西野カナ 重い。 西野カナの歌詞一覧リスト

西野カナの誕生日・大好き・自分が話題

西野カナ 重い

西野カナというアーティストの歌詞を、マツコデラックスがコメントしたことについて、ネット上で「的確だ」という意見が高まっている様子。 この件について、もう既に数時間悩まされ続けている。 埒が明かないので一旦文字化しておき、もっと理解力や想像力が高まった段階で再考することにしようかと思う。 思考のきっかけになった対象の記事は以下の通り。 「マツコDX兄さんの言うことが的確すぎる件」 「『ありがとう、君がいてくれて、本当よかったよ・・・』なんて詞をどう解釈しろというのよ。 どこに心の機微があるの?「ありがとう」ということを自分なりの言葉に代えて表現することこそが、作詞活動じゃないの? あのボキャブラリーでよく歌詞なんか書こうと思ったものね。 あんな三歳児でもわかるようなフレーズじゃないと、今の若い子たちは共感できないの?そんなに想像力がなくなっているの?あの稚拙な歌詞を見せられて、『小学生の読書感想文じゃないんだぞ』ってツッコミすらできないの? 等身大の思いというのは、いつの世にもあったけど、自分のことを世代の代表として選ばれたアーティストとして自負しているなら、カッコつけようとかプライドがあるはず。 でも、それが西野カナには微塵も感じられないのよ。 彼女だけが問題じゃない。 こんな薄っぺらい歌詞を、何の疑いもなく支持してしまっている女子高生たちの精神構造もわからないのよ。 与えられたものを、何も考えずにそのまま受け入れているだけ。 だから、あんな詞に対して『そうだよね。 わかるぅ。 友達と会えてよかったよね』ってなるのね。 」 確かに、彼女の曲は激しく「ありがとう」「会いたい」という文字列によって網羅されている。 複数の曲の歌詞を読んで衝撃を受けるほどだった。 それはボキャブラリーのなさを露呈しているだけにしか感じられなかった。 薄い、浅い、中身がない、そんな感情しか最初は得られない。 マツコデラックスの指摘は「的確」である。 でも、と考えてみる。 たとえば、ひたすら「会いたい」にこだわることの芸術性について。 先日逝去した榊獏山という書道家がいたが、彼の一文字だけの大書が有名であったりする。 同じ文字ばかりをひたすら書いていたというような話を聴いたことがある。 西野カナもこのままただひたすら「会いたい」をずっと訴え続ければ、それはそれで芸術性は高いと思う。 会いたいという言葉を、いかにあらゆるメロディーとリズムとグルーブに位置づけるかを徹底的に極めてしまうとどうだろうか。 誰も追随できないと思う。 ずっと会えていない人なのだろうから、近くにいない人だと思われるが、自分ならそれを極める前に別のすぐ会える人に会いに行ってしまう。 そこを超えての「会いたい」であれば、もうそれは僧侶的というか、悟りの域なのではないか。 続いて、もしかしたらあえて「自分なりの言葉に置き換えない」ということの芸術性について。 西野カナはある意味、現代の樋口一葉ではないかと思う。 超口語体。 ケータイで話す言葉にメロディーがついただけといった印象。 完全メール語体と言ってもいい。 ストレートで表面的というか、中学生のラブレター的というか、歌が果汁10%位というか。 歌詞は殆ど気にしない自分だけど、この斬新さには驚く。 そのうちTwitterで歌ができそうである。 日常的な普遍性あふれる普段使いの言葉のままの表現の追求が「会いたい」という、どこにでもありそうなこの平凡な言葉に集約されているのなら、濃縮還元の技術があまりに高くなかなか真似できないと思う。 さて、「芸術=人間のための人間的活動」、そう定義したとき、西野カナはこれまでの芸術のポジションよりも野性的な位置にあると思う。 とにかく誰かに会いたいことをストレートに伝えることに専念し、そこに矛盾などない。 だがこれで芸術が爆発したら、人間的であることとは一体何なのだろうか。 いや、芸術という枠内で彼女の歌を考えることが間違っているのだろうか。 もっと裸になって動物的な感覚の必要性を訴えているのかも知れない。 大人たちの古い慣習や、世の中の矛盾や、社会の複雑な因果関係や、感情の交錯・浪費される葛藤をリセットすべきだと。 これは一芸術論的にはありだと思う。 個人的には、そのような風潮・方向性は、中露との外交を考えると「今」には合わないし、受け入れづらいが、それもリセットの対象となるのか。 そうなるとかなり高度な政治性をも含まれてしまう。 ふと、彼女の歌詞を読み返してみる。 理解不能な阿久悠の歌詞でもあったものがない。 歌に織り込まれるのは、日常性であって、非日常性がない、普遍的な毎日の感情のみである。 井上陽水や中島みゆきや槇原敬之の曲にあるストーリー性や余韻のある叙情性について、彼女から同様のものを感じるには、かなり高等な読解力と想像力が必要だと思う。 聴き手に世界観までの創造をも要求する高度な歌だ。 歌は何もきっかけを提示しない。 聴き手にすべて責任を丸投げし、自由という重い負担を与え、イマジネーションの底なしの泥沼に飛び込ませる。 これは今までになかった芸術ではないか。 厚み・深み・きっかけ…。 何もない、それが却ってブラックホールのような不可解な奥行きを提供してくれるのではないか。 読み取ろうとするべき手がかりも提示してくれないだけに、その領域に立ち入れなくなる。 歌を色で感じたことがないが、その形容詞しか、もう頭に浮かばなくなる。 不安定な葛藤によって、思考は停止させられる寸前まできてしまう。 このままでは立ち直れないので、いったん表現の表層に立ち戻ってみたい。 果たして、彼女は何に「会いたい」のか。 旧友や別れた彼氏なんかではないと思う。 仮に「近所のコンビニの店員」であった場合、都会の孤独感をそこまで叙情的に表現していることに感服してしまうが、悔しくてつまらない。 もっと宇宙的なもの、もしくは概念的なものなのではないか。 仮に対象が「神」であれば激しい歌である。 君のそばにいるから、と言ってしまっている。 彼女は一体何様なのか。 仮に会いたいのが「ラジウム原子」だったらもう自分の勉強不足を謝るしかない。 アルカリ土類金属なので、燃やすと炎色反応で紅色に光るやつだ。 そんな放射性のあるこんなものと出会いたいとかだったら、もう彼女は危険すぎる。 ぜひ会いたくないとすぐに返歌を詠んでほしい。 具体的な世界観がないだけに、「君」の捉え方次第では、あらゆる解釈が可能である。 「君が代」並みではないか。 これ以上の解釈の広げ方は、もう爆発である。 彼女は多分何も考えずに書いたという気がしてならないが、その分だけ悩む人間を生んでしまうというやっかいな反芸術性、むしろ芸術性が面白い。

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西野カナの歌詞一覧リスト

西野カナ 重い

西野カナが嫌いです。 とりあえず歌詞がうざいんです。 「会いたい」とか「好き」とかどの歌にもそういう歌詞を入れています。 愛を表現した歌詞ばかりで本当に嫌です。 なんかしつこいんです。 ほとんどの曲に「会いたい」かんれんの言葉が入っているのでしつこいです。 西野カナが好きな人でも嫌いな人でもご意見聞かせてください。 (これはあくまでも私の意見です。 失礼な言い方をしましたが本当に思っていることです。 ファンの方の文句などはやめてください) 補足kureyonnshinnya あなた文句はやめてくださいって書いてあるの分かっていますか?そう書いてあるので文句言わないでください。 もしかして眼悪いですか?眼科の方をお勧めします。 彼女の歌は「失恋」「片想い」「友情」しかない気がします^^; 以前は西野カナが好きだったのですが、 「SAKURA,I love you? 」以来、冷めてしまいました…。 2010年に発売された「if」「君って」あたりが一番好きでしたね。 ifは好きとか言っていないし、彼女の歌にしては爽やかで とても聴きやすいと思いました。 君っては重くないし、とてもあたたかみのある曲だと思いました。 この2作は唯一あの重さやありがちな歌詞でなくて好印象でした 笑 さきほど、冷めてしまったと書きましたが…。 「SAKURA,I love you? 」はなんか状況が複雑だと思いました。 歌ってメロディーにのせて、限られたなかで繋げていくものだし、 あれくらいいってしまうと物語に感じますね。 彼氏がいるのに元彼が気になってしまうとか…。 現実にはあるかもしれませんが、歌にするものではないなと思います。 「私たち」は過去の「Best friend」に似ている印象ですね。 「あなたがいてよかった」みたいなところが似ていると思います。 友情に関してそれだけしか言えないの? と思ってしまいます 笑 彼女の友情曲に関しては「君がいてくれてありがとう」が お決まりのような気がしてしまいます^^; 最近では「GO FOR IT!! 」が「Distance」に似ている気がします。 「私があなたを想う気持ちに気づいてよ」みたいな。 元気な曲でいいと思うのですが、 なんかDistanceをもっと明るくした片想いに聞こえてしまいます。 今までの曲の総集編みたいに思います。 個人的な意見ではありますが…。 「if」と「君って」は今でも好きなのですが、 最近のはどうも好きになれません^^; あと、歌手だけどファッションリーダーっていわれると 「えっ? 」って思ってしまいます 笑 白い服や花柄の服を着て、 つけまつげをしたあのメイクをすれば誰でもできると思いますが…。

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西野カナ 重い

むかしむかし、あるところに 不器用な男の子と、 少し気の強い女の子がいました。 違う世界に住んでいたふたりは ある日偶然、出会い ooh ooh ooh 恋に落ちました。 Bedtime Story:西野カナ おいおいおいおい、なんなんだこのくだらない絵本調の歌詞は。 カナやん(西野カナの愛称)はいつだって。 女性のありがちな気持ちを歌い、男を辟易させてくれたじゃないか。 少女漫画の映画タイアップソングとはいえあまりにもひどい。 何なんだよこの歌詞は。 もの足りねぇよ。 もっと俺をイラつかせてくれよ!!! くだらねぇ歌詞だなって。 「でも何だかんだ聴いちゃうんだよなぁ…」ってさせてくれよ!! でもこんな近年の西野カナの停滞感を感じる世界観に、ひょっとして彼女は自身の作品の方向性に悩んでいたのでは? そうも思えてくるのである。 約 10年間、ただひたすらに愛、いや LOVEに向き合ってきた西野カナ。 一区切りがついた今、平成を代表する歌姫である彼女の歌詞の世界観に今一度迫りたい。 そして迫ったら、割と震えたのでビビった。 ちなみにオリコン 155位とセールス的にも全く振るわなかった。 その後、何曲かのシングル曲を経て、 6thシングル「君に会いたくなるから」がヒット。 どうやら西野カナはこの頃に作詞のスタイルを確立させたようだ。 この三つだ。 遠くても feat. 会いたくはないらしい。 でもやっぱり連絡は携帯でとる。 この頃の西野カナは遠距離恋愛でもしていたんだろうか。 携帯で連絡と取り合い、連絡のペースが遅くなり、不安になると、 「今何してるの?」ってメールですげぇ聞いてくる。 こういうメールが来た時に「いや、何もしてないよ」って返すとダメなんですよね。 僕しってるよ!!!! そして決め言葉は「会いたい。 」 いやー、正直、重いっす。 すいませんっ!! そして伝説へ 散々、携帯で重い想いを伝えて、会いたい思いを募らせ、ついに西野カナの代名詞である『会いたくて会いたくて』がリリースされる。 ( 10thシングル) この『会いたくて会いたくて』は単曲としてではなく、ここまでのシングルを追っていくと、重みが全然違ってくる。 5 thシングルの『遠くても』から遠距離恋愛をしていたと仮定すると、5~7 thシングルまでは会いたい想いを抱えながら、携帯によって愛を繋ぎ止め、8 thシングル『 MAYBE』では彼の元カノの面影に心を揺さぶられ、9 thシングルの『 Best Friend』では友達にメールの優しさに救われながら、愛を育んできた。 しかし、 10thシングルの『会いたくて会いたくて』、そうしてまで繋ぎ止めてきた二人の愛に終わりが来る。 誰より君の全てを知ってるのに でもどうしてもあの子じゃなきゃダメなの? しかし『会いたくて会いたくて』にはあれほど出てきた携帯の描写はもう一切出てこない。 これほどに愛しているのに、どうせ私じゃダメなの。 なぜあの子なの。 あの子とは8thシングルの「MAYBE」の元カノだったのだろうか。 西野カナの『会いたくて会いたくて』は遠距離恋愛をテーマにした音楽のクライマックス。 5thシングルからの『遠くても』から『会いたくて会いたくて』までの一大ラブロマンス作品。 おいおいおい、カナやん、天才やんけ。 まじ震える。 月9でやれよ、こんなんよぉ。 活動休止特番として楽曲使ってドラマ化しろよ、まじで。 え? 6thシングルの『君に会いたくなるから』で既に別れの描写あるって? あのさぁ…そこは適当に 10thシングルの前日譚として解釈しといてよ。 じゃないとここまで長々と文章書いた意味がなくなっちまうんだよ。 とまぁ長くなってしまったので、ここらで一度終了。 後編「会いたくて震えた後の西野カナ」に続きます。

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