マキャベリ アン。 マキャベリ的知性仮説

ヴィルシーナの血統 : DP

マキャベリ アン

実質上の最初の投稿について、何を扱うか考えてみたのですが、先日のヴィクトリアマイルに優勝したヴィルシーナの血統をおさらいしておくことにしました。 昨年は牝馬3冠およびエリザベス女王杯でことごとく2着と、運に見放された馬のように見えますが、実際にPOGでこの馬を引ければ、大きな戦力であることは間違いないでしょう。 自分自身の勉強のためのブログなので、ごくごく基本的なことから復習していきます。 (1)BMSがマキャベリアンであること まず、ヴィルシーナの血統表のリンクを貼っておきます(原則として、国内の馬については、JBISサーチを利用します)。 見ての通り、BMSはマキャベリアンというミスタープロスペクター産駒です。 ミスプロには多くの後継ラインがありますが、マキャベリアンの系統は、ファピアノ~アンブライドルドの系統などとともに非常に栄えていると言えるでしょう。 しかしながら、マキャベリアン自身の優秀性も大事ではありますが、やはり配合上の相性を考えることなくしては、血統の話は先へ進みません。 ということで、次はサンデーサイレンス系との相性を考えてみましょう。 マキャベリアンは海外の種牡馬なので、日本にはその娘たちが多いとは言ませんし、ヴィクトワールピサの母ホワイトウォーターアフェアが突出した繁殖成績を残しているので、マキャベリアンの功績なのか、それともホワイトウォーターアフェアの個体の能力なのか、ちょっと分かりかねる部分も多いです。 しかし、日本におけるBMSマキャベリアンの重賞(中央および交流の平地競走)勝ち馬は、8頭中7頭の父親がヘイロー(サンデーの父)系だったので、相性がよいと認定してもかまわないでしょう。 (3)母系が、バラード~ミススワップスコーの一族であること 母系を、ファミリーナンバーまで遡ってあれこれ特徴を探ろうとする試みは、個人的には、あまり意味があるようには思えません。 なぜなら、父系をエクリプスやマッチェムまで遡っても、何のことやら分からないのと同じことだと思われるからです。 せいぜい、100年程度が限界でしょう。 ただし、POGなどでの実用性を考える場合、父系と母系とでは利用方法が違ってきます。 母系は、もっと漠然と、活躍馬を多く出している系統かどうかや、父親と相性が良さそうかどうかなどといったことに利用すべきで、父系のように特徴や個性を探ろうとするのは、たいした成果をあげられないと思います。 そこで、ヴィルシーナの母系ですが、POGファンなどにもお馴じみのバラード一族です。 ヴィルシーナにとって、バラードは5代母にあたります(血統表を参照のこと)。 世界的な名門で、一族にはラーイ、デヴィルズバッグ、シングスピール、セイントバラードなどの有名馬がズラリと並びます。 日本ではダノンシャンティが有名ですが、バラードは経由していないもののグラスワンダーやノースフライトも同系です。 ディープインパクトとの相性については、初年度産駒にダノンバラードとフレールジャックの2頭の重賞勝ち馬が出たことで、一気に注目されるようになりました。 ダノンシャンティや、デヴィルズバッグとセイントバラードの全兄弟ともあわせて考えると、おそらくこの牝系は、ヘイロー系と相性がよいと推測されます。 では、ヘイロー系との相性のよさの根拠は何処にあるのでしょうか? 血統研究家の栗山求氏によれば、ヘイローの活躍した産駒の血統的なパターンは、マームードのクロスを持っているということです。 ここで少し寄り道になりますが、相似クロスついて、自分の備忘用に簡単にまとめておきます。 クロス(インブリードとも呼ばれます)とは、同じ馬が血統表の複数の個所に登場する配合のことで、近親交配により性質を固定する手法です。 しかし、近親交配には、遺伝的な欠点を顕在化させるという負の側面もあります。 そうしたデメリットを減らし、できるだけメリットだけを享受しようという手法の1つとして、同じ馬ではなく、血統的に似たような構成を持つ馬をクロスさせてみようというのが、相似クロスです。 ここで、マームードとマムタズビガムの血統表にリンクしておきます(外国馬については、Thoroughbred Horse Pedigree Onlineを利用します)。 マームード マムタズビガム 見てわかるように、両馬は甥と叔母の間柄で、父は同じブレニムです。 血量的には75%が共通しているため、とくに「4分の3同血クロス」と言ったりもします。 血量的には近いのですが、同じ馬というわけではないので、よからぬ遺伝子がオンになる確率は下げられていると考えられるわけです。 ミルザは、マムタズビガムの全弟にあたります。 ミススワップスコーとヘイローは、配合上のキーポイントが同じであり、このことが、ミススワップスコー牝系とヘイロー系の相性のよさの原因と考えられるでしょう。 マキャベリアンが、種牡馬としてどのような成功パターンを持っていたか、振り返ってみましょう。 まず、マキャベリアンの代表産駒にリンクしてみましょう。 マキャベリアンの代表産駒 配合は様々のように思えますが、すぐに目につくのは、母馬にナスキロの血を強く引くケースが多いということでしょう。 ナスキロとは、ナスルーラとプリンスキロのことで、世界でも最も有名なニックスの1つです。 スピードや末脚の切れに効果があるとされ、日本だと外回りコースに向いています。 なかでも注目されるのは、サーアイヴァーの血を持つ母馬との産駒です。 マキャベリアンのG1勝ち産駒では、 アルムタワケル、ヴェットーリ、ストーミングホームの3頭います。 とくに末脚の切れ味が増すことで有名なクロスです。 そして、このクロスを持つ馬で最も有名なのは、ディープインパクトです。 (5)マキャベリアンは、ディープインパクトの母系と相性がいい 先ほどのマキャベリアンの代表産駒のリンクで、ライトアプローチという馬に注目してみましょう。 血統表を呼び出してみると、3代母(曽祖母)は、ハイライトという馬です。 このハイライトという牝馬は、ディープインパクトの4代母でもあるのが分かります。 (6)ディープは、ヌレイエフやブラッシンググルームの血と好相性 ディープとヌレイエフの相性のよさについては、POGファンにとってはもはや常識だと思われるので、説明は省略します。 それに対して、ブラッシンググルームとの相性は、必ずしも明らかとは言えないかもしれません。 これについては、ナシュワンという大種牡馬に登場していただく必要があります。 まず、ナシュワンの血統表を見てみましょう。 父がブラッシンググルームであることはすぐに分かりますが、母ハイトオブファッションが、ディープの祖母バークレアの妹であることに気付かれたでしょうか。 それも、ただの妹ではありません。 ハイトオブファッションの父バスティノは、バークレアの父バステッドの産駒なのです。 つまり、両馬は、4分の3姉妹というきわめて近い関係にあるのです。 これが、ディープとブラッシンググルームの相性がよいだろうと推測される根拠になっています。 こじつけだろうという意見もあるかもしれませんが、 母系を利用して相性を探る手法は、とくにディープインパクト産駒では非常に有効なのです。 すでに(5)でも例があがっていますが、追々その他の例も見ていくことにしましょう。 (7)その他~血統の専門家の見解 血統研究の手法には様々なものがありますが、自分が最も影響を受けたのは、栗山求氏および望田潤氏の御二方です(当ブログのリンク集にも両氏のブログをリンクさせていただいています)。 そこで、両氏の見解を簡単にまとめてみましょう。 栗山求氏は、ヴィルシーナの血統について、バラード一族であるということと、母馬がミスタープロスペクターとスペシャルの血を合わせもっていることとの2点について重要視されているようです。 バラードに関しては、(3)で触れました。 ミスタープロスペクターとスペシャルについては、栗山氏は、この2つの血を合わせもつ母馬が、ディープインパクトと相性がよいと主張されています。 代表例としては、ディープブリランテ、ヴィルシーナ、トーセンラーなどです。 レッドゴッドが相似であるかについては議論のあるところでしょうが、自分が見た範囲内では、望田氏以外には同じ立場の研究家は見あたりませんでした。 ともかく、望田氏の議論に沿ってまとめると、あまりに幾重にも重ねた結果、末脚の切れよりも、小器用な立ち回りの巧さが強調された配合ではないか、ということのようです。 その結果、器用だけど最後の一押しに欠け、2着の多いタイプになってしまったのではないか、ということでした。 サイレンススズカやゼンノロブロイを筆頭に多くの活躍馬をだした配合で、ヴィルシーナも当てはまっています。 ラトロワンヌは、フランスの大生産者マルセル・ブサックが生み出した20世紀を代表する名繁殖牝馬で、サンデーもさることながら、とくにディープとの相性は抜群なのですが、そのへんは長くなるので、また別の機会に取りあげることにしましょう。 (8)まとめ 以上を総合すると、どういうことになるでしょうか。 その他、ヌレイエフ、ブラッシンググルーム、バラード、ラトロワンヌなど、母ハルーワスウィートという馬は、ディープと相性の良い血で固められていると思います。 もし、ヴィルシーナの全弟や全妹ができれば、よほど馬体とか体質とかに問題がないかぎり、POGでは無条件で取りにいくべき馬となるでしょう。 参考画像 ヴィクトリアマイル オークス.

次の

マキャベリアンとは

マキャベリ アン

シェイクスピアの戯曲から現代のTVドラマに至るまで、手段を選ばない悪辣な策士は私達が憎むおなじみの悪役となっています。 何世紀にもわたりあまりにも身近だったため、このような人物を指す「マキャベリアン」という言葉が生まれました。 しかし、いつまでもこの言葉を誤用し続けるべきではないでしょう。 パジット・カーロンとアレックス・ジェンドラーがその語源を探ります。 ted. 337• 407• 779• 821• 110• 756• 552• 360•

次の

日本語TED新着: 「マキャベリアン」の本当の意味 ― パジット・カーロンとアレックス・ジェンドラー

マキャベリ アン

生涯 [ ] 1469年、貴族でありの父ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメーア・ディ・ステファノ・ネリの3人目の子として生まれた。 マキャヴェッリ家はの要職を幾人か輩出した名家であり 、一説にはの旧侯爵家の子孫であるともされる。 父ベルナルドは弁護士で年収は110。 貧しい階級のものではないが、絶対に裕福な家庭の者でもなかった。 いわゆる中流ではあるが、マキャヴェッリ本人は「私は貧しく生まれた。 だから、楽しむより先に、苦労することを覚えた」と後年記している [ ]。 マキャヴェッリは他の兄弟たちと共に父母の愛情に包まれ、上流階級の必須教養であった・古典や等を学んで育った。 その青少年期は、による独裁、大ロレンツォ死後に発生した追放(1494年)、の神政とその失脚・処刑(1498年)等、フィレンツェ共和国の激動期に重なる。 、マキャヴェッリは政権下の第2書記局長に選出される。 マキャヴェッリが属した第2書記局は・を所轄し、自身が各国との交渉に関わることも多い。 同年、「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命される。 ほぼ同時期に秘書官にも任命される。 この頃、十人委員会からの依頼で、『ピサ問題に関する論考』を書く。 かつてはイタリアの3大海洋国家のひとつであり、を持たないフレンツェにとっては、ピサの港が自由につかえることが必要であり、ピサがコントロール下から離れたことが問題となっていた。 この難題に対し、マキャベリは論考を書物にして4ページ半の小文に、簡潔明瞭にまとめた。 「もしも、フィレンツェが自由でありたいと望めば、ピサは再領有は実現されるべきである」と冒頭で述べ、さらに包囲戦のあり方から、攻撃拠点に配置する兵の数をまで拠点ごとに論じている。 6月、領主にして傭兵隊長であるパオロ・ヴィテッリをフィレンツェ共和国軍最高司令官に任命し、ピサに軍事侵攻を開始した。 十人委員会は悪評高く、選挙さえ行われていなかったため有名無実化しており、その中でマキャヴェッリは統領と官僚に直接指揮をあおぎ、仕事をこなしていた。 には、砲撃でピサ市壁を24メートルにわたって破壊し、に市壁を守る砦の一つを陥落させる。 しかし、再領有目前になったこの時期に最高司令官ヴィテッリが自分の率いる傭兵団を撤退させ、他の傭兵隊長たちも軍事行動を中断した。 で倒れた兵が出たことを期に、9月14日に完全撤退した。 市街戦での兵力消耗を嫌った傭兵隊長らしい行動の結果の崩壊であった [ ]。 、ヴィテッリは逮捕される。 罪状は、反逆罪 、理由なき戦線離脱、ピサ防衛についていた敵側傭兵隊長を逃したことの3点である。 、ヴィテッリは処刑された。 、フィレンツェ共和国は、にミラノを占拠したフランス王と同盟を結ぶ。 フィレンツェは、フランス王がナポリ攻略に必要な5千人のと5百の騎兵を金で準備し、代わりにフランス王はナポリ攻略前に、フィレンツェにピサ攻略のためにスイス傭兵5千人を貸し与える という内容だった。 ピサ戦役 にマキャヴェッリはフィレンツェ軍顧問の副官として参加した。 集結地点パルマにきたフランス王の兵は、スイス兵4千人と兵2千人であった(協約違反)。 いざ進軍となったときには、フランスからの援軍はいうことを聞かず、まっすぐ南下すればピサのところ、東南に進路を取り、フランス王が関心のある地域であった、、、と、2ヶ月にわたり軍事パレードをする示威行為に付き合わされた。 、ピサに到着するが、フランス兵は周辺一帯の略奪に明け暮れる。 フランス王の「助力」を信頼し、フランスとの協約で支払う費用が多額だったため、イタリア人傭兵を全員解雇して臨んだ戦役だったため歯止めが効かず、戦場ではフランス兵のいうがままであった。 フランス軍はピサ市壁を破壊するものの、市内への侵攻を拒否したあげく、フィレンツェ顧問アルビッツを拉致して身代金を要求するなど惨状を極めた。 そんな中、マキャヴェッリはフランス軍との交渉役や、本国との連絡役となる傍ら、十人委員会の名で顧問に訓令を書き、また顧問の名で十人委員会への報告書を書くなど多忙な日々を送った。 ガスコーニュ兵がまず引き上げ、7月9日スイス兵も引き払い、ピサ領有は水泡と化した。 後年のマキャヴェッリの「自国の軍を持つ必要性」や他人の褌で相撲を取ることを考えてはならないという主張は、この年の経験に基づくとされる。 ピサ戦役の失敗は、フィレンツェ共和国に多大な費用の空費をさせただけでなく、フランス兵の略奪によりピサ周辺の親フィレンツェ地域にまで恨みを買い、フランス王にいいようにあしらわれたことで、権威の失墜を招いた。 また、フランス王は一方的に同盟の破棄を宣言し、マキャヴェッリは王の後を追って、共和国政府の副使として弁明のためにフランスまで行くことになる。 このようにマキャヴェッリは、実際に軍事行動の立案から実行まで関わり、また外国にもたびたび派遣されることもあった。 マキャヴェッリは見聞きした各国為政者や古典から学んだ歴史上の人物の中から、権謀術数に長けた教皇軍総司令官に理想の君主像を見出すようになった。 マキャヴェッリは自らの経験と考察から、国の根源はに拠らない軍事力にあると確信し、国民軍の創設を計画した。 貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、その企画は実現する。 国民軍は期待された成果を挙げることなく、ソデリーニ政権は1512年、メディチ家の復権を後押しするの前に屈服し、マキャヴェッリは第2書記局長の職を解かれた。 2月、新政権下起こったに加わった容疑で、マキャヴェッリは指名手配され、自ら出頭して逮捕された。 マキャヴェッリは地下牢で、縄で吊るされるという拷問 を6回受けた。 3月11日にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出されたことにより、大赦で(3月11日もしくは12日に)釈放された。 しかし保釈金的なものは発生しており、マキャヴェッリの年収の10年分にあたる金額を友人3人に借りて支払っている。 所有地からのあがりだけで悠々自適でいられる身分になかったマキャヴェッリにとって、財産はフレンツェ市内の家とサンタンドレアにある山荘だけであった。 当時フィレンツェ近郊の山荘では、小麦と衣服以外は自給自足できるのが一般的であり、それがあってか、マキャヴェッリは葡萄やオリーブの収穫時期ぐらいにしか行かなかった山荘に、家族7人(本人・妻・子供5人)で移り住む。 山荘はフィレンツェ・シエナ間に広がるキャンティ地方にあり、ワインの産地である。 現在、マキャヴェッリの子孫の娘の再婚先であったセリストーリ伯家が、山荘とそれに付随した農園を相続していて、マキャヴェッリの横顔を商標にした「キャンティ・クラシコ」を販売している。 しかし、マキャヴェッリの時代は、ワイン販売が事業として成り立つとは誰も考えていなかったようで、ワインでひと稼ぎとはいかなかったようである。 43歳にして隠遁生活に入らざるをえなかったマキャヴェッリは、昼間は農業に勤しんだり、近くの庶民と交わり賭け事等をして時を過ごし、日が落ちると読書、執筆三昧の日々を送った。 当時の生活ぶりは、1513年に、ローマ法王庁にフィレンツェ政府より大使として赴任していた、親友のフランチェスコ・ヴェットーリへの一通の手紙から窺える。 イタリア文学史上、最も有名で美しい手紙の一つとされているが、になると官服に着替えて『君主論』と題した小論文をまとめていることを述べている。 執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、喜劇は大好評を博して著作家としての名声を得た。 マキャヴェッリは、「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と友人であるフランチェスコ・ヴェットーリ宛の書簡に記した ように愛国者を自認しており、いつでもフィレンツェのために役立ちたいと公言していた。 元来、陽気でお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親、仕事好きでめげないマキャヴェッリは、独裁的なメディチ家が君臨する新政権下への就職活動を模索するようになった。 マキャヴェッリは共和制支持派と見られていたので、かつての同僚や彼に批判的な人の中には、メディチ政権への猟官運動を冷淡に見る者もいた。 新たにフィレンツェの支配者となったジョヴァンニ・デ・メディチ、またその後任者の方でも、長く前政権下の政務に携わったマキャヴェッリを用いることはしなかった。 に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任にが就任すると、 マキャヴェッリに謁見の機会が与えられた。 謁見の場でマキャヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献上した [ ]のが『君主論』である。 ロレンツォ・デ・メディチに献上された本『君主論』には、君主たるものがいかにして権力を維持し政治を安定させるか、という政治手法が書き記されている。 『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり、偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。 全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。 共和主義者のマキャヴェッリであったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦うに衝撃を受けた。 彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱の存在があったからこそ、『君主論』が生まれたといわれる。 マキャヴェッリは『君主論』の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いている。 理想の君主を例示して、統一を実現しうる君主像を論じた。 チェーザレ・ボルジア失脚当時には、マキャヴェッリも「かつての公爵とは千年の隔たりを感じる」と冷たい評価を下しながらも、『君主論』26章では、チェーザレについて次のような言葉を残す。 「今までに、ある人物の中に、神がイタリアの贖罪をあがなうよう命じられでもしたかのような、ひとすじの光が射したことがあった。 だが、残念なことにこの人物は、その活動の絶頂期に運に見放されてしまったのである」。 そしてそれに続く言葉は、「こうして息絶えだえのイタリアは、今自らの傷を癒してくれる人を望んでいる」であり、とどめにメディチ家に対して「今日、ご尊家がこの贖罪行動の先頭に立つ他に、イタリアの期待に応えられる人がどこにあろうか」と激励を送った。 、マキャヴェッリ理論の傾倒者が多く、首謀者に含まれた反メディチの陰謀 ()が発生したが、ロレンツォの後任者 後のクレメンス7世 は、マキャヴェッリの事件への関与を一切問うことをしなかったばかりか、著作家として才能を開花させていたマキャヴェッリに『 (、)』の執筆を依頼した。 このようにメディチ家政権下で顧問的に用いられるようになったマキャヴェッリだったが、に発生したでメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放されるはめになった。 一貫した共和制支持派からは「メディチ家に擦り寄った裏切り者」、ある者からは「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難され、失意のうちに病を得て急死した。 軍事理論 [ ] にあるマキャヴェッリ像 マキャヴェッリはその軍事思想を『君主論』、また『政略論』や『戦術論』に記している。 その特徴として以下のことが挙げられる。 の重要性を論じている。 『君主論』において君主に必要なものとして法律とともに軍備が挙げられている。 また傭兵軍ではなく常備軍の編制を重視し、また騎兵ではなく歩兵の有効性を論じてもいる。 軍事訓練の重要性を論じている。 マキャヴェッリは軍事訓練を錬度に合わせて段階的に実施することを述べており、第1段階に整列の動作の訓練、第2段階に整列行進の動作の訓練、第3段階に戦闘訓練、第四段階に信号や命令伝達の教育としている。 司令官の軍事的統率能力の重要性を論じている。 これは統率論として軍隊の団結に司令官の統率力が直結すると述べられており、血筋や権威ではなく、勇敢や善行がこの統率力を強化すると考えている。 また演説の能力も求められるとしている。 年表 [ ]• 1469年:フィレンツェに生まれる。 1498年:共和国政府の第2書記局長になる(1512年まで)。 また「自由と平和のための十人委員会」秘書官、統領秘書官も兼任。 1499年:フィレンツェ共和国はパオロ・ヴィテッリを最高指揮官としてピサに攻め入る。 市壁を打ち破ったところで不可解な撤退。 ヴィテッリ死刑。 十人委員会秘書官として多忙を極める。 1500年:フィレンツェ軍顧問の副官として、フランス王配下の兵を借りてピサ戦役に参加。 戦役失敗によりフランス王が一方的に同盟破棄。 弁明のための使節副官としてフランスへ赴く。 1502年:教皇軍のチェーザレ・ボルジアがを征服(フィレンツェはフランスに支援を要請)。 使節としてチェーザレと交渉し、和議を結ぶ。 1503年:(教皇死去、チェーザレ失脚)。 1504年:市民兵の創設を主張。 1506年:市民兵の軍部秘書になる。 ()の農民を徴兵。 1511年:(教皇がでフランスに対抗)。 フランスに使節として赴く。 1512年:市民兵はスペイン軍に敗退。 のフィレンツェ復帰に伴い、失職。 『』に着手。 1513年:反メディチ陰謀の容疑()で拘束され拷問を受けるが、まもなく釈放。 『』を脱稿。 1520年:ジュリオ・デ・メディチ(後の教皇クレメンス7世)の依頼で『 (、)』の執筆を始める(1525年まで 未完)。 1527年:(の報がフィレンツェに伝わりメディチ家再追放)。 著作 [ ] 「」も参照 主な訳書• ( Il Principe, 没後の1532年刊行)• 『君主論』(訳、岩波文庫、1998年、ワイド版2001年) ほか• 『』(永江良一訳。 英訳版からの重訳)• ( Discorsi Sopra La Prima Deca Di Tito Livio)• リウィウス論、ローマ史論、ディスコルシ、政略論 とも称される• 訳((改訳版)、2011年)。 元版は「全集2」• Dell'arte della guerra• 『戦争の技術』(服部文彦訳、ちくま学芸文庫、2012年)。 元版は「全集1」• (、) Istorie fiorentine• 「フィレンツェ史」(齊藤寛海訳、岩波文庫(上下)、2012年)• 「フィレンツェ史」(米山喜晟・在里寛司訳、ちくま学芸文庫(上下)、2018年)。 元版は「全集3」• 戯曲 マンドラゴラ La mandragola• 訳(「全集4」に収録、筑摩書房、1999年)• 全著作の訳注 批判 [ ] ので教授・助教授の(1876 - 1957)は、「正義といい人類愛といい、人類の間の最も望ましい美徳であることは、昔から宗教でも道徳の方でも高調されているところである。 …この事実に対する解説として自然性論というべき一派がある。 それは人類は本来利己的であって同胞と協同するも親和するも畢竟利己の為に外ならないようにいうのである。 …人類は互いに狼であるとホッブスのいったのは、全く利己的見地から解釈するのであって、国際間には道徳なく、ただ欺瞞、暴力あるのみと考えたマキャベリも同じ考であるといわねばならぬ」としてマキャベリの論を否定した。 脚注 [ ] []• 亀長洋子『イタリアの中世都市』、2011年、65頁。 205頁。 Herbermann, Charles, ed. 1913. New York: Robert Appleton Company. 復帰を狙うメディチ家とそれを支援するに通じていた• ただし費用はフィレンツェ持ち• "" に記録• 実際には加担していなかったとされる• 拷問の中ではさほど残酷な部類には入らない• 大赦によりフィレンツェ市内からの1年の追放刑も赦されていたので、マキャヴェッリが追放されたという説は疑問である。 また、マキャヴェッリ自身「失業して給料が入らなくなり、これでは、でも飼って口をしのぐしかない」と書いている• 221頁。 他に『君主論』の主な訳注は、池田廉訳(、新版2018年)。 佐々木毅訳(講談社学術文庫、2004年)、なお岩波版の旧訳は訳• 旧訳版は訳(上下)。 大岩訳は他に、旧版『ローマ史論』(岩波文庫 全3巻)、『君主論』(角川文庫、のち改訂版・)がある。 国際連盟協会『震災に関する諸名士の所感』、1923年。 参考文献 [ ]• 『マキアヴェリ 君主論 新訳』訳・解説、、1995年。 新版2018年。 - 『君主論』の全訳・解説(初訳版は『 16 マキアヴェリ』、中央公論社、1966年)• de Grazia, Sebastian 1989 , Machiavelli in Hell. highly favorable intellectual biography. won the Pulitzer Prize. 『マキァヴェッリ全集 補巻-研究・年譜・年表・索引』 ほか訳、、2002年• 『マキアヴェッリの政治思想』 、1970年、新版1998年ほか• 佐々木毅『マキアヴェッリと「君主論」』 、1994年• 『マキアヴェリ、イタリアを憂う』 選書メチエ、2003年• 『マキアヴェリ 人と思想』 、1986年、新装版2016年。 入門書(新書)• 西村貞二『マキアヴェリズム』 講談社学術文庫、1991年。 入門書• ルネ・ケーニヒ 『マキアヴェッリ 転換期の危機分析』 小川さくえほか訳、〈叢書ウニベルシタス〉、2001年• マウリツィオ・ヴィローリ 『マキァヴェッリの生涯 その微笑の謎』 武田好訳、、2007年• ロベルト・リドルフィ 『マキァヴェッリの生涯』 須藤祐孝訳註、岩波書店、2009年、古典的大著• 『哲学者マキァヴェッリについて』 飯島昇藏・厚見恵一郎・村田玲訳、勁草書房、2011年、古典的大著 小説• 『わが友マキアヴェッリ フィレンツェ存亡』〈塩野七生ルネサンス著作集7〉、2001年/新潮文庫(全3巻)、2010年。 各新版• 塩野七生 『マキアヴェッリ語録』 新潮社、新版2003年/、改版2009年• セバスティアン・デ・グラツィア 『地獄のマキアヴェッリ』 田中治男訳、法政大学出版局〈叢書ウニベルシタス〉全2巻、1996年。 (1990年度)• 『マキャヴェリ』 ・高塚洋太郎訳、、1966年、新装版1987年、1998年 - 伝記小説• 『昔も今も』 天野隆司訳、、2011年 -( Then and Now、原著1946年)、マキャヴェッリが主人公の長編。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - マキャヴェッリの研究者• - マキャヴェッリの名にちなんだ進化心理学上の学説。 - マキャベリに感銘を受け、名前をマキャベリ(Makaveli)と改名した現代アメリカのミュージシャン• - マキャヴェッリの名を由来としている。 - マキャヴェッリの名を由来としている。 - 主人公の協力者として登場する。 外部リンク [ ]• - The School of Life, Youtube.

次の