シーメンス 事件。 検察人事に介入、かつては倍返し 70年近く前の「木内騒動」、さて今回は?

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シーメンス 事件

シーメンス事件とは? シーメンス事件とは 1914 大正3 年1月に発覚した 日本海軍の収賄事件です。 ドイツ語の読みから 「 ジーメンス事件」とも言ったります。 シーメンスとは、ドイツの企業で 精密機械や電気、情報通信、交通、 医療など様々な事業を手掛ける 大手総合電気機器メーカーです。 簡単に言うとシーメンス事件は 海軍で使われる物資を納入していた シーメンスが日本海軍高官らに賄賂を贈り 高官らがそれを受け取ったというものでした。 この事件は当時の政界を巻き込むことになり、 第1次山本権兵衛内閣は総辞職しました。 シーメンス事件の内容 当時の日本での国内産業は まだ十分ではなかった為、日本は 軍需品や電信設備、機械などを 海外から輸入していました。 そして日本海軍高官は、 シーメンス社から軍需品を購入していましたが その際、 発注品の代金の3. 5%~15%分を 手数料として受け取っていたそうです。 シーメンス社の元社員カール・リヒテルは 会社に解雇されたことを恨んで、 シーメンス社の機密書類を盗み出します。 そして、それを基にシーメンス社を 脅迫していた事件が発覚し、 カール・リヒテルは逮捕されました。 その際、日本海軍高官への 賄賂に関する資料が見つかったことから、 1914年1月22日にロイター通信で報道されます。 また事件の調査の過程で イギリスのヴィッカース社からも 軍艦建造に関係した汚職事件が発覚します。 この事件は日本の新聞でも 大きく取り上げられ、民衆の間では 海軍の腐敗と内閣に対する不満が強まります。 シーメンス事件の影響 シーメンス事件が発覚したことにより 第1次山本権兵衛内閣は総辞職しました。 しかし、 山本権兵衛が賄賂を 受け取っていたわけではないのです。 なぜ総辞職したのかというと 山本権兵衛は 海軍に属していたから。 もうひとつは、当時 藩閥への反感が高まっており、 山本権兵衛が出身ということも 関係していたようです。 最後に シーメンス事件とは何か? どのような事件だったのか?などなど シーメンス事件について この記事ではなるべくわかりやすく 簡単な言葉で解説しました。 少しでもあなたの参考になれば幸いです。

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シーメンス事件とは何か?【簡単にわかりやすく解説】

シーメンス 事件

事件の背景 [ ] 海軍は明治初年以来、・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。 明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。 前年の(大正2年)には・で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。 ととの利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だったも後に回顧録でこの説を容認している。 山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。 この少し前に日本海軍の活躍によりに勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。 山本権兵衛は陸軍の主張であったを一部廃止、陸軍のを拒否、山縣有朋が議長を務め天皇のブレーンとなっていたの定員削減などの行政改革をしながら建設計画予算を計上していた。 ヴィルヘルム2世はに対抗して海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の4隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」として脅威に感じていた。 事件の概要 [ ] シーメンス横浜支配人の吉田収吉の姪が海軍艦政本部部員の鈴木周二造船中監の妻であったことから、シーメンスは入札情報を事前に入手し、イギリスのやより有利に入札、海軍関係の通信・電気装備品を一手に納入し、謝礼を海軍将校に支払っていた。 外国企業が受注の謝礼をするのは当時当然の慣例になっており、宮内大臣にも贈って来ていたが、平沼騏一郎によればでこの謝礼を私有せず国庫に納めたのはだけだったという。 また日本海軍でもロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた。 この事件は、この謝礼を示す秘密書類をシーメンス社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が会社から盗み出し、買い取るよう1913年10月17日 に東京支店長宛脅迫文書を送った ところに始まる。 要求金額は2500ポンド とも25000円 ともいうがこの脅迫は拒否され失敗、カール・リヒテルはこの書類を通信特派員アンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売ってドイツへ帰国した。 シーメンス重役陣は同社の信用失墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。 これを知らされた当時海軍大臣のは「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始することとし一応静観の態度を取った。 その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し、1913年11月27日にシーメンスが秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却 、一度事件は終結を見た。 ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、恐喝未遂罪で起訴した。 判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された。 公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。 (大正3年)、ベルリン発のロイター外電 が、リヒテルに対するベルリン公判廷での判決文の中で、彼の盗んだ書類中に発注者の日本海軍将校(艦政本部第四部長海軍機関少将と艦政本部部員沢崎寛猛海軍大佐)に会社側がを贈ったとの記載があると伝えたことから、、第31議会衆議院予算委員会でのがこの件について厳しく追及した。 山本内閣は、この議会に海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していたことからこれに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、太田三次郎、ら海軍内部からのもあり世論は沸騰した。 1月末から2月初めにかけて関係者の喚問や家宅捜索が開始された。 アンドルー・プーレーは1月30日に家宅捜索を受け、プーレーがリヒテルから秘密書類を購入したことが発覚、拘置された。 この代金は750円 とも25万円 ともいう。 プーレー夫人のアンは帰宅を許されたが1月31日の取り調べの後剃刀で自殺未遂をしている。 2月7日機関少将と沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍に付された。 野党の立憲同志会・・は衆議院に内閣弾劾決議案を上程した。 その日、で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、この決議案が164対205で否決されたことを聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激してを包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突した。 三井物産 司直の取調べが進むとこの事件はいっそう広がり、イギリスのヴィッカースの日本代理店であるの重役が、(明治43年)に巡洋戦艦「金剛」をヴィッカースに注文させるため海軍高官に贈賄した容疑で拘禁され、ついで・ら三井物産の関係者が起訴された。 その結果、当時の艦政本部長で元司令長官中将が「金剛」の建造に際し、三井物産の手を経てヴィッカースから約40万円の賄賂を受けていたことが判明した。 この間、は海軍予算7000万円を削減することを可決し、予算案は両院協議会の不調となり不成立となり、山本内閣は総辞職した。 後継のは海軍粛正の声に押されて新海相の元で大改革を断行、には山本前首相及び斎藤実前海相をに編入した。 5月19日は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下した。 東京地方裁判所は山本条太郎ら全員に有罪判決を下し(控訴審では全員執行猶予)、9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了した。 しかし、折からの勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結した。 「産業界と軍部との癒着構造の根源にまで追及すべきだった」という見方と「全く無実であったと海軍大臣を引責辞任・予備役編入したことは、有力なリーダーなくして第一次世界大戦に突入することになり、また海軍衰退の元を作り第二次世界大戦を陸軍主導で開戦する遠因になった」という見方がある。 ただ山本権兵衛と斎藤実はそれまでは日本のや外国勲章を多く受けていたところ、引責辞任のあとは外国勲章はどちらも受けていない。 なお山本権兵衛はに死亡し、斎藤実はを経て政治家に転身しからは兼としてに対処するなどしたあと、のにより殺害された。 (三井八郎次郎)は事件後に三井物産社長職を引責辞任した。 小野稔によると、アンドルー・プーレーはシーメンスの贈賄を手伝っており、の懐中時計を賄賂として日本の海軍将校に渡していた。 シーメンス側はさらにアンの姉ジャンヌの夫でシーメンスの重要なポストにいたヒムラーからの懐中時計も準備し賄賂として渡すつもりであったという。 この時計は1888年に製作されに展示されたもので、事件後はアンの父親であるアンリ・デュプレが所持しており1941年11月小野稔に100円で売却した。 また小野稔のアンに対する取材により、グラスヒュッテは連番で3個を同時に購入され1つは日本海軍将校への贈賄に使用され、1つは第二次世界大戦に際しての指示でオランダのナチ協力者に渡されたことが判明している。 もう一つはそのままアンが持っていて小野稔に贈与された。 脚注 [ ]• 84-86『シーメンス事件』• 25-40。 『続シーメンス事件秘話』• 『骨董金側懐中時計』p. 15-24。 『シーメンス事件秘話』 参考文献 [ ]• 紀 脩一郎 『史話・軍艦余録 : 謎につつまれた軍艦「金剛」建造疑獄』 光人社、1979年。 奈倉文二・横井勝彦・小野塚知二 『日英兵器産業とジーメンス事件 : 武器移転の国際経済史』 日本経済評論社、2003年、。 『帝国軍人の反戦 : 水野広徳と桜井忠温』 朝日文庫、1993年、。 補章「汚職告発者太田大佐の悲劇」(初出:『』1976年9月号、中央公論社)、243-260頁。 小野稔『骨董金側懐中時計』新潮社• 『歴史群像太平洋戦史シリーズ21 金剛型戦艦』学習研究社 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 関係者写真(国立国会図書館デジタルコレクション).

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甦る「シーメンス事件」の教訓 「失地回復」狙う米SEC(下)(1/2)

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ヘルマン邸 明治末期から大正にかけてドイツの電気通信企業シーメンス ジーメンス 社の極東支配人ヴィクトル・ヘルマンが住んでいました。 ヴィクトル・ヘルマンは、 1870 年 9 月 20 日、ドイツのミュンヘンで生まれました。 シーメンス社は、ドイツのミュンヘンに本社を置く世界的企業であり、この時期ドイツの海外進出とあわせて、日本にも主に電気関係の製品を売り込みに進出していました。 当時東京と大阪が主な拠点であり、ヘルマンはその極東支配人として明治の末期に日本に派遣されました。 ヘルマンは、住吉川沿いの高台に居を構えました。 これは当時この地域が大阪郊外の高級住宅地として脚光を浴びており、多くの財界人がここに居を構えたのです。 この現象は阪神間モダニズムと呼ばれ、阪神大水害の起こる 1930 年代まで続いた 日本に永住する意志を固くしたヘルマンは、明治 41 年、 16 町歩もある一山全部を買い取り、工費 3 万 5 千円でこの地に豪奢な館を建てた。 設計は同じドイツ人の建築家ゲオルグ・デ・ラランデに依頼しました。 その頃日本に建てられた異人館は、日本の風土と豊富にある材質を考え合わせ、ヨーロッパの建築様式を変形させた木造建築で、北野町の異人館 例えば風見鶏館 に見られるようなコロニアル様式がほとんどであった。 しかし、ヘルマンの館は、このようなコロニアル様式を完全に排除したドイツ式の本格建築であった。 ヘルマンの財力と建築家ゲオルグ・デ・ラランデの理想主義がぴったりと合致し本国から遠く離れた日本の雑木林の中に、石材を積み上げて、まるで中世の貴族の城のような館を建てたのである。 その豪華さでは、同じ本山近辺の六甲山中腹にある大谷光瑞師の建てた二楽荘とともに、人々の話題となった。 シーメンス社は、 1847 年ドイツのベルリンにおいて、ヴェルナー・ジーメンスによって設立された会社で、主として鉄道車輌及び重電部門 発電機・変圧器等 の製造・販売を事業の柱としていた。 明治に入り、日本の経済が発展するとともに、鉄道、電気に関する需要は増大していった。 この分野に関しては、GE ゼネラル・エレクトリック 社 創業者エジソン を代表とするアメリカが圧倒的に優位であり、続いてドイツ、イギリスの順であった。 しかし、シーメンス社は、先行するアメリカのライバル社と熾烈な価格競争を続けることで、徐々にシェアを伸ばしていきました。 シーメンス社と日本の企業との関係に着目すると、旭化成やチッソに代表される日窒コンツェルンを築いた野口遵も一時期シーメンス日本に籍を置いていたし、古川財閥系の富士電気は、シーメンスとの合弁により設立された会社である。 現在では、通信機械も取り扱う世界的な多国籍企業であり、一般的にはなじみが薄いが、補聴器等では日本の消費者とも接点がある。 ヘルマンは、日本に赴任すると猛烈な勢いで仕事をし、会社の業績も上向いていった。 ミュンヘンでは想像もしなかった豪奢な生活が繰り広げられることになるが、その代償として、ヘルマンは手を汚すことになるのである。 世に言う「シーメンス事件」である。 「シーメンス」は英語読み。 主として日本史の専門家が使う。 西洋史では、「ジーメンス」。 シーメンス事件は、海軍の高官が賄賂をもらい、時の山本権兵衛内閣が大正三年に総辞職をするという大疑獄事件として有名であるが、間違った言い伝えもいくつかあるように思う。 疑獄事件は、圧倒的にヴィッカース社にその責があるが、事件が報道された発端がシーメンス社であったことにより、「シーメンス事件」と呼ばれるようになった。 しかし本来は、「ヴィッカース事件」と呼ばれてしかるべきである。 「シーメンス事件=ドイツの軍事企業シーメンス社による贈賄事件」といった、ステレオタイプの通説となっているが、事実は、これとは少し違っているように思う。 シーメンス事件の主役は、ヴィッカース社が戦艦金剛の発注に絡み、賄賂を日本の高官に日本の代理店である三井物産を通じて送ったことである。 脇役として、海軍無線電信所船橋送信所設置に絡み、贈賄をしたシーメンス社が登場すると考えられる。 その根拠は次の通りである。 まず賄賂の額であるが、ヴィッカース社が 40 万円なのに対し、シーメンス社は 10 万円余りである。 戦艦発注に対する贈賄と、「船橋」という一地方都市の無線所設立に対する贈賄とでは、意味合いが違うように思える。 本来なら、「ヴィッカース事件」若しくは「ヴィッカース・シーメンス事件」と呼ばれても良いように思う。 しかしながら、ヘルマンはその行き過ぎた違法行為により、処罰されることになる。 大正 3 年 7 月 14 日、「懲役1年、執行猶予3年」の有罪判決が下された。 時にヘルマン 43 歳であった。 ヘルマンはその後、シーメンスの子会社であるシーメンス電気会社に一介の技師として就職し、再起の機会をねらっていたが、それが無理だと分かると、事件から 7 年後の大正 10 年に館を日本の会社に売却し、一家をあげて東京に移住していった。 東京に転居して 2 年後の大正 12 年には、電気技師としての職を辞し、ドイツへと帰国した。 その後のヘルマンの消息は不明である。 ヘルマンが去った後、館はそのまま住む人もなく放置されていたが、洋画家である宇和川 通 喩 みちさと 洋風美術団体「白馬会」所属 夫妻が館を借り受け、一人息子とともに、ここに住んでいた。 その後の館については、いくつかの都市伝説があるが、「昭和 20 年の空襲で焼夷弾の直撃を受け、燃えるものは燃え、廃墟は昭和 40 年代後半まで存在していた」というのが一般的な史実であろう。 一部、不審火と言う説もある その後、館は取り壊され、跡地は「ヘルマンハイツ」として売り出され、現在は高級住宅地となっている。 遠く大阪湾まで見渡すことのできる高台は、主を変えてもなお、その素晴らしい景色を住民に供している。 ヘルマン邸の敷地がどのように変遷してきたかを見ていくと、地域と近代日本の関係が垣間見えてくる。 もともとの所有者は地元野寄の O 氏である。 明治 41 年、ヘルマン合資会社が土地を買い取り、ヘルマン失脚後、シーメンス日本大阪支社の元社員であり、川北電気工業株式会社 本社名古屋 の創始者である川北栄夫氏に買い取られた。 その後、戦時中に神戸製鋼所に所有権が移り、戦後 泉州の阪本紡績の手に移った。 昭和46年前後に、跡地が造成され、分筆区画分けされて宅地として売り出され、現在に至っている。 西岡本からのお知らせ「ヘルマン邸」.

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