太平 シロー。 “天才”大平シローさん 晩年はお店でたこ焼きを焼いていた

太平サブロー・シロー

太平 シロー

独立、解散、失踪 東京へ本格的に進出したいサブローシローは、まだまだ大阪で売りたい吉本の方向性に反発して独立。 東京の芸能事務所に所属することになる。 SMAPの場合はここまで至らず未遂に終わったわけですが、もし独立していたらどうなっていたか……。 参考までにサブローシローはその後、どうなったか?? 知恵袋から引きますが 吉本はまだまだ大阪メインでと考え、サブローシロー側 どちらかと言うとサブローが 東京での仕事をしたいという事で、喧嘩わかれするような形で事務所を飛び出し、その時に吉本幹部から「どうなってもしらんぞ」と脅しを掛けられた上での独立だった。 その為、吉本に在籍してた他の芸人にしめしが付かないので、吉本がTV局に「サブローシローを使うならうちの芸人は出させない」と圧力をかけた。 新人芸人を出さないだけならまだしも、看板番組を持ってるような大御所まで出さないとなると局としても番組が成り立たなくなるので、一部の番組ではサブローシローを使わないようにした。 結局は見せしめの為でしょうね。 後に吉本に詫びを入れて元に戻りました。 こうして人気絶頂だった漫才師は、事務所を移籍。 しかし「サブローシローが出るなら吉本の芸人は出せない」圧力に露出がなくなり、当然のことながら東京進出に失敗。 やがて92年に解散。 片方(サブロー)だけが吉本へ出戻る。 一方、太平シローは解散後、 参議院議員選挙に出馬するが落選。 この辺り、精神的に不安定になっていたイメージですが。 早逝、その後 その後1999年、シローも吉本へ戻るがコンビの復活はなかった。 サブローはタレントとして今も活躍、シローはそのまま作家として。 太平かつみ(ぼよよ~んの旦那)もシローの弟子。 そして2012年、太平シロー急死。 享年55歳。 太平サブロー氏は、上沼恵美子の横で現在も活躍中。 もし吉本から独立を企まなかったら、太平サブローシローはもっと大阪で売れ、明石家さんまが東京でつけた獣道に沿って東京進出も成功していたのかもしれない。 間違いなくそれだけの才能があったコンビだったのに。 少し時代が早かった。 あの当時ってのは、まだまだ関西芸人が東京で成功できる道筋ができていなかった。 間寛平だってダウンタウンだって最初の東京進出は失敗してる。 サブローシローは幼いころカウスボタンと並んで好きな漫才師だったのに、気づけばテレビから消えていたんですよね。 あの当時はネットなんてないから情報も限られていて、芸能マスコミの「霊媒師にお祓いを受けた」「太平シロー失踪」だとかお騒がせのイメージばかり強い。 その後作家になってからは当然表舞台に登場せず、次に知ったのは訃報。 SMAPの場合もジャニーズが抱えてる他のアイドル、タレントが出ないってことになると多くのドラマはスカスカになるし、テレビ局はそういうわけにもいかず……。 事務所がー圧力がーってのは、ジャニーズも大概だけれど吉本もかなりのもの。 まぁ、誰もが知ってる話ですかね。

次の

突然死・大平シロー破天荒人生

太平 シロー

来歴 [ ] 2人とも松竹芸能の養成所出身、トリオ・に師事し、に「太平サブロー・シロー」のコンビ名で所属の漫才コンビとしてからデビュー。 (それいけ! その後、の「」に出演したいがために吉本興業への移籍を希望する。 しかし、吉本と松竹の間には協定があり芸人の引き抜きは禁止されていたため、どうしようと悩んでいたところに、師匠のレツゴー三匹から破門された。 レツゴー三匹は実は2人の気持ちを知っており、彼らコンビがスムーズに吉本に行けるようにわざとキレた振りをして暴れて騒動を起こし、駆けつけた松竹芸能の幹部の目の前で破門を言い渡す芝居をした。 その際、レツゴー正児が自分たちのことを蹴りながらもウインクをしていることに気づき、このとき「師匠が自分たちのために芝居を打って出ているのだ」とシローは悟った。 従って、現在でも師匠・弟子としての関係は続いている。 1980年代のの波に乗り、人気漫才コンビとしての地位を確立した。 この頃、当時は無名だったの才能を見抜き、ラジオ番組のレギュラーを与える(後述)。 テンポの速い漫才で、大きな演芸のタイトルを数多く受賞し、は「このままでは、サブロー・シローやダウンタウンには勝てない」と評し、の解散の一因ともなった。 に吉本から独立して東京にを設立するが 、、お互いの仕事観等の意見対立から喧嘩別れする形でコンビを解消した。 その後、サブローのみに吉本に復帰し、のちにシローも吉本復帰を果たすが、確執からコンビが組めず、2012年2月9日にシローが永眠し、サブロー・シローの再結成は不可能となった。 年表 [ ] コンビ結成~コンビ解消(松竹芸能時代)• 共にのタレント養成所に入所、漫才トリオ・に師事。 、より・にて初舞台・デビュー。 、厳しいシローのツッコミに耐え切れずコンビ解消。 新コンビ時代• 5月、シローは解消直後の「浮世亭ジョージ・ケンジ」の浮世亭ジョージと新コンビ「浮世亭ジョージ・太平シロー」(ジョージ・シロー)を結成、結成直後から司会の「」()、司会の「」()に、副司会としてレギュラー出演するなど注目を浴びた。 、サブローは「鳳キング・ポーカー」の鳳ポーカーと新コンビ「さぶろう・ポーカー」(チンカラホイ)を結成するが、短期間でコンビ解消し失踪、ラーメン屋を経営。 再結成~コンビ解消(二度目)• 、シローがサブローの経営するラーメン屋を訪れ、コンビを再結成してに移籍。 「」(フジテレビ)に出演して一躍人気を得る。 、から独立したが、吉本の圧力がかかり仕事を干されるようになる。 、コンビ解消。 、シロー死去(享年55)。 芸風 [ ]• 共にを得意とし、それにちなんだネタを行ったりしていた。 特にサブローの、シローののものまねは2人を代表するネタのひとつで、「 ものまね漫才」の新たなジャンルを開拓した。 どちらがボケ・ツッコミというポジションの決まりは特になく、ネタの中で サブローがボケ・シローがツッコミの時もあれば、その逆の シローがボケ・サブローがツッコミの時もある。 ダウンタウンとのエピソード [ ] ダウンタウンの2人が下積み時代に世話になった先輩芸人は少ないが、唯一サブロー・シローの2人には可愛がられていた。 サブロー・シローがラジオ番組「」()のリニューアルに伴い番組を降板する事になり、番組側が新たな出演者を探している時、番組関係者にサブロー・シローは「 次はダウンタウンにやらしたってくれ」「 こいつら面白いからやらしてやってくれ」と彼らを薦め、ラジオ大阪も冒険だった(談)が、無名にも関わらず番組の新レギュラーとしてダウンタウンが出演する事になる。 これがダウンタウンにとって初のレギュラー番組となった。 後年、松本は「 ものすごくいい勉強になった、『』のフリートークの原形みたいなものだった」と振り返っている。 現在ではダウンタウンとサブロー・シローとの共演はないが、今もって若手の頃に良くしてもらったことを感謝している。 「」(36回)ではがサブローと偶然出会い、握手を交わしている。 「」ではサブローが松本からを紹介されたことなどを話している。 「」では松本・サブロー・オール巨人・島田紳助で会合が合ったことを明かしている。 ものまねのレパートリー [ ]• - サブローが、シローが• - サブローが巨人、シローが阪神• - サブローが、シローが• - サブローが、シローが• - サブローが、シローが• - サブローが人生幸朗、シローが生恵幸子• - サブローが今いくよ、シローが今くるよ• - サブローが長作、シローがじゅん(正児は) 受賞歴 [ ]• 1981年 最優秀賞• 1981年 新人奨励賞• 1981年 銀賞• 1982年 新人賞• 1982年 ホープ賞• 1983年 最優秀ホープ賞• 1984年 新人賞• 1985年 奨励賞• 1985年 名人賞• 1986年 大賞• 1986年 優秀賞• 1986年 奨励賞• 1986年 最優秀名人賞• 1986年 大衆演芸部門• 1987年 名人賞• 1988年 名人賞 過去の出演 [ ] テレビ [ ]• (毎日放送)• () - (1982年10月 - 1985年9月)• 愛・ラブ・ターゲット(CBCテレビ)• (関西テレビ)• (フジテレビ• (フジテレビ)• (フジテレビ)• (フジテレビ)• (フジテレビ)- 「ライオンのいただきますII」に改題されてから不定期出演• () - やすし・きよしの夏休みによる代役司会• (毎日放送) ラジオ [ ]• ミュージックビーコン MBSラジオ• サブロー・シローのABCサンデーベスト10()• サブロー・シローの土曜は特ダネーター ニッポン放送 CM [ ]• ブルーレット(冒頭のテロップには「サブロウ・シロウ」と表記されていた。 1983年)• (1989年)• なっとういち(、現在はから発売) レコード・CD [ ]• 稲妻ベイビー• 愛は続く 弟子 [ ]• 脚注 [ ] [].

次の

SMAP事変を見ていて、太平サブローシローが吉本の圧力で干されたのを思い出した

太平 シロー

1980年代のMANZAIブームで一世を風靡した漫才コンビ「太平サブロー・シロー」の大平シローさんが、難治性心室細動で急死した。 西川きよしやデーモン小暮らの独創的なものまねを得意にしていた。 あの島田紳助が漫才を諦めて紳竜コンビを解散したのは、サブロー・シローとダウンタウンにはかなわないからだと言われている。 「確かにシローさんは天才でした」と語るのは、お笑いに詳しい関西在住のコラムニスト・吉村智樹氏。 「台本もなくネタ合わせもしない。 出番当日、相方のサブローさんに『オレが酔っ払いになるから、絡まれる役をやって』と言うだけ。 なのに本番ではテンポのいいやり取りで大爆笑。 でもコレ、相手がサブローさんだからできたこと。 92年のコンビ解散後、若手とコンビを組んだり、『大平シローと懲りない面々』というものまねコント集団をうめだ花月シアターでやっていたんですが、シローの厳しい指導のプレッシャーにノイローゼに追い込まれ、入院した芸人もいました」 天才ゆえにプライドも高かった。 88年、吉本興業から独立して東京に進出したのも、明石家さんまや島田紳助の成功に刺激されたからだという。 「シローは子役からドラマや映画に多数出演し、もともとは役者志望。 芸人というより芸能人という意識が強い。 だから気取った東京弁をしゃべっていた。 芸人たちからは失笑を買っていたけど」(ベテラン芸能記者) プライドの高い天才は奇行も多かった。 東京進出当初、「おれのマンションにはカッパがいる」と騒いだり(壁にカッパのようなシミが浮き出た)、シンガポール・ロケのため、羽田から成田までリムジンバスで移動したら、「ヘリを出せ! 「こういった奇行を東京行きに誘われた元吉本のマネジャーが暴露した。 92年には参院選にミニ政党から突発的に出馬し、落選している。 結局、東京進出はうまくいかず、まずサブローが吉本興業に謝って復帰。 シローも99年に復帰した。 しかし、仕事はジリ貧となり、ここ数年はタレント活動はなく、焼酎バーやたこ焼き店の経営で収入を得ていた。 絶縁状態と伝えられたサブローは、訃報を受けた取材に対し、4年前、大阪・心斎橋の小料理店で会い、その後、道頓堀まで歩いた時、シローから「もういっぺんサブロー・シローっていうの、どうなんや?」と振られたことを語った。 「シロー君、申し訳ないけど、僕の中ではそれはないねん」と断ったら、寂しそうな顔をしたという。 享年55。

次の