志村けん 追悼。 追悼特別番組 志村けんさん 46年間 笑いをありがとう (2020)

“誕生日会幹事”中山秀征、志村けんさん追悼「信じられません、言葉にもなりません」

志村けん 追悼

志村けんさんの病状経過 3月17日に倦怠感を覚え、自宅療養。 3月19日に発熱や呼吸困難の症状が現れたため、 3月20日に主治医が往診診断を受けた結果、医師の判断で14時頃志村さんの家の前に救急車と消防車が長時間止まり港区の病院に搬送され、緊急入院した。 3月21日すでに意識がなく危篤状態 検査で重度の肺炎と診断される。 3月23日に新型コロナウイルス検査で陽性と判明。 3月24日に行われた保健所の調査で濃厚接触者の特定は終了しているが、感染経路は不明だという。 3月24日午後には、人工心肺をつけるため別の病院に転院した。 3月29日午後11時10分、入院先の都内の病院で亡くなった。 70歳だった。 新型コロナウイルスに感染したタレントの志村けん(本名・志村康徳)さんが29日に亡くなったことが30日、分かった。 70歳だった。 訃報を受け、歌手の和田アキ子は事務所を通じて追悼した。 コメント全文は以下の通り。 「とにかく残念です。 本当に回復を願っていました。 回復すると信じていたので、、、。 志村(昔からそう呼んでいたので、あえてそのまま呼ばせてください)とは、志村がまだ全員集合の時にボーヤをやっていた頃からの付き合いです。 当時、志村はコーヒーを楽屋で売っていて、毎回それを買ってあげると物凄く喜んでくれました。 それからの活躍はそれはそれはすごくて。 音楽も詳しくて、お笑いの才能はズバ抜けていて、凄いなあと尊敬してました。 飲み屋で一緒になる事が多くて、何度かばったり会って飲みました。 とにかく静か~に寡黙に飲むんですよ。 『楽しいの?私といるからつまらないの?』って聞いたら、『楽しいですよ。 いつもこんな感じです』って、これまた小さい声で笑って答えていました。 最後に会ったのは、正月の『格付けチェック』の番組です。 『お互い歳だから、仕事に感謝して頑張っていこうな』って話していたんですよね、、 また1人、才能あふれる人が亡くなってしまいました、、、 本当に残念でならないです。 心からご冥福をお祈り申し上げます」 出典: ザ・ドリフターズのメンバーから追悼の言葉 加藤茶(77)仲本工事(78)高木ブー(87)が30日、新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなった志村けんさんへの追悼コメントを所属事務所のホームページで発表しました。 スポンサーリンク 海外メディアも速報で追悼報道 日本が誇るコメディアンの新型コロナウイルスによる死去の衝撃は大きく、世界の主要メディアも速報した。 ロイター通信が速報したことを皮切りに、 米「ニューヨークタイムズ」、 英高級紙「ガーディアン」、 英「デイリースター」電子板などが一斉に報じた。 「デイリースター」は「トップコメディアンの志村けんが入院後、数日でコロナウイルスにより死亡」という見出しで報じ「日本で最も有名なコメディアンの1人。 世界がその死を悼んでいる」と、綴った。 また、 米CNNのアジア担当の記者はツイッターで「有名な日本人コメディアン、志村けんは日曜日の夜にコロナウイルスによる肺炎で亡くなった」と説明し「彼は『日本のロビン・ウィリアムズ』と呼ばれている」と、その偉大さを表した。 台湾の 蔡英文(ツァイ・インウェン)総統は30日、タレントの 志村けんさんが29日に新型コロナウイルスによる肺炎のため死去したことを受け、 「台湾人にたくさんの笑いと元気を届けてくれてありがとうございました」「ご冥福をお祈りします」 と自身の ツイッターに 日本語で投稿しています。 志村けん死去(死亡)に追悼の声が多数!各界・芸能人からの追悼SNSのまとめ 志村けんさん、国境を超えて台湾人にたくさんの笑いと元気を届けくれてありがとうございました。 きっと天国でもたくさんの人を笑わせてくれることでしょう。 ご冥福を心から祈ります。 — 蔡英文 Tsai Ing-wen iingwen 素晴らしいおじさん。 ありがとうございました。 」 と仰っていただけました。 これからもこの言葉を胸に生きていきます。 ご冥福をお祈りします。 — クマムシ長谷川 俊輔 HASEMANATTAKAI 子供の頃ドリフブーム後半。 世はひょうきん族へと。 僕はドリフ負けるな!と帽子にペンキで「ドリフ・イズ・ナット・デッド」と書き被ってた。 上京時Gジャンに志村さんのシルエットをプリントして。 こうなる為にと。 音楽と笑いのまさしく「日本史上最高のエンタテイナー」。 ピコと…。 心も泣く。。 信じられない。 どうすればいいのか。 — ラサール石井 lasar141 — ROLA RolaWorLD 1月にお邪魔させて頂いた、志村どうぶつ園の収録前にポツンと座ってたら、志村さんが 「最近本当忙しいでしょ?大丈夫?」と声をかけてくださいました。 とても優しくて、またご一緒したかったです。 楽しい時間を沢山、本当にありがとうございました。 ご冥福をお祈り申し上げます。 日本の芸能界に激震!世界中を震撼させ、猛威を振るう見えない脅威、コロナウィルスの恐ろしさ。 皆、他人事と思わず自覚すべき。 合掌 — デヴィ スカルノ dewisukarno もう二十年近く前のこと。 友人と食事をしていたら、たまたま同じ店に居合わせた志村さんが私たちの席まで来てくださり、「ご著書を読みました。 とても感銘を受けました」と言ってくださった。 志村さん、またお会いしたかったです。 心よりご冥福をお祈りいたします。 ずっと大好きです。 ドリーム東西ネタ合戦の本番前に舞台裏でネタ合わせをしてたら、いつからか志村さんが見ていてくださって 「頑張ってるね!」 って、笑ってくださってたのが凄く嬉しくて、緊張がとけて本番に望めたのを今でも覚えています。 志村けんさん、心よりご冥福をお祈りいたします。 — 安田大サーカス クロちゃん kurochan96wawa 志村けんさん。。。 さまぁ~ずの家族の話好きなんだよなぁ。 といってくれました。 ドリームマッチで、志村さんと優勝したのが最高でした。 ありがとうございました。。。 コント頑張ります。。。 — 三村マサカズ hentaimimura 志村けんさん沢山の笑いと幸せをありがとうございました。 朝から涙が止まりません。 小さい頃から家族で見るお笑いはいつも志村けんさんで、ビデオで録画して何度も何度も見る程1番大好きな芸人さんでした。 自分が良くやる変顔も志村さんに影響を受けてのものです。 沢山の笑いを本当にありがとうございました。 ご冥福をお祈りします。 — HIKAKIN😎ヒカキン 【YouTuber】 hikakin 志村園長、、、、、嘘だ、、、 — きゃりーぱみゅぱみゅ pamyurin 日本から悲しいニュースが届きました。 さんとは、以前 で共演させていただきました。 心よりご冥福をお祈りいたします。 — Yoshiki YoshikiOfficial 自分の意識がまだまだ低かった事を思い知らせてくれたのが、志村けんさんになるとは…。 師匠の死を無駄にしてはならない。 — 綾小路 翔 ShowAyanocozey 8時だよ全員集合の頃からずっと大好きでした。 残念でしかたありません。 ご冥福をお祈り申し上げます。 ライブでヒゲダンスを 踊らせて頂けた事は とても良い思い出です。 安らかにお休み下さい。 共演時にコントのキャラクターの 作り方や準備の仕方を惜しげもなく 教えてくれました。 僕のコントキャラ作りが 大きく変わりました。 心からご冥福をお祈りします。 引き継ぎコロナ対策気をつけます。 — ドランクドラゴン塚地武雅 tsukajimuga.

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「どんだけ笑わせてもらったのか…」志村けんさん新型コロナ肺炎で死去、著名人から相次ぐ追悼コメント

志村けん 追悼

志村けんさんが、29日、東京都内の病院で亡くなりました。 追悼の意を込めて、以前「水道橋博士のメルマ旬報」に寄稿した「ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか」を一部修正の上、転載します。 ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか 一定の年代より下の世代にとって、ザ・ドリフターズといえば、いかりや長介、加藤茶、志村けん、仲本工事、高木ブーの5人。 荒井注が中心メンバーの一人だったというのを知識では知っているが実感はない。 ドリフのエースは志村けん、というイメージが強い。 だから、志村けんが元々はドリフのボーヤであり、荒井注が脱退した代わりにドリフのメンバーに抜擢された、といわれてもピンとこない。 実際のところザ・ドリフターズにとって志村けんとはどんな存在だったのか。 『8時だョ!全員集合』が始まる1年前の1968年2月。 志村はいかりやの自宅を苦労して調べ、新宿から30分トボトボ歩いて、いかりやを訪ねた。 しかしいかりやは仕事で留守。 仕方なく志村は玄関口で12時間待ち続けた。 雪の降る寒い日だったという。 ようやく現れたいかりやの顔の迫力に驚きながらも、弟子入りを志願した志村にいかりやは「ボーヤで苦労する気があるのなら」と答えた。 「ちょうど辞めそうなのがいるからその時連絡する」と。 志村のもとに連絡が入ったのはそれからわずか1週間後のことだった。 後楽園ホールに呼び出された志村は新しいボーヤとしてメンバーに紹介された。 まだ高校の卒業を控えていた志村は「4月からやらせていただきます」というと、「バカヤロウ、明日からだ!」とさっそくいかりやの雷を浴びたのだ。 志村けんが芸人を志したひとつの要因は父親への反発だった。 志村の父は小学校の教頭を務め、柔道5段で堅く封建的で厳格だった。 だから家庭内で志村は笑いに飢えていた。 そしてそんな父親を見て、毎日決まった時間に職場に行って帰ってきて、同じような生活をするのは耐えられないと思っていたという。 そうして「人を笑わせる仕事につきたい」と思うようになった中学の頃、父親は交通事故に遭い、その後遺症でボケが始まってしまった。 「あの頃のオヤジは、校長の試験を受けるといって、学校から帰ったらすぐに自分の書斎にこもってた。 でも、だんだん記憶がおかしくなってイライラしてきて、そのうち僕のことも誰だかわからなくなってきた。 (略)「どちらさんですか」っていうのと、もう飯を食ったのに「飯はまだかい」っていうのと、それしか言わなくなってきて、みんながあまり近寄らなくなると、今度はおふくろに乱暴するようになった。 」(『変なおじさん』) そんな症状だったから志村が「ドリフターズの付き人になる」と言っても父親は反対をしなかった。 ちなみに志村の本名は志村康徳。 芸名である志村けんは父親の本名「志村憲司」からとったものである。 そして後に彼の代名詞となる「変なおじさん」はボケ始めた頃の父親がモデルだという。 そんな志村が新しい親として選んだのがいかりや長介だったのだ。 『全員集合』開始前の土曜8時はフジテレビの『コント55号の「世界は笑う」』が視聴率30%を超える人気を誇っていた。 そんな状況で新番組作りを任されたTBSプロデューサーの居作昌果はハプニングとアドリブの笑いを得意とするコント55号の笑いに対抗して、時間をかけて徹底的に作り上げた笑いを作ろうと考え、設定ごとに徹底的にギャグを考えるのが好きないかりや長介が率いるザ・ドリフターズをその主役に選んだのだ。 しかし当時のコント55号とドリフは因縁浅からぬ関係だった。 終了したドリフの番組(『進め!ドリフターズ』『突撃!ドリフターズ』など)の後番組はことごとくコント55号が務め、成功を収めていた。 明らかに勢いはコント55号にあった。 だから当初、いかりやをはじめドリフのメンバーはコント55号の裏番組を始めることに難色を示していた。 はじめから失敗することばかりを考えるいかりやに居作は思わず言ってしまう。 「たしかに55号とドリフじゃあ、今は、月とスッポンかも知れない。 だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」(『8時だョ!全員集合伝説』) そんな言葉に奮起したのか、いかりやは『全員集合』の開始を決意する。 居作によれば芸人を志したのにいっこうにお笑いをさせてもらえない状況に「あせり始めた血気盛んな志村」が「ボーヤ仲間を誘ってドリフターズを離れ、旗揚げしようと考えた」行動だったという。 しかし、誘った仲間のボーヤが裏切りついて来なかった。 結果、その後1年間、サラリーマンやバーテンなど職を転々することになった。 しかし、志村本人から言わせるとやや事情が違う。 高校を出てすぐに付き人になったから、世の中のことを何も知らないことに対する不安があった、のだという。 当時のコメディアンは、みんな職を転々として苦労しているという話を耳にしていた志村は自分も「1年間他の仕事をやってみたい」といかりやに申し出る。 しかしいかりやは「必要ない」と相手にしない。 約束通り1年で戻ろうとしたら「志村は逃げた」ということになっていたため、信頼していた加藤茶に頼み口利きをしてもらいドリフの付き人に復帰。 そのまま加藤のもとで居候生活を始める。 志村がいなかった1年間でドリフと『全員集合』は大ブレイク。 同番組は視聴率で『世界は笑う』を抜き、コンスタントに30~40%を記録するまでになっていた。 特に加藤茶の人気はものすごく「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!」「ウンコチンチン」「チョットだけョ」などのギャグが次々と流行していった。 この成功をいかりやは「ドリフの笑いの成功は、ギャグが独創的であったわけでもなんでもなくて、このメンバーの位置関係をつくったことにあると思う」と冷静に振り返っている。 「私(いかりや)という強い『権力者』がいて、残り4人が弱者で、私に対してそれぞれ不満を持っている、という人間関係での笑いだ。 嫌われ者の私、反抗的な荒井、私に怒られまいとピリピリする加藤、ボーッとしている高木、何を考えているんだかワカンナイ仲本。 メンバー5人のこの位置関係を作り上げたら、あとのネタ作りは楽になった」(『だめだこりゃ』) 居作も同様に「荒井注がいた時代は、加藤茶が主役ではあったが、加藤のひとり舞台というコントはなかった。 五人のアンサンブルの中で、加藤が笑いを取るという形だった」と分析している。 しかし、ドリフ絶頂の1973年、荒井注が「体力の限界」を理由に引退を申し出る。 いかりややスタッフらが必死で説得するが決意は固く、翌年3月まで引退時期を延ばすのがやっとだった。 困ったいかりやが荒井の代役として白羽の矢を立てたのが志村けんだった。 当時志村はボーヤ仲間とマック・ボンボンとしてドリフの前座をしていたのが認められテレビにレギュラー出演。 しかし、ネタの数も乏しかった彼らは出番をどんどん削られ失意の相方が蒸発。 志村は2代目の相方を同じくボーヤの中から選びマック・ボンボンを続けたがやる気があるかないか分からない相方に翻弄された挙句、解散したばかりだった。 志村は73年12月から「見習い・志村けん」として『全員集合』に出演を始め、74年3月、荒井注の引退に伴って、ドリフターズに正式に加入した。 しかしドリフの笑いはいかりやが分析するように「メンバーの個性に拠りかかった位置関係の笑いだから、荒井の位置に志村けんを入れたからといって、そのままのカタチで続行できるものではなかった」(『だめだこりゃ』)。 その結果、志村は加入から2年近くにわたって苦しむことになる。 当時を志村はこう述懐している。 「(自分が出てくると)お客が身を乗り出して見てたのに、僕が出たとたんにサーッと引いて、シーンとなる。 それが手にとるようにわかるから、つらかった。 どうしても荒井さんと比べられるから、何をやってもダメで、悲惨だった。 とんねるずの石橋貴明も、あのころ公開収録を見に来て、『つまんないよ、あの髪の長いやつ』って言ったそうだから」(『変なおじさん』) それと呼応するように『全員集合』の視聴率も徐々に低迷(もちろんそれでも高視聴率だが。 )していった。 それに追い打ちをかけるようにフジテレビで『欽ちゃんのドンとやってみよう!! 』がスタート。 遂に視聴率で抜かれるようにもなった。 窮地のドリフを救ったのは、志村けんだった。 苦戦の続いたドリフは1975年夏に「夏休み」と称して1ヶ月半活動停止をしメンバーで合宿を敢行。 リフレッシュの末、やがて志村が認知され、いよいよ「笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない」(『だめだこりゃ』)といかりやが評する志村の才能が開花し始める。 1976年3月、ちょうど志村がドリフに正式加入して2年が経とうとしていた。 「東村山音頭」の誕生である。 これをきっかけに志村の快進撃が始まった。 「ディスコばあちゃん」「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」などを次々とヒットさせ、ドリフは再び息を吹き返したのだ。 しかし一方で、この志村のブレイクは、ドリフの笑いそのものを大きく変えることになった。 前述のとおりこれまでメンバーの「関係性」で笑いを作っていたドリフが、個性と動きで笑わせる志村が主役のキャラクターコントに変わっていった。 「コント全篇が志村けんのひとり舞台」となり、その中でギャグが展開されていた、と居作は分析する。 「荒井が抜けたとき、ドリフの笑いの前半は終わったという気がする」といかりやは述懐する。 「志村加入以後は、人間関係上のコントというより、ギャグの連発、ギャグの串刺しになっていった」(『だめだこりゃ』)。 そしてこの志村のブレイクはメンバー間の人間関係にも微妙な変化をもたらしてしまった。 ボーヤあがりだったため「おい、志村」などと呼ばれていた志村が、「けんちゃん」「志村くん」と呼び名が変わり、やがて「志村さん」と呼ばれていく。 お笑い芸人として成長し、芸人としての自我と自信を持ち始めた志村と、いかりやとの間に笑いのギャップが生まれるようになってきた。 今まで、言われたとおりにやってきた志村が親に反抗するように、いかりやの意見に背くようになっていった。 そして遂に決定的な決断が下される。 フジテレビでは『オレたちひょうきん族』が開始され、その勢いが注目され始めた頃だった。 いかりやが「俺はもう疲れた」「まかせるから、そっちで何とかやってくれないか」と告げたのだという。 それを受け居作は、毎週木曜日に行われていた会議からいかりやを休ませることにしたのだ。 他のメンバーも異存はなかった。 しかし、仲本工事だけは「絶対モメると思うよ」「長さんって、そういう人だから」と、反対した。 その不安は的中する。 「疲れた」と口にするのはいかりやの口癖のようなものだった。 疲れているのは解っている、けど、頼れるのは貴方だけだ、そう言われてまた奮起する。 それがいかりやにとっては心の拠り所だったのだ。 しかし、この時は、額面通りに受け取られ、「休め」と言われてしまう。 いかりやはそう感じたのだ。 「わかったよ。 みんな、俺がいらないって言うんだな」 以降、ドリフのコントは加藤茶と志村けんが中心となって作られていくようになった。 ちなみにこの時期からフジテレビで放送されていた『ドリフ大爆笑』でも、「いかりや・仲本・高木」と「志村・加藤」それぞれのコントが多くなり5人揃ったコントがほとんどなくなっていった。 やがて『ひょうきん族』の勢いが加速し、遂に1985年『全員集合』が終了。 もちろんザ・ドリフターズはこの後も活動を続けるが、以前のような結束が戻ることはなく、各自のソロ活動、ユニット活動に移行していった。 いかりや長介はその後、子離れするかのごとく、お笑いの世界から離れ、性格俳優として大成していく。 ドリフの窮地を救った志村は、やがてドリフを変え、ドリフに引導を渡すこととなった。 新しい親としていかりやを選び、芸人として育てられた志村は反抗しながらやがて親を越え、親殺しするかのようにドリフを巣立ち自立した。 そして、その親の果たせなかった意思を継ぐように60歳を越えてもバカをやり続け、生涯お笑い一筋の人生を邁進しているのだ。 (初出:「水道橋博士のメルマ旬報」2012年12月25日) (参考文献) ・『だめだこりゃ』(著:いかりや長介) ・『変なおじさん』(著:志村けん) ・『8時だョ!全員集合伝説』(著:居作昌果) ・『笑芸人』(Vol. 1)「特集:土曜8時テレビ戦争」.

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いしのようこが志村けん追悼…。破局理由は3年ルール?本人は事実婚を

志村けん 追悼

志村けんさんが、29日、東京都内の病院で亡くなりました。 追悼の意を込めて、以前「水道橋博士のメルマ旬報」に寄稿した「ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか」を一部修正の上、転載します。 ザ・ドリフターズにとって志村けんとはなんだったのか 一定の年代より下の世代にとって、ザ・ドリフターズといえば、いかりや長介、加藤茶、志村けん、仲本工事、高木ブーの5人。 荒井注が中心メンバーの一人だったというのを知識では知っているが実感はない。 ドリフのエースは志村けん、というイメージが強い。 だから、志村けんが元々はドリフのボーヤであり、荒井注が脱退した代わりにドリフのメンバーに抜擢された、といわれてもピンとこない。 実際のところザ・ドリフターズにとって志村けんとはどんな存在だったのか。 『8時だョ!全員集合』が始まる1年前の1968年2月。 志村はいかりやの自宅を苦労して調べ、新宿から30分トボトボ歩いて、いかりやを訪ねた。 しかしいかりやは仕事で留守。 仕方なく志村は玄関口で12時間待ち続けた。 雪の降る寒い日だったという。 ようやく現れたいかりやの顔の迫力に驚きながらも、弟子入りを志願した志村にいかりやは「ボーヤで苦労する気があるのなら」と答えた。 「ちょうど辞めそうなのがいるからその時連絡する」と。 志村のもとに連絡が入ったのはそれからわずか1週間後のことだった。 後楽園ホールに呼び出された志村は新しいボーヤとしてメンバーに紹介された。 まだ高校の卒業を控えていた志村は「4月からやらせていただきます」というと、「バカヤロウ、明日からだ!」とさっそくいかりやの雷を浴びたのだ。 志村けんが芸人を志したひとつの要因は父親への反発だった。 志村の父は小学校の教頭を務め、柔道5段で堅く封建的で厳格だった。 だから家庭内で志村は笑いに飢えていた。 そしてそんな父親を見て、毎日決まった時間に職場に行って帰ってきて、同じような生活をするのは耐えられないと思っていたという。 そうして「人を笑わせる仕事につきたい」と思うようになった中学の頃、父親は交通事故に遭い、その後遺症でボケが始まってしまった。 「あの頃のオヤジは、校長の試験を受けるといって、学校から帰ったらすぐに自分の書斎にこもってた。 でも、だんだん記憶がおかしくなってイライラしてきて、そのうち僕のことも誰だかわからなくなってきた。 (略)「どちらさんですか」っていうのと、もう飯を食ったのに「飯はまだかい」っていうのと、それしか言わなくなってきて、みんながあまり近寄らなくなると、今度はおふくろに乱暴するようになった。 」(『変なおじさん』) そんな症状だったから志村が「ドリフターズの付き人になる」と言っても父親は反対をしなかった。 ちなみに志村の本名は志村康徳。 芸名である志村けんは父親の本名「志村憲司」からとったものである。 そして後に彼の代名詞となる「変なおじさん」はボケ始めた頃の父親がモデルだという。 そんな志村が新しい親として選んだのがいかりや長介だったのだ。 『全員集合』開始前の土曜8時はフジテレビの『コント55号の「世界は笑う」』が視聴率30%を超える人気を誇っていた。 そんな状況で新番組作りを任されたTBSプロデューサーの居作昌果はハプニングとアドリブの笑いを得意とするコント55号の笑いに対抗して、時間をかけて徹底的に作り上げた笑いを作ろうと考え、設定ごとに徹底的にギャグを考えるのが好きないかりや長介が率いるザ・ドリフターズをその主役に選んだのだ。 しかし当時のコント55号とドリフは因縁浅からぬ関係だった。 終了したドリフの番組(『進め!ドリフターズ』『突撃!ドリフターズ』など)の後番組はことごとくコント55号が務め、成功を収めていた。 明らかに勢いはコント55号にあった。 だから当初、いかりやをはじめドリフのメンバーはコント55号の裏番組を始めることに難色を示していた。 はじめから失敗することばかりを考えるいかりやに居作は思わず言ってしまう。 「たしかに55号とドリフじゃあ、今は、月とスッポンかも知れない。 だけどスッポンが月に勝てないと決まってるわけじゃない」(『8時だョ!全員集合伝説』) そんな言葉に奮起したのか、いかりやは『全員集合』の開始を決意する。 居作によれば芸人を志したのにいっこうにお笑いをさせてもらえない状況に「あせり始めた血気盛んな志村」が「ボーヤ仲間を誘ってドリフターズを離れ、旗揚げしようと考えた」行動だったという。 しかし、誘った仲間のボーヤが裏切りついて来なかった。 結果、その後1年間、サラリーマンやバーテンなど職を転々することになった。 しかし、志村本人から言わせるとやや事情が違う。 高校を出てすぐに付き人になったから、世の中のことを何も知らないことに対する不安があった、のだという。 当時のコメディアンは、みんな職を転々として苦労しているという話を耳にしていた志村は自分も「1年間他の仕事をやってみたい」といかりやに申し出る。 しかしいかりやは「必要ない」と相手にしない。 約束通り1年で戻ろうとしたら「志村は逃げた」ということになっていたため、信頼していた加藤茶に頼み口利きをしてもらいドリフの付き人に復帰。 そのまま加藤のもとで居候生活を始める。 志村がいなかった1年間でドリフと『全員集合』は大ブレイク。 同番組は視聴率で『世界は笑う』を抜き、コンスタントに30~40%を記録するまでになっていた。 特に加藤茶の人気はものすごく「1、2、3、4、やったぜ加トちゃん!」「ウンコチンチン」「チョットだけョ」などのギャグが次々と流行していった。 この成功をいかりやは「ドリフの笑いの成功は、ギャグが独創的であったわけでもなんでもなくて、このメンバーの位置関係をつくったことにあると思う」と冷静に振り返っている。 「私(いかりや)という強い『権力者』がいて、残り4人が弱者で、私に対してそれぞれ不満を持っている、という人間関係での笑いだ。 嫌われ者の私、反抗的な荒井、私に怒られまいとピリピリする加藤、ボーッとしている高木、何を考えているんだかワカンナイ仲本。 メンバー5人のこの位置関係を作り上げたら、あとのネタ作りは楽になった」(『だめだこりゃ』) 居作も同様に「荒井注がいた時代は、加藤茶が主役ではあったが、加藤のひとり舞台というコントはなかった。 五人のアンサンブルの中で、加藤が笑いを取るという形だった」と分析している。 しかし、ドリフ絶頂の1973年、荒井注が「体力の限界」を理由に引退を申し出る。 いかりややスタッフらが必死で説得するが決意は固く、翌年3月まで引退時期を延ばすのがやっとだった。 困ったいかりやが荒井の代役として白羽の矢を立てたのが志村けんだった。 当時志村はボーヤ仲間とマック・ボンボンとしてドリフの前座をしていたのが認められテレビにレギュラー出演。 しかし、ネタの数も乏しかった彼らは出番をどんどん削られ失意の相方が蒸発。 志村は2代目の相方を同じくボーヤの中から選びマック・ボンボンを続けたがやる気があるかないか分からない相方に翻弄された挙句、解散したばかりだった。 志村は73年12月から「見習い・志村けん」として『全員集合』に出演を始め、74年3月、荒井注の引退に伴って、ドリフターズに正式に加入した。 しかしドリフの笑いはいかりやが分析するように「メンバーの個性に拠りかかった位置関係の笑いだから、荒井の位置に志村けんを入れたからといって、そのままのカタチで続行できるものではなかった」(『だめだこりゃ』)。 その結果、志村は加入から2年近くにわたって苦しむことになる。 当時を志村はこう述懐している。 「(自分が出てくると)お客が身を乗り出して見てたのに、僕が出たとたんにサーッと引いて、シーンとなる。 それが手にとるようにわかるから、つらかった。 どうしても荒井さんと比べられるから、何をやってもダメで、悲惨だった。 とんねるずの石橋貴明も、あのころ公開収録を見に来て、『つまんないよ、あの髪の長いやつ』って言ったそうだから」(『変なおじさん』) それと呼応するように『全員集合』の視聴率も徐々に低迷(もちろんそれでも高視聴率だが。 )していった。 それに追い打ちをかけるようにフジテレビで『欽ちゃんのドンとやってみよう!! 』がスタート。 遂に視聴率で抜かれるようにもなった。 窮地のドリフを救ったのは、志村けんだった。 苦戦の続いたドリフは1975年夏に「夏休み」と称して1ヶ月半活動停止をしメンバーで合宿を敢行。 リフレッシュの末、やがて志村が認知され、いよいよ「笑いに関しては素人の集まりでしかなかったドリフだったが、今思えば、この志村だけが、本格的なコメディアンの才能をそなえていたのかもしれない」(『だめだこりゃ』)といかりやが評する志村の才能が開花し始める。 1976年3月、ちょうど志村がドリフに正式加入して2年が経とうとしていた。 「東村山音頭」の誕生である。 これをきっかけに志村の快進撃が始まった。 「ディスコばあちゃん」「ヒゲダンス」「カラスの勝手でしょ」などを次々とヒットさせ、ドリフは再び息を吹き返したのだ。 しかし一方で、この志村のブレイクは、ドリフの笑いそのものを大きく変えることになった。 前述のとおりこれまでメンバーの「関係性」で笑いを作っていたドリフが、個性と動きで笑わせる志村が主役のキャラクターコントに変わっていった。 「コント全篇が志村けんのひとり舞台」となり、その中でギャグが展開されていた、と居作は分析する。 「荒井が抜けたとき、ドリフの笑いの前半は終わったという気がする」といかりやは述懐する。 「志村加入以後は、人間関係上のコントというより、ギャグの連発、ギャグの串刺しになっていった」(『だめだこりゃ』)。 そしてこの志村のブレイクはメンバー間の人間関係にも微妙な変化をもたらしてしまった。 ボーヤあがりだったため「おい、志村」などと呼ばれていた志村が、「けんちゃん」「志村くん」と呼び名が変わり、やがて「志村さん」と呼ばれていく。 お笑い芸人として成長し、芸人としての自我と自信を持ち始めた志村と、いかりやとの間に笑いのギャップが生まれるようになってきた。 今まで、言われたとおりにやってきた志村が親に反抗するように、いかりやの意見に背くようになっていった。 そして遂に決定的な決断が下される。 フジテレビでは『オレたちひょうきん族』が開始され、その勢いが注目され始めた頃だった。 いかりやが「俺はもう疲れた」「まかせるから、そっちで何とかやってくれないか」と告げたのだという。 それを受け居作は、毎週木曜日に行われていた会議からいかりやを休ませることにしたのだ。 他のメンバーも異存はなかった。 しかし、仲本工事だけは「絶対モメると思うよ」「長さんって、そういう人だから」と、反対した。 その不安は的中する。 「疲れた」と口にするのはいかりやの口癖のようなものだった。 疲れているのは解っている、けど、頼れるのは貴方だけだ、そう言われてまた奮起する。 それがいかりやにとっては心の拠り所だったのだ。 しかし、この時は、額面通りに受け取られ、「休め」と言われてしまう。 いかりやはそう感じたのだ。 「わかったよ。 みんな、俺がいらないって言うんだな」 以降、ドリフのコントは加藤茶と志村けんが中心となって作られていくようになった。 ちなみにこの時期からフジテレビで放送されていた『ドリフ大爆笑』でも、「いかりや・仲本・高木」と「志村・加藤」それぞれのコントが多くなり5人揃ったコントがほとんどなくなっていった。 やがて『ひょうきん族』の勢いが加速し、遂に1985年『全員集合』が終了。 もちろんザ・ドリフターズはこの後も活動を続けるが、以前のような結束が戻ることはなく、各自のソロ活動、ユニット活動に移行していった。 いかりや長介はその後、子離れするかのごとく、お笑いの世界から離れ、性格俳優として大成していく。 ドリフの窮地を救った志村は、やがてドリフを変え、ドリフに引導を渡すこととなった。 新しい親としていかりやを選び、芸人として育てられた志村は反抗しながらやがて親を越え、親殺しするかのようにドリフを巣立ち自立した。 そして、その親の果たせなかった意思を継ぐように60歳を越えてもバカをやり続け、生涯お笑い一筋の人生を邁進しているのだ。 (初出:「水道橋博士のメルマ旬報」2012年12月25日) (参考文献) ・『だめだこりゃ』(著:いかりや長介) ・『変なおじさん』(著:志村けん) ・『8時だョ!全員集合伝説』(著:居作昌果) ・『笑芸人』(Vol. 1)「特集:土曜8時テレビ戦争」.

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