安藤 満。 ■安藤満プロ 死去: 狂鬼人間の憩いの場

「サラリーマン議員」を最も嫌うのは本物のサラリーマン

安藤 満

プロフィール [ ] 1978年第6期最高位戦B1でデビューし3位。 翌年からAリーグに昇級。 現最高位戦日本プロ麻雀協会副代表、元理事代表で名誉会員。 101競技連盟の前身である順位戦101に参加し、1987年101競技連盟創設と同時にA級デビュー。 A級通算10期。 2003年引退。 順位戦(リーグ戦)での通算成績は、826戦243勝178敗、トップ率29. 42%、ラス率21. 55%(1位1勝、2位3位0勝、4位1敗)、65昇(1位と4位の差)。 5Pをマークして何とか残留圏内ギリギリの10位で踏みとどまった。 なお、に開幕した第36期Aリーグは飯田と共に特別休場となり、第37期より復帰した。 その第37期Aリーグでは奮戦するも、わずか0. 5ポイント差で第4位に留まり最高位決定戦への進出を逃す。 第38期Aリーグでも第4位で終了し、あと一歩のところで決定戦進出の機会を逃した。 その後第41期、第42期で最高位決定戦に進出を果たすが最高位戴冠を逃している。 2019年第44期AリーグにてB1陥落が確定し、Aリーグ在籍記録は38期で途切れた。 のには最初期の1997年放送の第1回MONDO21杯(参加者は・・・・・実況は)から2015年の第9回名人戦まで自身が出場資格のある通期シリーズにおいては全てに登場している唯一の人物だったが、第10回名人戦には未出場のため皆勤記録は途絶えた。 そして、翌年の第11回大会から復帰。 モンドの参加大会数は最多を誇る。 に放送された第12回では、安定した打ち回しで予選・準決勝をトータルトップで通過。 決勝第1戦 東家から森山、伊藤、近藤、金子 では南3局までトップだったものの、オーラスでに満貫を振り込んでしまい2着となる。 決勝第2戦 決勝第1戦と座り順変わらず では、第1戦で逆転トップとなりトータル首位となった近藤が東3局の親番で爆発。 一時6万点台まで点数を稼ぎ、近藤の大トップで南場に入る。 南2局まで近藤と金子の差はおよそ6万点。 誰もが近藤の3連覇で幕を閉じると思われた。 しかし、南3局で3000・6000をツモり近藤に親被りをさせると、オーラスの親番で6000オールをツモ、さらに1本場で近藤から親満を直撃しトータルポイントで近藤を逆転。 最後は全員ノーテンで名人戦では悲願の初優勝となった。 さらに、モンド名人戦優勝者として出場した第14回モンド王座決定戦でも、近藤誠一(前モンド王座)、(女流モンド杯優勝)、(モンド杯優勝)を下して優勝。 なお、余談ではあるが、対局前のインタビューにおいて、白鳥は自身の息子と、池沢は自身の娘と、奇しくもそれぞれ同い年であることを話していた。 前年モンド王座優勝者として出場した第15回モンド王座では、(女流モンド杯優勝者)、(モンド杯優勝者)、(名人戦優勝者)を相手に、序盤劣勢に立たされるも、最終戦で見事捲り優勝。 史上3人目となる連覇を達成した。 、にそれぞれある雀荘「K. O」を経営している。 雀風 [ ] 自らの手牌に固執せず、捨て牌から相手の手牌を読むことで山に残る牌、すなわち以降の自摸牌を予測し手牌をそれに合わせ、自身の運気・の感触、「流れ」から手牌の進行を判断する「 牌流定石」(ぱいりゅうじょうせき) というスタイルを持ち、金子の代名詞となっている。 従って強引に手役を作ることはあまりせず、やなどに決め打つことはほとんどない。 近年では、「流れは意識せずに、目の前にある局面に対しての最善手を探すようにしている」と語っている。 エピソード [ ]• 好きな牌は。 麻雀の神様であると位置づけ、第一打では絶対に切らない。 長考で有名であり、過去にテレビ対局でありながら2分以上全く動かずに考え込む姿が映し出された。 実況のには、「静止画像となっております」などとコメントされた事もある(実際には「 金子正輝、また静止画像だ! 」と叫ばれてしまった)。 あまりにも考慮に没頭してしまい、過去にはの灰を卓上に落としてしまうこともあった。 ただしこの長考は金子の特徴でもあり、歌手のには以前「金子さんはああでなくっちゃね」と評されたこともある。 ライバルで同じ最高位戦の飯田・新津がポーカーフェイスなのに対し、金子はを前面に出して戦うことが多い。 牌が被ったときや危険牌を切り出すときは牌を叩き付けたり、場合によっては放り投げるようにして捨てることもある。 また、をめくるときにも感情をむき出しにすることがある。 特に第6回モンド名人戦2回戦の東3局では、プレイヤー解説のから「顔がリーチをかけている」と評された。 麻雀を打っていて至福の時を味わうのは長い麻雀人生において安藤満と青野滋のたったの二人であるという。 安藤が他界するときは連日病院にお見舞いで訪れた。 その他、飯田正人、、土田浩翔は「宿敵」「良きライバル」と語っている。 麻雀以外には将棋も嗜み、アマ五段の腕前。 とはネット将棋をたまに指すそうである。 CSチャンネル「」のお好み将棋道場で、九段と対局した際はが応援に駆け付けた。 にはその性格、雀風から「 典型的なB型雀士」と評されている。 またのからは「ホントに役を狙わない人だね」「 牌を切るのが ナチュラルに遅い」と対局のテレビ解説において辛口でこき下ろされることがしばしば。 ただ、忍田幸夫、村田光陽、涼崎いづみなど金子を慕いプロ入りした人間も多く、五十嵐などは「もし金子門下があるとするなら、自分はその中の人間だろう」とで語っていた。 また同番組では「昔の金子さんはもっと強かった」とも語っていた。 によると歌手のはMONDOの麻雀番組をよく見るそうで、佐々木の前で「細かすぎて伝わらないモノマネ・麻雀プロ編」として「リーチ一発目をツモる時の金子正輝」を披露したという。 定期的に勉強会「ねこけん」を主宰。 後輩プロの育成に努めており、、などが参加している。 趣味は旅行と。 韓国には月に一度は旅をしているという。 主なタイトル [ ]• (第9期・11期・12期・24期)• 八翔位(第10期)• 名翔位(第10期)• 名人位(第21 - 23期)• 麻雀王座(第26期・29期)• 無双位(第13期)• 最高位戦トーナメント(第1期)• ・ 総合優勝• 杯争奪 スリアロトーナメント2015後期• 第12回• モンド王座決定戦 2期(第14・15回) 著書 [ ]• 最強プロが教える 常勝の麻雀 (1991年8月 )• 最強プロが教える麻雀 必勝のテクニック (2004年6月 日本文芸社 )• 金子正輝の麻雀 会心の一打 (2005年2月 ) 出演 [ ]• シリーズ() 脚注 [ ].

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安藤隆春・警察庁長官突如「退任」で大喜びした芸能関係者(週刊現代)

安藤 満

【亜空間殺法(あくうかんさっぽう)】 『その他用語』 亜空間殺法とは 安藤満(あんどうみつる)氏が提唱した麻雀の戦法です。 安藤満氏は日本プロ麻雀連盟に所属していた元プロ雀士です。 亜空間殺法は、 鳴き( チー、 ポン、 カン)を活用して ツモ順を変化させたり、流れを変える戦法だと言われています。 亜空間殺法(あくうかんさっぽう) とは 亜空間殺法とは安藤満氏の代名詞とも言われる麻雀の戦略です。 積極的に 鳴き( ポン、 チー、 カン)を活用して ツモ順を変化させ相手の調子を狂わせたり、悪い流れを変えるという戦法です。 当時、軽視されがちだった 鳴きを駆使し、 ツモの流れを操る異色のアナログ戦法と注目されました。 亜空間殺法が有名になった為、安藤満プロは 鳴きを多用するイメージが先行されていたようですが、本来はじっくり 門前で進めるタイプでした。 あくまでも亜空間殺法は、流れが悪い時などに活用する戦法だったようです。 安藤満(あんどうみつる)氏 について 安藤満氏は1949年3月10日に千葉県で生まれ、国内屈指の実力派プロ雀士として 名を馳せました。 日本プロ麻雀連盟に所属し九段の段位を保持、「むこうぶち」など麻雀漫画の原案も手がけ、麻雀を広める活動を努められました。 プロとしての主なタイトルは十段位(第6期)・鳳凰位(第2・5・6・10期)・名人位(第19・28期)・王位(第16期)・天王位(第2期)で、テレビ対局なども含め数多くのタイトルを獲得しました。 安藤満氏は後進の指導に力を入れていて、現在はRMU所属の阿部孝則プロや日本プロ麻雀連盟所属の藤原隆弘プロ、同団体の二階堂姉妹などの師としても知られています。 初タイトルとなる名人位を獲得後の1989年3月に癌と診断され、その後は闘病をしながらプロ活動をし、安藤満氏にとって最後の公式戦となる2003年の天王戦で見事優勝、栄冠を掴みました。 そして2004年3月27日、55歳にして食道癌の為お亡くなりになられました。 麻雀の普及活動に努めた安藤満プロは、実力も知名度も兼ね揃えた麻雀界を代表する雀士なのです。

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CiNii Articles

安藤 満

安藤満プロ Mahjan talk 雀話。 (121)安藤満プロ 安藤満プロの死去は非常に残念であった。 人気コミック「 むこうぶち」は安藤プロ原案の作品。 ところが2月半ばに発売された号には、「 原案・安藤満」の文字が載っていなかった。 「 あれっ?」とは思っていたが.... 安藤プロの実績や活動については、すでにあちこちで紹介されている。 また次号のプロ麻雀や近代麻雀にも詳しく載ると思う。 最後にお会いしたのは、京都の伏見にある阿佐田哲也碑前で行われた阿佐田哲也10年祭。 いまから7年前(平成9年 1998 の4月のこと。 向かって一番右が故・ 安藤プロ。 その左が名古屋の古川孝次氏、その左が三宅浩一氏。 式典後のパーティでプロ麻雀界のことや安藤氏自身の闘病のことなどについて雑談した。 プロ麻雀界のことはさておき、 絶対安静と云われていたが病院から抜け出し、名人戦に参加。 見事優勝 したときの話などには驚いた。 実はこのエピソー、雑誌などで知ってはいた。 しかし本人から詳しく聞くと、ホントに生死の境目状態だったことがよく分かり、あらためて驚いた次第。 逆に最初にお会いしたのは、いまから20数年ほど前。 高田馬場で行われたプロ麻雀誌の設立記念パーティでのこと (さすがに、そのときの写真はない)。 パーティはソシアルビルの3Fのクラブのような店を借り切って行われた。 当時、安藤プロは30歳くらいで、売り出し中の若手プロ。 プロ麻雀誌に 少林拳打法というタイトルで戦術論を連載していた。 少林拳打法は、さまざまな打ち方を 炮蹴とか 突手とか少林拳の技で解説したもの。 ネーミングを目新しく感じていたので、「 むかし少林寺拳法をやっていたので」という話を聞いて、「 なるほろ」と思ったことを覚えている。 麻雀のフィールドが異なるので深いつきあいが無いままの別れとなってしまったが、麻雀に対する情熱は人一倍のプレーヤーだった。 いまはただ、ご冥福を祈る。 上記のコラムについて、或る方からメールをいただいた。 それによると、プロ麻雀誌が新評社から独立し、銀星出版社として最初に事務所を構えたのは 四谷だったとのこと。 そこで設立記念パーテーも四谷で行われた。 もう一つ。 安藤プロが連載していた戦術論のタイトルは、「 少林拳打法」ではなく、「 拳法雀技」とのこと。 実はこっちもうろ覚えのまま書いてしまった。 こちらも謹んで訂正させていただきます。

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