仕掛けた世界大戦にまき込まれて、敗北したからである。 はユダヤ人と犯罪人とが起こしたものだ。 はドイツを永遠に奴隷化するための機構だ」と演説している [ ]。 著作 [ ] わが闘争初版本。 1925年発行 のというべきヒトラーの著書『』は、ナチ党政権時代のドイツでと同じくらいの部数が発行されたともいわれている。 その内容は自らの半生と世界観を語った第1部「的世界観」と、今後の政策方針を示した第2部「運動」の2つに分かれる。 この中でヒトラーは「の的優越、におけるの獲得」を説いている。 近代ドイツ最大の哲学者の著作である『』の影響が強く見られ、ヒトラーの思想を、「力こそが全て」というニーチェの書からの誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘されることが多い。 ナチス政権時の発行数からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことが窺える。 しかしヒトラーは後に「わが闘争は古い本だ。 私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っている。 またには「結局私は物書きではなかった」「思想は書くことによって私から逃げ出してしまった」「もしも私が、1924年にやがて首相になることを知っていたら、私はあの本を書かなかっただろう」と語っている。 1928年には、に口述して執筆した第二の著作が完成した。 しかし、生前のヒトラーは「 ()」(続・我が闘争)と呼ばれるこの本の公表を許さず、刊行されたのは戦後になってからである。 「現在のドイツでは『わが闘争』はによる発禁本のリストの中に入っている」とよく誤解されるが、実際の理由は、著作権と出版権を委ねられているバイエルン州政府がどの出版社にも著作権を渡さないことにあった。 しかし保護期間は出版から90年の2015年までのため、2016年以降は出版は自由となり、歴史的意義に鑑み、注釈付きで刊行されている。 ヒトラー自身の思想を伝える物は、公の場で行われた演説、政治的文書のほかには関係者による記録が存在する。 「」と呼ばれる物は、1941年から1944年にかけてヒトラーが私的な場で語ったものを、マルティン・ボルマンの命令によって記録したものである。 このほかにボルマンが書き留めたとされる、1945年2月と4月のヒトラーの談話が存在する( ())。 ただしこの文書は、やが支持したものの、ドイツ語による原文が発見されておらず、など複数の歴史家はきわめて疑わしいと考えている。 他に、幹部であったシュペーア、 ()、、側近である秘書のや護衛兵であったなどがヒトラーの言動を記した著書を残している。 宗教観 [ ] ヒトラーは表面上こそ徒であるとしていたが、教会に対してはナチズムに従順な「」の立場を望んでいた。 また内々の談話では「聖書がドイツ語に翻訳されたのはドイツ人にとっての不幸」「が滅んだのはやゲルマン民族のせいではなくキリスト教のせいである」等とキリスト教や聖職者を批判する発言をしていた。 ただしヒトラーは無神論者ではなく、自然の中に全能の存在がいると語っていた 対日本観 [ ] ヒトラーは元々日本や日本人を蔑視していたが、日独伊三国同盟以降、親日派であるハインリヒ・ヒムラーなどの側近達を通して日本を学び、次第に肯定的な発言が増えていった。 ヒトラーは『わが闘争』の中で、日本人について、「文化的には創造性を欠いた民族である」 とし、日本語の発音を鵞鳥のようだと酷評している。 『わが闘争』には日本人に対して差別的見解が多く、原文で読んだは「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている 」として、ヒトラーやナチズムの根底には強固な主義・主義があるとみている。 大日本帝国海軍によるとの成功の報告を受けた際には「我々は戦争に負けるはずがない。 我々は3000年間一度も負けたことのない味方ができたのだ」と語り対米宣戦を行ったが 、当時の日本の快進撃を誇大発表と感じており、日本の発表を直接報道しない措置を承認している。 が最もこだわる思想からすれば、白人かつと考えられていたの英米を心情的に応援するのは当然であったし、「による統治」を唱えるやは悪夢でしかなかった(特にの脱植民地化には猛反発していた)。 つまるところ、日独の同盟やそれ以降の好意的な発言は、政治的利点による行動であって、思想的には非難すべき行動と見ていたのである。 シュペーアによれば、有色人種の大国である日本との同盟について、イギリスがロシアとの対抗で結び、後に解消されたを引き合いに出して正当化したという。 日本がドイツの最終的な敵国になるとの考えもしばしば口にしており、「近い将来、我々は東洋の覇者(日本)と対決しなければならない段階が来るだろう」とシュペーアたち側近に語っていたというエピソードがある。 ポーランド侵攻直前にはイギリス大使 ()に対し、「大戦争が起きれば各国が共倒れになり、唯一の勝者が日本になる」と伝えている。 一方、日独防共協定成立以降は、ヒトラーと多くの日本人が面会し、いずれもヒトラーが親日的であるという感想を持った。 は「彼の日本に対する憧憬は驚くべきものがある」とし、は「彼の日本に対する考え方は絶対的である」と捉え、駐独大使は「ヒトラーの日本贔屓は日露戦争の時からだ」と発言している。 またヒトラーは後大使に「貴国には『勝ってかぶとの緒を締めよ』という諺のあることを承知したが、これは誠に意味の深い言葉である。 われわれは今こそ兜の緒を締めるべき時である」この日本の諺を好んで口にしている。 1939年にベルリンで開かれた「」では、美術展を公式訪問したヒトラーがのを含めた数点の美術品に深く興味を示したという報道が日本では行われたが 、ドイツではヒトラーが興味を持った作品についてはほとんど報道されなかったことからも、ヒトラーの美術展訪問はあくまで儀礼的なものであった。 ヒトラーは「ユダヤ人は日本人こそが彼らの手の届かない相手だと見ている。 日本人には鋭い直観が備わっており、さすがのユダヤ人も内から日本を攻撃できないということが分かっているのだ」と述べ、イギリスとアメリカが日本と和解すれば多大な利益を得られるが、その和解を妨害しているのがユダヤ人だと語っている。 ボルマンメモの1945年2月13日付の記述では「私は中国人と日本人が我々より劣っていると見做したことはない。 彼等は古代文明に属しており、彼等の過去が我々より優れていたと率直に認める。 我々が我々の文明を誇れる権利があるように、彼等は過去に誇りを持つ権利がある。 彼等が人種としての誇りを強固にすればするほど、私は彼等と容易に協力し合えるだろう」と述べている。 これらの経緯や政治的理由から日本人が「名誉アーリア人」としての扱いを受けたという説もあるが、 ()などヒトラーが裁可した人種差別法では、日本人が明示的に厚遇を受けたわけではない。 1934年に日本人が関わった事件の報道の際、人種法について触れないようにするという通達が行われたように、あくまで政治的配慮によって手心を加える範囲のものであった。 また「我々ドイツ人は日本人に親近感など抱いてはいない。 日本人は生活様式も文化もあまりにも違和感が大きすぎるからだ」とも述べている。 ホロコースト [ ] ヒトラーの生家の前の歩道に建てられた ()。 「平和、自由、そして民主主義のため 二度とを繰り返すな 数百万人の死者は警告する」と刻まれている。 石はの採石場にあったものが使われている。 1940年にヒトラーは、ドイツ国内のユダヤ人をに移送させる計画()を検討させた。 これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。 1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。 1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるの方針を決定づける「」が行われた。 しかしながら、文章上では「絶滅」や「殺害」と言った直接的な語句は使われず、「追放」や「移民」と言った語句が最後まで使用された。 政権奪取以降、ユダヤ人迫害政策を指揮、指導していたヒトラー自身が、ユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は現存していない。 このため、ホロコーストの命令に関しては「ヒトラーが包括的・決定的・集中的な一回限りの絶滅命令を口頭で指令した」という、 ()らの説、「正規の集中的絶滅命令は存在せず、軍政・民政・党・親衛隊の各部局が部分的絶滅政策を行った。 ヒトラーはこれらの政策に同意や支持を与えていた」とし、絶滅政策が一貫したものではなく即興性を持つものであるというミュンヘンの現代史研究所所長 ()、 ()、らの説がある。 しかし、1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議 においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている。 内々でも「この戦争の終結はユダヤ民族の絶滅を意味する」と語っている。 党写真家の娘で指導者の夫人であった ()の回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。 ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。 1943年4月7日にパーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「あなたはセンチメンタリストだ!いったいあなたと何の関係がある!ユダヤ女のことなどほっといてもらいたい!」と怒鳴りつけた。 その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。 健康政策 [ ] ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。 特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって、癌の治療は特別な意味を持っていた。 厚生事業のスローガンとして「健康は国民の義務」を定め、に対してもを積極的に行った。 環境や職場における危険を排除し(のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。 医師達はとくにタバコの害を熱心に訴え、彼らは世界で最も早くをと結び付けた。 「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。 そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や・を「ナチズムを彷彿させるもの」としてタブー視する傾向にある。 政治手法 [ ] 演説 [ ] 詳細は「」を参照 ヒトラーは「人を味方につけるには、書かれた言葉よりも語られた言葉のほうが役立ち、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な書き手ではなく偉大な演説家のおかげで拡大する」と演説の力を極めて高く評価していた。 ヒトラーは若年の頃から演説をする癖を持っており、親友であったクビツェクもその演説をたびたび聴かされている。 第一次世界大戦直後に軍の情報員として働いていたころから初めて多くの人々の前で演説することになり、大きな喝采を得た。 ヒトラーは「私は演説することができた」と回顧している。 ナチ党の指導者になってからも「大衆を興奮させ、感激させる術を心得ており、」「俗物の大きなうなり声と金切り声で大衆を魅了した」。 またヒトラー自身も『我が闘争』において、「大学教授に与える印象によってではなく、民衆に及ぼす効果」によって演説の価値が量られるとしている。 ヒトラーの演説は一見その場のアドリブのように見えるが、実際には詳細なメモ書きによって構成されていた。 一見変わった言い方をしている場合にも、大衆の興味をひく意図があってあえて変更していることもあった。 ミュンヘン一揆後にはバイエルン州などによって演説を禁じられ、に演説を代読させることもあった。 、を駆使し、修辞的な面でにもヒトラーの演説は1925年頃にすでに完成の域に達していた。 しかしヒトラーの発声術は独学によるものであり、1932年頃には声帯を損傷する恐れもでてきた。 そこでヒトラーはオペラ歌手 ()の指導を受け、声帯に負担をかけずよく通る発声術や、効果的なジェスチャーを身につけた。 デフリーントはヒトラーがプロパガンダのために、同じ内容の演説を繰り返すことに辟易していた様を記録に残している。 政権獲得後にはラジオによる演説も行われるようになったが、大衆が飽きるのも早く、1934年頃からヒトラー演説の放送は次第に減少し、娯楽番組が多く流されるようになった。 亡命 ()の通信員も、ヒトラー演説の聴取を義務づけられた大衆が冷たい反応を示している様を記録に残している。 戦局が苦しくなると、ヒトラーの演説は次第に減少し、大規模なラジオ演説は1940年に9回、1941年に7回、1942年に5回、1943年には3回にまで減少した。 迫力のある演説も減少し、原稿をただ読み上げるだけの演説が、聴衆の無い会場で収録されたものが放送されるようになった。 1945年1月30日に放送された、ドイツ国民にむけた演説が最後のものとなった。 部下の支配 [ ] ヒトラーは自身の行動を評価する組織の存在も許さなかったし、制約する規範や法律の制定を認めなかった。 また部下が決定を迫ることで自らに圧力をかけることも嫌い、そのような事態が起きればわざと決定を延期することもしばしばあった。 軍事に関してもそうであったが、もともと記憶力には優れたものがあったヒトラーは会議の前に統計や文書を暗記し、会議が始まると膨大なデータ量で聞き手をうんざりさせ、早く終わらせたいと思わせて自分があらかじめ考えていた案を呑ませることを行っていた。 ヒトラーと軍事 [ ] 「」も参照 ヒトラーは軍事力を極めて重視しており、「世の中に武力によらず、経済によって建設された国家など無い」と、軍事力こそが国家の礎であると主張していた。 また政権掌握直後には国防軍首脳といち早く協議を行い、突撃隊を押さえ込んで協力体制を構築しようとした。 ヒトラーは膨大な資産と、国家の財産から将軍達に個人的な下賜金、土地の供与を行い、彼らの歓心を買おうとした。 ヒンデンブルクは所有していたノイデック荘園が2倍の規模になるほどの優遇措置を受け、元帥も広大な荘園の贈与と優遇措置を受けている。 一方でブロンベルク罷免事件以降は軍の権力を押さえることにも力を入れるようになった。 ヒトラーは軍事指導に異常な程の熱意を注いだことも、他の独裁者に比べて顕著であった。 大戦中期間、ほとんどを前線に近い総統大本営で好んで過ごした。 また1942年からは自ら陸軍総司令官を兼任、1942年9月から11月までは前線の司令官を兼任して指揮するなど元首として異例の行動を採った。 またアルデンヌ反攻作戦など自ら作戦を発案するなど、作戦の細部にまで関わった。 その中でヒトラーは退却や降伏を徹底して嫌い、精神論に基づいた考えを軍に強要した。 同様に自らの直感を重視してのような不利な報告を行う者、や防御など「退嬰的」な提案をする参謀本部との関係が険悪になった。 そればかりか敗戦が続くのは自らの命令を正確に行わない将軍達の「裏切り」が原因であるとし、側近や軍幹部に当たり散らした。 1944年7月20日のは参謀本部を形成する高級軍人達への不信感を決定的なものとした。 1945年4月30日という自殺の日になっても、独ソ戦敗因は堕落した参謀本部と将軍にあると語り、官邸内や地下壕内にスパイがいるとして、自らの責任については言及することはなかった。 しかし、イタリアのムッソリーニやソ連のスターリンなどの独裁的指導者がに叙されたのに対して、ドイツには伝統的にそうした習慣がなかったため、ヒトラーは最後までを含め階級を称することはなかった。 芸術やメディアの政治利用 [ ] 当時の最新メディアであったや、などを活用してプロパガンダを広めるなど、の力を重視していた。 情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた()。 また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のによる2部作の記録映画『』を制作させている。 若年期芸術家を志して挫折した過去があるためか、、、をはじめとした若く才気あふれると認めた人物には大いに援助をした。 人物像 [ ] 体格 [ ] 身長については中肉中背である。 172cmから173cmなどとされている資料がしばしば見受けられるものの、1914年のザルツブルクでの徴兵検査で175cmと記されているため、これが正確な数字であると見られている。 「ヒトラーは自分の身長が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていた」などの話はあるが、これは戦後ヒトラーを小物として印象づけるために成されたデマの一つである(もっとも車については多くのパレード用リムジンと同じように、同乗者より自身を目立たせるために座っていた座席と車の床のかさ上げが行われていた)。 遺体検証の際、後述する病の影響で萎縮した体格から「推定163cmほど」と記録されたことが小柄というイメージにより拍車をかけたと思われる。 体重は時期によって大きく変わるが、運動不足から1944年1月には体重が230ポンド(約104kg)に達したという。 瞳は青色で髪も幼少時まではであったが、長じるに従い色素が沈着して青年期にはになった。 現実のナチス高官は理想的な「アーリア人種」の体格(金髪碧眼かつ大柄で健康的)とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とはヒトラーのように金髪で、のようにスマートで、のように背が高いこと」()と皮肉られている。 他に口元に小さく髭を蓄えていた事は有名である。 元々ヒトラーは鼻の穴が他の人より大きく見えることにコンプレックスを抱いていたとされ、青年になって髭が生えるようになるとこれを隠すために伸ばすようになった。 当初は横に伸びたであったものの、第一次世界大戦に従軍中、ガスマスクを装着するにあたって不便が生じたため、髭の両端を切り落として真ん中で揃えたスタイルに変え、以降この「チョビ髭」を終生保った。 小柄なイメージと相まって「チビのチョビ髭」というイメージがの映画『』以降定着するようになった(ヒトラーは『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は残されていない)。 エヴァ・ブラウンはヒトラーと出会った当時、おかしな口髭と思っていたようである()。 第二次大戦中に連合国軍はヒトラーに女性ホルモンを摂取させて女性化した彼にヒゲを剃らせてしまおうと計画した()。 七三に分けた髪形も特徴的だが、ヒトラーは遺伝的にで前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。 記録 [ ] テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)。 ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。 健康状態 [ ] ズデーテンラントで食卓を囲むヒトラー(1938年) ヒトラーは体が弱いほうではなかったが、母親がで苦しむのを見ていたため、自らもがんで死ぬのではないかというにとりつかれていた。 父親もで亡くなっており、家系的な病気に神経質なほどに気を使っていたが、その不安自体が悪循環に精神の病()として体調不良につながっていった。 時に敵軍が投下したに動揺して、による症状を起こしてによる治療を受けている。 1928年頃、不安によるから逃れるため、精神科に通院して治療を試みているがうまくいかなかった。 衛生面への気遣いも人一倍で、一日に何回も風呂に入っては念入りに体を洗うのが日課だった。 しかし、口内衛生については極めて悪く、ヒトラーの歯は黄ばんでおり、があったと当時の秘書が回想している。 ヒトラーの遺骸を調査した ()によれば、ヒトラーの歯の状態は他に類を見ないほど悪く、虫歯と歯周病が口臭の原因であった可能性が高い。 歯科医が1945年に記録したカルテでは下顎の前歯をはじめとした5本を除いてほとんどが金属製あるいは陶器製の義歯やブリッジ、あるいは被せ物を施されており、上顎の奥歯は全て抜け落ちて放置されたままだった。 これは伴侶のエヴァの歯の状態が治療の必要性がないと評されるほど良好であったのとは対照的だった。 ウィーンを深夜徘徊するなど青年時代からすでに気味で、乱れた生活を送っていた。 であったため、独裁者になってからも会議は深夜に行われることも多く、会議がない時でも明け方近くまで側近達を集めてティー・パーティを開いた。 側近達は途中で退席することもできず、ヒトラーが眠るまでつきあわされた。 このため昼間の業務も行わなくてはならない側近達は非常に苦労したという。 ヒトラーが眠りにつくと、なにがあろうと起こすことは許されなかったが、これが災いしての対応に遅れたとも言われている。 1933年頃になると消化器官の不調に悩まされ、50歳に近づいた1936年頃には、、とめどないに加え、足のにも悩まされるようになる。 持病の治療に悩んでいたヒトラーに恋人であるエヴァ・ブラウンが紹介したのが医師であった。 モレルの処方した薬には劇物が多かったため依存性や副作用が強く、ヒトラーの症状は一時的に改善されたが、次第に副作用が心身をむしばんでいった。 モレルの診断や処方する劇薬に他の医師達は懐疑的であり、紹介したエヴァをはじめとする側近達も次第に不信感を強めたが、症状回復を望んでいたヒトラーの信頼は厚く、最期を迎える寸前までモレルは主治医を務めた。 モレルの個人的メモにはなどの記録があり、ジャーナリストの ()が唱えるようにヒトラーが薬物中毒の状態にあったという主張もある。 ただし、モレルのメモには量や頻度に関する記載がほとんどなく、あったとしてもごく僅かな頻度にとどまっていうる上、イアン・カーショーが指摘したように、モレルとの出会いの前後でヒトラーの性格が変化したということもないため、ヒトラーが麻薬中毒状態にあったという説は多くの歴史家から否定されている。 大戦中の1942年頃からヒトラーは左手が震えるようになった。 左手の震えは、徹底した撮影アングルの規制とによって記録フィルムからカットされたが、検閲に漏れたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄されずに残った一部のフィルムによって確認されている。 映像を見た小長谷正明などの神経科医や、晩年のヒトラーと接見した兼国防軍軍医の教授はと断定している。 当時は治療法がなく、症状は確実に進み、肉体と思考能力を低下させていった。 食事の際も震えは止まらず、右手も不自由になりしばしばスープをこぼしてしみが付いた。 このパーキンソン病は1941年頃から発症し、それがかつての柔軟な外交政策を取った頃と異なり、頑迷で無理な戦争指導につながった側面がある。 1944年頃になると震えに加えて猫背になり、よちよち歩きをするようになった。 まだ55歳であったにもかかわらず、衰えた容貌から70代の老人に見えたという。 精神的にも戦局の悪化などかんしゃくを起こすようなできごとが多くなり、不眠症に拍車を掛けた。 そのため体力も急速に衰えはじめ、数十メートルほどしか歩けなくなり、従者の体に寄りかかったり、総統専用のベンチに座って休憩をしなければならなくなった。 シュペーアの証言では、晩年には美術学生時代の技術は失われ、対面した際地図に直線を引くつもりが線は次第に曲がっていった。 署名も判読できなくなり、ボルマンに悪用されることになった。 視力も衰え、専用の通常より3倍も大きな文字で打たれた書類ですら大きな虫眼鏡で目を通さなければならなかった。 青年期からの誇大妄想やパラノイアも悪化して、周囲をほとんど信用しなくなった。 健康法 [ ] 詳細は「」を参照 一般的な健康法であるは好まず、色白で汗をかかない姿から不健康な人物という印象を与える事もしばしばだった。 本人は運動不足を心配した医者に「私にとっての最大のスポーツは演説だ」と反論したことがあるが、事実あまりにも激しい熱弁を振るった後の彼の体重は数kgも減少していたという。 第一次大戦時の負傷や、ミュンヘン一揆での肩の脱臼などで激しいスポーツができなかったという部分もあった。 運動嫌いのヒトラーは食事を菜食中心に努め、飲酒や喫煙も控える事で健康的な生活を試みている。 後に宿敵となるやが大酒飲みでであったのとは対照的であった。 ウィーンを放浪していた時期を知る人物によると、若い時代からヒトラーはあまり酒やタバコに手は出さなかったという。 禁煙についてはボルマンが聞いた内容によれば、青年時代には喫煙をしていたが金が底をついた為に辞める決意をし、タバコを川へ捨てたというヒトラー自身の回想が触れられている。 母親が煙草嫌いであった事も影響したという見方もある。 部下や党高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙を勧めるほどであったという。 エヴァ・ブラウンを含め、ヒトラーの部下や周辺人物のほとんどが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。 しかし終戦間際のでは威厳も薄れ、ヒトラーが近くを通っても皆平然と煙草を吸っていたという。 禁酒については上記の父が飲酒している時に脳卒中になった事から避けるようになった。 の初期、軍の攻勢が順調に進んでいることを祝ってヒトラーがを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている。 については溺愛しためいのゲリ・ラウバルの自殺後になったともされるが、実際にはを食べることもあり、それほど徹底してはいなかった。 作家のロバート・ペインによると、ヒトラーはが好物であり、ヒトラーが厳格な菜食主義者 であったとする神話は、ゲッベルスによる印象操作であると主張している [ ]。 一方で戦時中に菜食主義者団体を弾圧したという説については、歴史アドバイザーの ()らに否定されている。 対人関係 [ ] の指導者のハーッジ・と会見するヒトラー(1941年) ヒトラーはにいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。 粛清されたも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。 ただし客として面会した人間を魅了することはよく知られており、多くのドイツ人や、といった外国人もヒトラーと面会した際には好印象を持ったと語っている。 しかしいったん敵となった人物に対しては口をきわめて罵った。 たとえば1933年ののインタビューでは、大統領に対して「共感を覚える」「ヨーロッパにおいて大統領の方法や動機に理解をしめした唯一の指導者」などと語っていたが 、アメリカの参戦以降の評価はきわめて辛辣なものとなった。 また枢軸国の首脳などには高額な贈り物を行い、は65万の機関付きヨットの贈与を受けている。 学者や官僚などのを受けたを「知識はあるが感性のない連中」と嫌うなど、自らの教育水準(中等教育の途中放棄)にコンプレックスを抱いていたことが複数の人物から証言されている。 青年期にで書物を読み漁って独学に励んだり、後年にも専門的な議論へ必要以上に口を挟みたがった。

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アドルフ・ヒトラー

ヒットラー の 息子

僕がヒトラーの山荘があったベルヒテスガーデンに1人で旅行で行った時に、そこのあるペンションの年老いた女性オーナーで若い頃にナチス・ドイツの政治家と知り合いだった夫人が、ヒトラーの隠し子について教えてくれたことがありました。 ヒトラーの隠し子とはヒトラーがまだ第一次大戦にドイツ軍の伍長だった時に、あるフランス人女性と恋仲になってその女性は一人の息子を産んだのだそうです。 ところが、その息子がヒトラーの隠し子という証拠は母親(その女性)が亡くなる直前に言った言葉、「あなたの本当のお父さんはヒトラーなの」という言葉しかないので証明する術がなかったのそうです。 それで、運が良かったことにその隠し子(ジャン・マリ・ロレさん)は第二次大戦中は反ナチスのレジスタンス運動をしていたので、あまりヒトラーの隠し子ということに興味がなく、学者の研究対象にもなりましたが、「ヒトラーの隠し子なんて嬉しくない」という反応だったのであまり研究には非協力的でした。 今ではジャン・マリ・ロレさんは亡くなってその息子(もし本当に隠し子だったら、ヒトラーの孫になる」という方が、フランス北部に生きています。 こちらが、ジャン・マリ・ロレさんの英語の説明です。 ジャン・マリさんとヒトラーの血液型と筆跡がかなり近いということまでは証明されたそうです。 ただし、ヒトラーの隠し子のことを詳しく知っている日本人はあまりいないので、あまり詳しく書くと僕が特定される恐れがあるのでこの辺で止めておきます。 ヒトラーの親族はほとんど静かに暮らしていて、その話題に触れることを極端に嫌がります。 ヒトラーが第一次大戦の時にフランス人に産ませた子というのがいましたが、今では否定されています。 腹違いの兄の子の一人がアメリカに移住して反ナチ宣伝をしました。 その人には三人男の子がいましたが、いずれも子供がおらず、一人だけ生きています。 数年前に海外のテレビ局が、ロシア政府が保管する総統官邸地下壕のヒトラーが自殺したソファーの断片から採取した血液のDNAと照合しようとコンタクトを取りましたが拒絶されています。 ストリートビューで家を見ると「24時間監視カメラ稼働中」という看板が建っておりかなりナーバスなようです。 また、もう一人腹違いの兄の子がいましたが、一兵卒として従軍し、スターリングラードで捕虜になっています。 戦後、アディ叔父さんが自分を助けるために何もしなかった事を知り、ガックリしたとか。 その後の消息を自分はしりません。 エヴェ・ブラウンの親族もほとんど世間から隠れています。 エヴァの妹はフェーゲラインと結婚して娘を産んでしますが、その娘は自殺したと記憶しています。 ナチ嫌いで妹たちと距離をおいていた姉の子孫はドイツにいますが、海外の別のテレビ局がロシア政府が保管している「ヒトラーの頭蓋骨片」とされるものが女性のものであると鑑定し、DNAサンプルの提供をお願いに行ったところ「その名を聞きたくもない」とけんもほろろに拒絶されています。 ちなみにヒムラーの娘は、ドイツでは有名な歴史修正主義者で、父親の名誉回復運動をしています。 日本人としてお答えしますね。 複雑にして謎の多い出生、生い立ちについては ヒトラー自身が知られることを極端に嫌っていたように 親族についてはあまり知られていないのです。 現にヒットラーはドイツ人ではなくオーストリヤ人 で、後にドイツ国籍を取得していますが、その 出生地の村の関係者さえ戦後にヒトラー関係者として 迫害を受けています。 こんなわけで、 当然ですが、親族、関係者の方が身分を隠して 表にでないので取材も困難なのでしょう。 ヒトラーのDNAを調査してる機関がアメリカに在住の 親族の一人にサンプルの提供を依頼していますが拒否 されているようです。 これと言って回答になっていませんね。 ごめんなさい。

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