ローマ 教皇。 ローマ教皇はどうやって選ばれる?コンクラーベとは凄い根競べの投票

ローマ教皇が「ゾンビの国・日本」に送った言葉 世界一他人に冷たい国に伝えたい事

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【関連記事】 ・ ・ ・ 愛する兄弟姉妹の皆さん。 この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、悲しみと恐れとともに意識させてくれます。 近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、被爆なさった方とそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、あらためて思い起こさせてくれます。 人の心にある最も深い望みの一つは、平和と安定への望みです。 核兵器や大量破壊兵器を所有することは、この望みへの最良の答えではありません。 それどころか、この望みをたえず試みにさらすことになるのです。 わたしたちの世界は、手に負えない分裂の中にあります。 それは、恐怖と相互不信を土台とした偽りの確かさの上に平和と安全を築き、確かなものにしようという解決策です。 人と人の関係をむしばみ、相互の対話を阻んでしまうものです。 国際的な平和と安定は、相互破壊への不安や、壊滅の脅威を土台とした、どんな企てとも相いれないものです。 むしろ、現在と未来のすべての人類家族が共有する相互尊重と奉仕への協力と連帯という、世界的な倫理によってのみ実現可能となります。 そして、軍備拡張競争に反対する声は、小さくともつねに上がっています。 軍備拡張競争は、貴重な資源の無駄遣いです。 本来それは、人々の全人的発展と自然環境の保全に使われるべきものです。 今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。 しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。 これは途方もないテロ行為です。 核兵器から解放された平和な世界。 それは、あらゆる場所で、数え切れないほどの人が熱望していることです。 この理想を実現するには、すべての人の参加が必要です。 個々人、宗教団体、市民社会、核兵器保有国も、非保有国も、軍隊も民間も、国際機関もそうです。 核兵器の脅威に対しては、一致団結して応じなくてはなりません。 それは、現今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す、困難ながらも堅固な構造を土台とした、相互の信頼に基づくものです。 1963年に聖ヨハネ23世教皇は、回勅『地上の平和(パーチェム・イン・テリス)』で核兵器の禁止を世界に訴えていますが(112番[邦訳60番]参照)、そこではこう断言してもいます。 「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」(113番[邦訳61番]) 今、拡大しつつある、相互不信の流れを壊さなくてはなりません。 相互不信によって、兵器使用を制限する国際的な枠組みが崩壊する危険があるのです。 わたしたちは、多国間主義の衰退を目の当たりにしています。 それは、兵器の技術革新にあってさらに危険なことです。 この指摘は、相互の結びつきを特徴とする現今の情勢から見ると的を射ていないように見えるかもしれませんが、あらゆる国の指導者が緊急に注意を払うだけでなく、力を注ぎ込むべき点なのです。 カトリック教会としては、人々と国家間の平和の実現に向けて不退転の決意を固めています。 それは、神に対し、そしてこの地上のあらゆる人に対する責務なのです。 核兵器禁止条約を含め、核軍縮と核不拡散に関する主要な国際的な法的原則にのっとり、飽くことなく、迅速に行動し、訴えていくことでしょう。 昨年の7月、日本司教協議会は、核兵器廃絶の呼びかけを行いました。 また、日本の教会では毎年8月に、平和に向けた10日間の平和旬間を行っています。 どうか、祈り、一致の促進の飽くなき探求、対話への粘り強い招きが、わたしたちが信を置く「武器」でありますように。 また、平和を真に保証する、正義と連帯のある世界を築く取り組みを鼓舞するものとなりますように。 核兵器は、今日の国際的また国家の、安全保障への脅威からわたしたちを守ってくれるものではない、そう心に刻んでください。 人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えなくてはなりません。 核の理論によって促される、恐れ、不信、敵意の増幅を止めなければなりません。 今の地球の状態から見ると、その資源がどのように使われるのかを真剣に考察することが必要です。 複雑で困難な持続可能な開発のための2030アジェンダの達成、すなわち人類の全人的発展という目的を達成するためにも、真剣に考察しなくてはなりません。 こういったことすべてのために、信頼関係と相互の発展とを確かなものとするための構造を作り上げ、状況に対応できる指導者たちの協力を得ることが、きわめて重要です。 責務には、わたしたち皆がかかわっていますし、全員が必要とされています。 今日、わたしたちが心を痛めている何百万という人の苦しみに、無関心でいてよい人はいません。 傷の痛みに叫ぶ兄弟の声に耳を塞いでよい人はどこにもいません。 対話することのできない文化による破滅を前に目を閉ざしてよい人はどこにもいません。 心を改めることができるよう、また、いのちの文化、ゆるしの文化、兄弟愛の文化が勝利を収めるよう、毎日心を一つにして祈ってくださるようお願いします。 共通の目的地を目指すなかで、相互の違いを認め保証する兄弟愛です。 ここにおられる皆さんの中には、カトリック信者でない方もおられることでしょう。 でも、アッシジの聖フランシスコに由来する平和を求める祈りは、私たち全員の祈りとなると確信しています。 主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。 憎しみがあるところに愛を、 いさかいがあるところにゆるしを、 疑いのあるところに信仰を、 絶望があるところに希望を、 闇に光を、 悲しみあるところに喜びをもたらすものとしてください。 記憶にとどめるこの場所、それはわたしたちをハッとさせ、無関心でいることを許さないだけでなく、神にもと信頼を寄せるよう促してくれます。 また、わたしたちが真の平和の道具となって働くよう勧めてくれています。 過去と同じ過ちを犯さないためにも勧めているのです。 皆さんとご家族、そして、全国民が、繁栄と社会の和の恵みを享受できますようお祈りいたします。

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ローマ教皇が「ゾンビの国・日本」に送った言葉 世界一他人に冷たい国に伝えたい事

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この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2014年3月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2014年3月) シクストゥス5世 第227代 ローマ教皇 教皇就任 教皇離任 先代 次代 個人情報 本名 フェリーチェ・ペレッティ Felice Peretti 出生 、 死去 1590-08-27 (68歳没) 、 シクストゥス5世( Sixtus V、 - )は、後半の(在位: - 1590年)。 本名は フェリーチェ・ペレッティ( Felice Peretti)。 の治安回復、の財政立て直しに辣腕をふるい、公共事業に惜しみなく投資して都市を現代に近い形に整備した。 批判も多いが、残した業績の大きさでは歴代教皇随一である。 生涯 [ ] 教皇就任まで [ ] (現)出身のペレッティは貧しい一家の出身であった。 父は庭師であり、彼自身も豚の世話をして生計をたてていた。 ただ、当時の人々の生活レベルを考えれば、このことは現代のわれわれが考えるほど驚くべきことではない。 やがてのの修道院に入り、すぐに説教師・弁証家として頭角を現した。 ごろ、フランシスコ会の保護者でもあったロドルフォ・ピオ・ダ・カルピ枢機卿( - )やギスリエリ枢機卿(後の)、カラファ枢機卿(後の)の目にとまったことで、その後の栄進が保障されることになった。 の教皇巡察師に抜擢されたが、あまりに職務に忠実で高圧的であったためトラブルが頻発し、にヴェネツィア政府に解任を要求される。 フランシスコ会の総代理を務めた後、にボンコンパーニョ枢機卿(後の)に率いられたスペインへの使節団のメンバーに選ばれた。 使節団はのカランツァ大司教にかけられた異端嫌疑の調査に向かったのである。 ピウス5世が教皇になるとローマに呼び返されてフランシスコ会の教皇総代理に選ばれ、にグレゴリウス13世のもとで枢機卿にあげられてモンタルト枢機卿と呼ばれるようになる。 そこで彼は教皇庁の職務の第一線を退いてエスクイリーノの丘にによって建てられた、帝のを見下ろす邸宅の整備に専念するようになった。 やがてペレッティ自身が教皇に選ばれると、建築事業にもさらに力が入り、既存の住宅を撤去して、4つの新街路を設置した。 敷地内には2つの大きな邸宅、「ディ・テルミニ」とも呼ばれたシスティノ宮殿とパラッツェット・モンタルト・エ・フェリチェとよばれた邸宅があった。 この工事のために転居を余儀なくされた住民は憤懣やるかたなかった。 に教皇のために鉄道がひかれ、駅(の前身)が設置されることが決まったことで、これらの施設も取り壊されることになった。 教皇としての活躍 [ ] シクストゥス5世は枢機卿時代から学問への関心が強く、の著作の校訂版を完成させている。 彼は学問の世界においてありがちな他者への批判や攻撃を嫌い、常に穏健な態度を保っていたことが、教皇選挙で彼が選ばれる1つの理由となった。 選挙において、シクストゥス5世が自分の老いを盛んに演技して票を勝ち取ったというのは後世の作り話である。 むしろ選挙においては、彼の若々しさが評価されている。 教皇が若いということはそのまま在位が長くなるということを意味するのである(ちなみに教皇の即位式には、ローマ滞在中であったのメンバーたちも招かれて参加している)。 グレゴリウス13世の時代、教皇領の状態は最悪のものとなっていたため、シクストゥス5世はさっそくこの状態の解消を求められた。 無法状態となっていた教皇領の治安を立て直すべく、教皇は治安を乱す者に対して厳しい態度を示した。 それしか状況を改善することができなかったともいえよう。 多くの盗賊や山賊が捕らえられ、法の裁きを受けた。 ほどなく教皇領に治安と平和が戻った。 政策と業績 [ ] 次にシクストゥス5世は極度に悪化していた財政の建て直しを図り、一般職務の販売、貸付制度の創設、新税の導入を進めた結果、教皇庁の財政は一気に持ち直し、黒字へと転化した。 こうした資金集めの方法の強引さに対しては批判が集まったものの、教皇は国庫に貯まった資金を緊急時の軍資金すなわち、十字軍や教皇領の防衛のための資金として確するよう努めた。 また蓄積した資金を公共建築のためにも惜しみなく投資したため、5年という期間に比して手掛けられた事業の数は異例な数を記録した。 たとえばにはドーム屋根が乗せられ、にはシクストゥスのが、にはプレセペのチャペルが建てられ、クイリナーレ、ラテランおよびバチカンの教皇宮殿が改修され、サン・ピエトロ大聖堂広場などに四本のが建てられ、六本の新街路が建設され、6世紀頃に破壊されていたを復旧し(の建設)、多数の道路と橋が補修され、農業と工業が推奨された。 失業者対策として、放置されていたコロッセオを紡織工場と従業員の住居の複合体として転用する計画も立案したが、これは事業が実現する前に教皇自身が死去し、後継の教皇が事業を引き継がなかったため実現には至らなかった。 しかし、このように高い関心を示した建築の分野でもシクストゥス5世が今日批判をまぬがれえない点がある。 それは古代の建築物の取り扱いの杜撰さであり、たとえばとアントニウスの柱は聖像と聖像の台にされ、カピトリーノの丘のミネルバ宮殿はキリスト教の都たるローマのシンボルに改造されてしまった。 シクストゥス5世の業績で忘れてはならないのは教会制度の整備である。 彼の時代に枢機卿の定員は70人と定められ、修道会の数は倍増し、それぞれに職務や使命が振り分けられた。 しかし一方で、依然としてに対する姿勢は冷淡なものに留まった。 また、初めてバチカンに印刷局を設置し、その最初の事業として訳聖書の校訂をおこなわせた。 この事業はグレゴリウス暦の切り替えの研究でも委員長をつとめたシルレト枢機卿を中心とした委員会によっておこなわれたが、せっかちだったシクストゥス5世は委員会のやり方に我慢できず、自ら聖書本文を改訂して、聖書の改訂版を発行、今後この版を用いるようにという勅書を出した。 この版は「シクストゥス版」とよばれ、綿密な検討がおこなわれず急いで作られたものであったため評判が悪く、教皇没後に勅書の内容の取り消しと改訂作業のやり直しが決定された。 改訂事業の中心となったイエズス会員は教皇の名誉に傷をつけないため、に完成した改訂版ヴルガータ聖書の名前に二人の教皇の名前を冠するかたちで『シクストゥス・クレメンティーノ版』と名づけた。 政治家としての教皇 [ ] シクストゥス5世は政治家としては壮大すぎる計画の持ち主であった。 たとえばの壊滅やエジプトの征服、イタリアへのイエスの墓の移転、彼の甥のフランス王即位などを夢みていたようだが、現実は厳しいものであった。 特にスペイン王の動向が気に入らず、その勢力拡大を好まなかった。 彼が王アンリ(後の)を破門してフランスのカトリック連盟とスペインのの後押しをしていたときも、同盟者であるはずのフェリペ2世との争いが絶えなかった。 そのためアンリがカトリックに改宗すると彼に期待をかけた。 しかし、アンリとの交渉でも教皇は期待した成果が得られず、逆に教皇の誓いをもとめられたため、これを保留している。 シクストゥス5世は同時代人から厳しい批判を浴びていたが、歴史家達は彼を偉大な教皇の1人に数えている。 確かに彼は思いつきで行動し、頑固で、専制的な人物であったが、みずからの目標に対して全力で取り組んでおり、手をつけた事業のほとんどを完成している。 歴史の中で彼ほどの有形無形の業績を残している教皇はいない。 脚注 [ ] [].

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ボニファティウス8世 (ローマ教皇)

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現在のローマ教皇は誰?Wiki情報では! 現在のローマ教皇は フランシスコという名前の方です。 本名は ホルヘ・マリオ・ベルゴリオで2013年から第266代ローマ教皇(在位は2013年3月13日)になりました。 フランシスコさんのWikiの情報を載せておきます。 本名 ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ Jorge Mario Bergoglio 出生 1936年12月17日(83歳) アルゼンチン、ブエノスアイレス 原国籍 アルゼンチン 宗派 カトリック(イエズス会) 居住地 バチカン 母校 ブエノスアイレス大学 引用: 歴代のローマ教皇一覧 過去のローマ教皇の一覧です。 歴代教皇 教皇名 在位期間(かっこ内は正式に教皇職を開始した日) 1 聖ペトロ ~64年か67年 2 聖リノ 68年~79年 3 聖アナクレト 80年~92年 4 聖クレメンス一世 92年~99年か、68年~76年 5 聖エヴァリスト 99年か96年~108年 6 聖アレクサンドロ一世 108年か109年~116年か119年 7 聖シスト一世 117年か119年~126年か 128年 8 聖テレスフォロ 127年か128年~137年か138年 9 聖ヒジノ 138年~142年か149年 10 聖ピオ一世 142年か146年~157年か161年 11 聖アニチェト 150年か157年~153年か168年 12 聖ソテル 162年か168年~170年か177年 13 聖エレウテリオ 171年か177年~185年か193年 14 聖ヴィクトル一世 186年か189年~197年か201年 15 聖ゼフィリノ 198年~217年か218年 16 聖カリスト一世 218年~222年 聖ヒッポリト 217年~235年 17 聖ウルバノ一世 222年~230年 18 聖ポンツィアノ 230年7月21日~235年9月28日 19 聖アンテロ 235年11月21日~236年1月3日 20 聖ファビアノ 236年~250年1月20日 21 聖コルネリオ 251年3月6日か13日~253年6月 ノヴァツィアノ 251年 22 聖ルチオ一世 253年6月か7月~254年3月5日 23 聖ステファノ一世 254年3月12日~257年8月2日 24 聖シスト二世 257年8月30日~258年8月6日 25 聖ディオニジオ 259年7月22日~268年12月26日 26 聖フェリクス一世 269年1月5日~274年12月30日 27 聖エウティキアノ 275年1月4日~283年12月7日 28 聖カイオ 283年12月17日~296年4月22日 29 聖マルチェリノ 296年6月30日~304年10月25日 30 聖マルチェロ一世 306年~309年1月16日 31 聖エウゼビオ 309年4月18日~309年8月17日 32 聖ミルツィアデス 311年7月2日~314年1月10日 33 聖シルヴェストロ一世 314年1月31日~335年12月31日 34 聖マルコ 336年1月18日~336年10月7日 35 聖ユリオ一世 337年2月6日~352年4月12日 36 リベリオ 352年5月17日~366年9月24日 フェリクス二世 355年~365年11月22日 37 聖ダマソ一世 366年10月1日~384年12月11日 ウルシノ 366年9月24日~367年 38 聖シリチオ 384年12月15日か22日または29日~399年11月26日 39 聖アナスタジオ一世 399年11月27日~401年12月19日 40 聖インノチェンツィオ一世 401年12月22日~417年3月12日 41 聖ゾジモ 417年3月18日~418年12月26日 42 聖ボニファツィオ一世 418年12月28日 29日 ~422年9月4日 エウラリオ 418年12月27日 29日 ~419年4月3日 43 聖チェレスティノ一世 422年9月10日~432年7月27日 44 聖シスト三世 432年7月31日~440年8月19日 45 聖レオ一世 440年9月29日~461年11月10日 46 聖ヒラリオ 461年11月19日~468年2月29日 47 聖シンプリチオ 468年3月3日~483年3月10日 48 聖フェリクス三世(二世) 483年3月13日~492年2月25日か3月1日 49 聖ジュラジオ一世 492年3月1日~496年11月21日 50 アナスタジオニ世 496年11月24日~498年11月19日 51 聖シンマコ 498年11月22日~514年7月19日 ラウレンツィオ 498年11月22日~499年か502年または506年 52 聖ホルミスダス 514年7月20日~523年年8月6日 53 聖ヨハネ一世 523年8月13日~526年5月18日 54 聖フェリクス四世(三世) 526年7月12日~530年9月20日か22日 55 ボニファツィオ二世 530年9月20日か22日~532年10月17日 ディオスクロ 530年9月20日か22日~530年10月14日 56 ヨハネ二世 532年12月31日 533年1月2日)~535年5月8日 57 聖アガペト一世 535年5月13日~536年4月22日 58 聖シルヴェリオ 536年6月8日~537年 59 ヴィジリオ 537年3月29日~555年6月7日 60 ペラジオ一世 556年4月16日~561年3月4日 61 ヨハネ三世 561年7月17日~574年7月13日 62 ベネディクト一世 575年6月2日~579年7月30日 63 ペラジオニ世 579年11月26日~590年2月7日 64 聖グレコリオ一世 590年9月3日~604年3月12日 65 サビニアノ 604年3月 9月13日 ~606年2月22日 66 ボニファツィオ三世 607年2月19日~607年11月10日 67 聖ボニファツィオ四世 608年8月25日~615年5月8日 68 聖デウスデディト (別名聖アデオダト一世) 615年10月19日~618年11月8日 69 ボニファツィオ五世 619年12月23日~625年10月23日 70 ホノリオ一世 625年10月27日~638年10月12日 71 セヴェリノ 638年10月 640年5月28日 ~640年8月2日 72 ヨハネ四世 640年8月 12月24日 ~642年10月12日 73 テオドロ一世 642年10月12日 11月24日 ~649年5月14日 74 聖マルティノ一世 649年7月5日~655年9月16日 75 聖エウジェニオ一世 654年8月10日~657年6月2日 76 聖ヴィタリアノ 657年7月30日~672年1月27日 77 アデオダト二世 672年4月11日~676年6月16日 78 ドノ 676年11月2日~678年4月11日 79 聖アガト 678年6月27日~681年1月10日 80 聖レオ二世 681年1月 682年8月17日 ~683年7月3日 81 聖ベネディクト二世 684年6月26日~685年5月8日 82 ヨハネ五世 685年7月23日~686年8月2日 83 コノン 686年10月23日~687年9月21日 テオドロ 687年 パスカリス 687年 84 聖セルジオ一世 687年12月15日~701年9月7日 85 ヨハネ六世 701年10月30日~705年1月11日 86 ヨハネ七世 705年3月1日~707年10月18日 87 シジンニオ 708年1月15日~708年2月4日 88 コンスタンティノ一世 708年3月25日~715年4月9日 89 聖グレコリオ二世 715年5月19日~731年2月11日 90 聖グレゴリオ三世 731年3月18日~741年11月28日 91 聖ザカリア 741年12月3日~752年3月15日 92 ステファノ二世(三世) 752年3月26日~757年4月26日 93 聖パウロ一世 757年4月 5月29日 ~767年6月28日 コンスタンティノ(二世) 767年6月28日 7月5日 ~768年7月30日 フィリッポ 768年7月31日 94 ステファノ三世(四世) 768年8月1日 7日 ~772年1月24日 95 ハドリアノ一世 772年2月1日 9日 ~795年12月25日 96 聖レオ三世 795年12月26日 27日 ~816年6月12日 97 ステファノ四世(五世) 816年6月22日~817年1月24日 98 聖パスカリス一世 817年1月25日~824年2月-5月 99 エウジェニオ二世 824年2月-5月~827年8月 100 ヴァレンティノ 827年8月~827年9月 101 グレゴリオ四世 827年9月 828年3月29日 ~844年1月25日 ヨハネ 844年1月25日 102 セルジオ二世 844年1月25日~847年1月27日 103 聖レオ四世 847年1月 4月10日 ~855年7月17日 104 ベネディクト三世 855年7月 9月29日 ~858年4月17日 アナスタジオ 855年9月21日~24日 105 聖ニコラオ一世 858年4月24日~867年11月13日 106 ハドリアノ二世 867年12月14日 ~872年11月か12月 107 ヨハネ八世 872年12月14日~882年12月16日 108 マリノ一世 882年12月~884年5月15日 109 聖ハドリアノ三世 884年5月17日~885年8月か9月 110 ステファノ五世(六世) 885年9月~891年9月14日 111 フォルモゾ 891年10月6日~896年4月4日 112 ボニファツィオ六世 896年4月11日~896年4月26日 113 ステファノ六世(七世) 896年5月か6月~897年7月か8月 114 ロマノ 897年7月か8月~897年11月 115 テオドロニ世 897年12月~897年12月か898年1月 116 ヨハネ九世 897年12月か898年1月~900年1月-5月 117 ベネディクト四世 900年1月-5月~903年7月 118 レオ五世 903年7月~903年9月 クリストフォロ 903年9月~904年1月 119 セルジオ三世 904年1月29日~911年4月14日 120 アナスタジオ三世 911年6月か9月~913年6月か8月か10月 121 ランド 913年7月か11月~914年3月 122 ヨハネ十世 914年3月か4月~928年5月か6月 123 レオ六世 928年5月か6月~928年12月か929年1月 124 ステファノ七世(八世) 929年1月~931年2月 125 ヨハネ十一世 931年3月~936年1月 126 レオ七世 936年1月~939年7月13日 127 ステファノ八世(九世) 939年7年14日~942年10月 128 マリノ二世 942年10月30日 11月 ~946年5月 129 アガペト二世 946年5月10日~955年12月 130 ヨハネ十二世 955年12月16日~964年5月14日 131 レオ八世 963年12月4日 6日 ~965年3月 132 ベネディクト五世 964年5月~964年7月4日か965年 133 ヨハネ十三世 965年10月1日~972年9月6日 134 ベネディクト六世 972年12月 973年1月19日 ~974年7月 ボニファツィオ七世 974年6月-7月?984年8月~985年7月20日 135 ベネディクト七世 974年10月~983年7月10日 136 ヨハネ十四世 983年11月か12月~984年8月20日 137 ヨハネ十五世 985年8月~996年3月 138 グレゴリオ五世 996年5月3日~999年2月か3月 ヨハネ十六世 997年2月か3月~998年5月 139 シルヴェストロ二世 999年4月2日~1003年10月12日 140 ヨハネ十七世 1003年5月16日~1003年11月6日 141 ヨハネ十八世 1004年12月25日~1009年6月か7月 142 セルジオ四世 1009年7月31日~1012年5月12日 143 ベネディクト八世 1012年5月18日~1024年4月9日 グレゴリオ 1012年5月~12月 144 ヨハネ十九世 1024年4月19日~1032年 145 ベネディクト九世 1032年8年か9月~1044年9月 146 シルヴェストロ三世 1045年1月13日か20日~1045年3月 147 ベネディクト九世 1045年3月10日~1045年5月1日 148 グレゴリオ六世 1045年5月1日~1046年12月20日 149 クレメンス二世 1046年12月24日~1047年10月9日 150 ベネディクト九世 1047年10月~1048年7月 151 ダマソ二世 1048年7月17日~1048年8月9日 152 聖レオ九世 1049年2月2日、12日~1054年4月19日 153 ヴィクトル二世 1055年4月13日~1057年7月28日 154 ステファノ九世(十世) 1057年8月2日 3日 ~1058年3月29日 ベネディクト十世 1058年4月5日~1059年1月 155 ニコラオニ世 1058年12月 1059年1月24日 ~1061年7月27日 156 アレクサンドロニ世 1061年9月30日 10月1日 ~1073年4月21日 ホノリオニ世 1061年10月28日~1064年5月31日 157 聖グレゴリオ七世 1073年4月22日 6月30日 ~1085年5月25日 クレメンス三世 1080年6月25日 1084年3月24日 ~1100年9月8日 158 福者ヴィクトル三世 1086年5月24日 1087年5月9日 ~1087年9月16日 159 福者ウルバノ二世 1088年3月12日~1099年7月29日 160 パスカリス二世 1099年8月13日 14日 ~1118年1月21日 テオドリコ 1100年 アルベルト 1101年 シルヴェストロ四世 1105年11月18日~1111年4月12日か13日 161 ジェラジオ二世 1118年1月24日 3月10日 ~1119年1月28日 グレゴリオ八世 1118年3月10日~1121年4月22日 162 カリスト二世 1119年2月2日 9日 ~1124年12月13日か14日 163 ホノリオ二世 1124年12月15日 21日 ~1130年2月13日か14日 チェレスティノ二世 1124年12月 164 インノチェンツィオニ世 1130年2月14日 23日 ~1143年9月24日 アナクレト二世 1130年2月14日 23日 ~1138年1月25日 ヴィクトル四世 1138年3月~1138年5月29日 165 チェレスティノ二世 1143年9月26日 10月3日 ~1144年3月8日 166 ルチオニ世 1144年3月12日~1145年2月15日 167 福者エウジェニオ三世 1145年2月15日 18日 ~1153年7月8日 168 アナスタジオ四世 1153年7月12日~1154年12月3日 169 ハドリアノ四世 1154年12月4日 5日 ~1159年9月1日 170 アレクサンドロ三世 1159年9月7日 20日 ~1181年8月30日 ヴィクトル四世 1159年9月7日 10月4日 ~1164年4月20日 パスカリス三世 1164年4月22日 26日 ~1168年9月20日 カリスト三世 1168年9月~1178年8月29日 インノチェンツィオ三世 1179年9月29日~1180年1月 171 ルチオ三世 1181年9月1日 6日 ~1185年11月25日 172 ウルバノ三世 1185年11月25日 12月1日 ~1187年10月20日 173 グレゴリオ八世 1187年10月21日 25日 ~1187年12月17日 174 クレメンス三世 1187年12月19日 20日 ~1191年3月 175 チェレスティノ三世 1191年4月10日 14日 ~1198年1月8日 176 インノチェンツィオ三世 1198年1月8日 2月22日 ~1216年7月16日 177 ホノリオ三世 1216年7月18日 24日 ~1227年3月18日 178 グレゴリオ九世 1227年3月19日 21日 ~1241年8月22日 179 チェレスティノ四世 1241年10月25日 28日 ~1241年11月10日 180 インノチェンツィオ四世 1243年6月25日 28日 ~1254年12月7日 181 アレクサンドロ四世 1254年12月12日 20日 ~1261年5月25日 182 ウルバノ四世 1261年8月29日 9月4日 ~1264年10月2日 183 クレメンス四世 1265年2月5日 22日 ~1268年11月29日 184 福者グレゴリオ十世 1271月9月1日 1272月3月27日 ~1276年1月10日 185 福者インノチェンツィオ五世 1276年1月21日 2月22日 ~1276年6月22日 186 ハドリアノ五世 1276年7月11日~1276年8月18日 187 ヨハネ二十一世 1276年9月16日 20日 ~1277年5月20日 188 ニコラオ三世 1277年11月25日 12月26日 ~1280年8月22日 189 マルティノ四世 1281年2月22日 3月23日 ~1285年3月29日 190 ホノリオ四世 1285年4月2日 5月20日 ~1287年4月3日 191 ニコラオ四世 1288年2月22日~1292年4月4日 192 聖チェレスティノ五世 1294年7月5日 8月29日 ~1294年12月13日 193 ボニファツィオ八世 1294年12月24日 1295年1月23日 ~1303年10月11日 194 福者ベネディクト十一世 1303年10月22日 27日 ~1304年7月7日 195 クレメンス五世 1305年6月5日 11月14日 ~1314年4月20日 196 ヨハネ二十二世 1316年8月7日 9月5日 ~1334年12月4日 ニコラオ五世 1328年5月12日 22日 ~1330年8月25日 197 ベネディクト十二世 1334年12月20日 1335年1月8日 ~1342年4月25日 198 クレメンス六世 1342年5月7日 19日 ~1352年12月6日 199 インノチェンツィオ六世 1352年12月18日 30日 ~1362年9月12日 200 福者ウルバノ五世 1362年9月28日 11月6日 ~1370年12月19日 201 グレゴリオ十一世 1370年12月30日 1371年1月3日 ~1378年3月26日 202 ウルバノ六世 1378年4月8日 18日 ~1389年10月15日 203 ボニファツィオ九世 1389年11月2日 9日 ~1404年10月1日 204 インノチェンツィオ七世 1404年10月17日 11月11日 ~1406年11月6日 205 グレゴリオ十二世 1406年11月30日 12月19日 ~1415年7月4日 クレメンス七世 1378年9月20日 10月31日 ~1394年9月16日 ベネディクト十三世 1394年9月28日 10月11日 ~1422年11月29日か1423年5月23日 アレクサンドロ五世 1409年6月26日 7月7日 ~1410年5月3日 ヨハネ二十三世 1410年5月17日 25日 ~1415年5月29日 206 マルティノ五世 1417年11月11日 21日 ~1431年2月20日 207 エウジェニオ四世 1431年3月3日 11日 ~1447年2月23日 フェリクス五世 1439年11月5日 1440年7月24日 ~1449年 4月7日 208 ニコラオ五世 1447年3月6日 19日 ~1455年3月24日 209 カリスト三世 1455年4月8日 20日 ~1458年8月6日 210 ピオ二世 1458年8月19日 9月3日 ~1464年8月14日 211 パウロ二世 1464年8月30日 9月16日 ~1471年7月26日 212 シクスト四世 1471年8月1日 9日、25日 ~1484年8月12日 213 インノチェンツィオ八世 1484年8月29日 9月12日 ~1492年7月25日 214 アレクサンドロ六世 1492年8月11日 26日 ~1503年8月18日 215 ピオ三世 1503年9月22日 10月1日、8日 ~1503年10月18日 216 ユリオニ世 1503年11月1日 26日 ~1513年2月21日 217 レオ十世 1513年3月11日 19日 ~1521年12月1日 218 ハドリアノ六世 1522年1月9日 8月31日 ~1523年9月14日 219 クレメンス七世 1523年11月19日 26日 ~1534年9月25日 220 パウロ三世 1534年10月13日 11月3日 ~1549年11月10日 221 ユリオ三世 1550年2月7日 22日 ~1555年3月23日 222 マルチェロニ世 1555年4月9日 10日 ~ 1555年5月1日 223 パウロ四世 1555年5月23日 26日 ~1559年8月18日 224 ピオ四世 1559年12月26日(1560年1月6日)~1565年12月9日 225 聖ピオ五世 1566年1月7日 17日 ~1572年5月1日 226 グレゴリオ十三世 1572年5月13日 25日 ~1585年4月10日 227 シスト五世 1585年4月24日 5月1日 ~1590年8月27日 228 ウルバノ七世 1590年9月15日~1590年9月27日 229 グレゴリオ十四世 1590年12月5日 8日 ~1591年10月16日 230 インノチェンツィオ九世 1591年10月29日 11月3日 ~1591年12月30日 231 クレメンス八世 1592年1月30日 2月9日 ~1605年3月3日 232 レオ十一世 1605年4月1日 10日 ~1605年4月27日 233 パウロ五世 1605年5月16日 29日 ~1621年1月28日 234 グレゴリオ十五世 1621年2月9日 14日 ~1623年7月8日 235 ウルバノ八世 1623年8月6日 9月29日 ~1644年7月29日 236 インノチェンツィオ十世 1644年9月15日 10月4日 ~1655年1月7日 237 アレクサンドロ七世 1655年4月7日 18日 ~1667年5月22日 238 クレメンス九世 1667年6月20日 26日 ~1669年12月9日 239 クレメンス十世 1670年4月29日 5月2日 ~1676年7月22日 240 福者インノチェンツィオ十一世 1676年9月21日(10月4日)~1689年8月12日 241 アレクサンド口八世 1689年10月6日 16日 ~1691年2月1日 242 インノチェンツィオ十二世 1691年7月12日 15日 ~1700年9月27日 243 クレメンス十一世 1700年11月23日、30日 12月8日 ~1721年3月19日 244 インノチェンツィオ十三世 1721年5月8日 18日 ~1724年3月7日 245 ベネディクト十三世 1724年5月29日 6月4日 ~1730年2月21日 246 クレメンス十二世 1730年7月12日 16日 ~1740年2月6日 247 ベネディクト十四世 1740年8月17日 22日 ~1758年5月3日 248 クレメンス十三世 1758年7月6日 16日 ~1769年2月2日 249 クレメンス十四世 1769年5月19日、28日 6月4日 ~1774年9月22日 250 ピオ六世 1775年2月15日 22日 ~1799年8月29日 251 ピオ七世 1800年3月14日 21日 ~1823年8月20日 252 レオ十二世 1823年9月28日 10月5日 ~1829年2月10日 253 ピオ八世 1829年3月31日 4月5日 ~1830年11月30日 254 グレゴリオ十六世 1831年2月2日 6日 ~1846年6月1日 255 福者ピオ九世 1846年6月16日 21日 ~1878年2月7日 256 レオ十三世 1878年2月20日 3月3日 ~1903年7月20日 257 聖ピオ十世 1903年8月4日 9日 ~1914年8月20日 258 ベネディクト十五世 1914年11月3日 6日 ~1922年1月22日 259 ピオ十一世 1922年2月6日 12日 ~1939年2月10日 260 ピオ十二世 1939年3月2日 12日 ~1958年10月9日 261 聖ヨハネ二十三世 1958年10月28日 11月4日 ~1963年6月3日 262 聖パウロ六世 1963年6月21日 30日 ~1978年8月6日 263 ヨハネ・パウロ一世 1978年8月26日 9月3日 ~1978年9月28日 264 1978年10月16日 22日 ~2005年4月2日 265 2005年4月19日(24日)~2013年2月28日 266 2013年3月13日(19日)~ 引用: スポンサーリンク 初代ローマ教皇『聖ペトロ』はイエスキリストの弟子だった? 細かい話をするととても長くなるのでかなり端折りますが、初代ローマ教皇の『聖ペトロ』はイエスキリストの最初の弟子でした。 そのイエスキリストの弟子ペトロがローマ教皇になったのにはこう言った由来があります。 あなたは岩(ペトロ)である。 この岩の上に私の教会をたてよう。 死の力もこれに勝つことはできない。 わたしは天の国の鍵を授ける。 あなたが地上で縛るものは天でも縛られ、あなたが地上で解くものは天でも解かれるだろう。 (マタイによる福音書16:18-19) イエスキリストがペテロを弟子にしてから随分と時が経ち、弟子たちの信仰も熱くなったところでイエスキリストが弟子を試そう「私を誰と言うか」と言った質問をするんです。 そのときにペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました。 イエスキリストが「 この岩の上に私の教会を建てよう」、「あなたに天の国の鍵を預ける」といってペトロを褒め称えます。 これの話の流れからペトロがカトリック教会の初代教皇だとされています。 ちなみに 「ペトロ」という名前は「岩」を意味するあだ名で、ペトロの墓があるところに 『 サン・ピエトロ大聖堂』があります。 ローマ教皇を決めるのためのコンクラーベとは? コンクラーベとはローマ・カトリック教会で教皇を決める選挙ですが、一般的な選挙と違い外部と隔離された部屋で行われます。 前教皇が亡くなった時点で開催され、全世界のカトリック聖職者の中から80歳未満の人がバチカンのシスティーナ礼拝堂に100人近く集まって行われます。 コンクラーベの語源は「鍵のかかった」と言った意味があるそうですが、 日本では『根比べ』と言われて駄洒落になったりしていますよね! でもかなりシビアらしく外部とは連絡もできないし、 高齢の聖職者たちは体調を崩すことも多く、文字通り『根比べ』な選挙のようです。 ローマ教皇 法王 の歴代と現在は誰?初代はイエスの弟子?のまとめ.

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