慰安婦。 <慰安婦支援団体疑惑>日本政府に千載一遇のチャンス到来 逃げる韓国政府を引きずり込め!

元慰安婦問題、構造が変わる可能性 支援団体に強い不満:朝日新聞デジタル

慰安婦

中里チヨさん 1926年新潟生まれ。 元・川崎協同病院(神奈川民医連)看護部長、全日本民医連看護委員。 第二次大戦中に従軍看護婦を経験。 私が従軍看護婦として、中国の海南島に行ったときに見聞きしたことをお話しします。 18歳で従軍看護婦に 私は一九四四年三月二五日に看護学校を卒業し、志願して軍属の従軍看護婦になりました。 一八歳でした。 四月一日からは、従軍前の訓練を受けるため、東京の目黒雅叙園にあった海軍第二病院に召集され、「日本の軍隊として恥ずかしくない看護婦になれ」と指導されました。 私は日赤の看護婦ではなかったので、丸い赤十字の帽子ではなく、三角巾をかぶり白衣を着ていました。 毎日の朝礼では「一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ…」と、とても速いスピードで軍人勅諭を暗唱させられました。 一一月五日朝、まだ夜が明けないうちに、トラック四台に八〇人の看護婦が乗せられ、横須賀港へ行きました。 そこから船に乗り、台湾へ。 高雄海軍病院で働いたあと、中国・海南島の三亜海軍病院で働きました。 ここで慰安婦さんたちと出会ったのです。 夕方になると号令が 病院に勤務していたとき、驚いたことがありました。 それは夕方六時五分前になると「外出員整列五分前!」という号令がかかるのです。 すると二〇人くらいの海軍の軍人が集まってくる。 ニコニコしながら集まってきて交代で外出するのです。 私は不思議に思って、「どこにいくのか」とたずねました。 すると「おもしろいところに行くんだ。 そのうちわかるから」と言ったきり、具体的なことは何も言いませんでした。 あとになって、外出は「慰安婦」と呼ばれる女性がいる小屋へ行くためだと知りました。 号令をかけて整列させたということは、軍が外出時間を保障し、公認していたということです。 日本の軍隊が組織的にそのような形をつくりあげたことを、私は許せません。 1944年12月、前から3列目、右から3人目が中里さん 軍が慰安婦の検診をおこなっていた あるとき、婦長さんから呼ばれて、「いまから慰安婦の検診をおこなうので、軍医の介助をするように」と言われました。 それは婦人科の検診でした。 彼女たちはトラックに乗ってやってきました。 四台に一〇〇人を超す人たちが乗っていました。 私の役割は、彼女たちの腕に注射をして、内診をするためのベッドまで連れて行き、消毒をすることでした。 病気があるかどうかは、一目みればわかります。 淋病だとわかっても、できることは消毒しかありません。 痛がってワンワン泣く彼女たちの声は、いまでも私の耳から離れません。 検診のとき、彼女たちの名札には「兵隊用」「軍属用」「将校用」と書かれていました。 「兵隊用」「軍属用」と書かれた名札をつけていたのは、台湾や韓国の女性たちでした。 「将校用」と書かれた女性は、日本人なのに韓国名で呼ばれていました。 彼女たちは「特殊看護婦」の名で連れてこられ、アパートのようなところに収容されて暮らしていました。 私は検診で出会ったひとりと仲良くなり、彼女の部屋に遊びに行ったこともありました。 当時の私の月給は九〇円、彼女は二五〇円ほどだと言っていました。 一九歳だった私は、「慰安婦」と呼ばれる人たちがいること、軍が彼女たちを管理して検診している事実を知り、とてもショックでした。 三亜というところは、当時、日本の海軍の司令部があったところですから、海軍・陸軍問わず軍隊が集中していた場所で、慰安所も無数にあったようです。 こんなに恥ずかしいことを、日本はしていた。 どういう事情があっても、こんなことは許されませんよ。 終戦後も二年半、海南島にいて、アメリカの捕虜を手当する仕事をしました。 戦後も引き揚げるまですごく苦労して、ようやく日本に帰ってきたのは二三歳のときでした。 戦争する国づくりは許しちゃだめ 私が、このように戦地で見たことを話すようになったのは、民医連に入職してからです。 それまでは絶対に話さなかった。 話すことができませんでした。 いまの安倍政権は、戦争中におこった真実を伝えようとしない。 「慰安婦」はいなかったことにしようとしています。 しかし実際に私は、従軍看護婦として慰安婦さんの検診に携わり、いまお話ししたようなことを何度も目にしたのです。 もし「そんな事実はないんだ」と言う人がいたら、「私は三亜にいたとき、こういうことを何度も目にした。 不審でしょうがなかった」と直接申し上げてもいいという気持ちです。 今年は戦後七〇年。 これまで以上に真剣に政治について考えなければならないと思います。 みなさんには自分の考えをしっかり持ってほしい。 絶対に戦争をする国づくりは許しちゃだめ、妥協してはだめです。 私は妥協して、戦争に反対することもせず、自分から率先して戦地に行ってしまいました。 そのことをとても後悔しています。 当時は「お国のために尽くせ」と教育されていたのです。 民医連のみなさん、共同組織のみなさんは地域でとても大切なことを実践しておられます。 どうか、社会をよくする運動の先頭に立ってください。 私も、自分にできることをやり続けたいと思います。 「戦争の悲劇をふたたびくり返すまい」との思いで従軍看護婦の記録を集めて発行されたこの本には、「江川きく」の名前で中里チヨさんの手記が掲載されています。 そのなかから一部をご紹介します。 …外来勤務に代わって初めての日だった。 その日は、テントで特別の受け付けがつくられ、産婦人科の軍医が出張して来た。 やがて、四台のトラックに満載された百人をこす女たちが運ばれてきた。 日本中が地味な色のモンペ姿に統一されているというのに、この人たちは、色とりどりの着物を着流しにしたり、すその長い朝鮮や台湾の服を着ていた。 いったいこの人たちは誰なのだろう。 そして、何が始まろうというのかしら。 私がキョトンとしていると、担当の衛生兵が、慰安婦の検診なのだと教えてくれた。 私はびっくりしてしまった。 新潟の村には売春婦とか慰安婦などという人たちはいなかった。 だから、そういう人たちがいるということもおぼろげにしか知らない私だった。 それなのに、いま私の前にその慰安婦が百人もいる…。 しかし、軍隊はそんな個人の動揺をかまってはくれない。 いよいよ検診が始まることになって、ふと衛生兵の机の上を見ると、慰安婦の名前の上に、「将校用」「兵隊用」「軍属用」と書かれてある。 「これ、どういうこと?」 「ああ、これか。 将校用は日本人、兵隊用は朝鮮人、軍属用は台湾人だとよー」 その衛生兵は、なげやりな言い方でそう言った。 「まあ、まるで品物!」 私は顔をしかめ、ぶるぶるっと身ぶるいした。 (中略) その夜、私はなかなか眠れなかった。 聖戦を戦いぬき、大東亜共栄圏をつくろうとする皇軍の勇士たちに、そういう女がついていようとは? お国のため立派に戦って傷ついた兵隊さんを看病してあげたいと一途に思って、死ぬような思いまでしてやってきた私には、あまりにも大きな衝撃だった。 私は、何度も手で空を切り、けがらわしい想念をふり払おうと努めた。 夜はふけて村の祭りの事が次つぎと映り、しだいに涙があふれてきた。 そして、涙の中にさっきの女たちの姿や兵隊の顔が浮かんでくるのだった。 少女の頭ではとても想像できない重圧に、つぶされてしまいそうな気持ちで一夜を過ごした。 それから毎木曜日、私は慰安婦検診の介助をつとめねばならなかった。 「慰安婦」とは 日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵の性交の相手をさせられた女性たち(吉見義明氏による定義。 岩波新書『従軍慰安婦』より)。 1993年に内閣官房長官をつとめた河野洋平氏の「河野談話」によって、長期に広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したこと、慰安所が軍当局の要請により設営されたものであることを、日本政府は認めている。 いつでも元気 2015. 02 No. 280.

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韓国慰安婦団体の不正疑惑、何が問題なのか

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Q 慰安婦とは何か。 A 戦時中、日本軍の関与の下で作られた慰安所で、将兵の性の相手を強いられた女性。 政府は1993年8月に河野洋平官房長官が発表した談話(河野談話)で「当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題」と指摘した。 Q どんな人々が慰安婦にされたのか。 A 日本本土(内地)の日本人のほか、日本の植民地だった朝鮮半島や台湾出身者も慰安婦にされた。 日本軍の侵攻に伴い中国、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシアなど各地で慰安所が作られ、現地女性も送り込まれた。 オランダの植民地だったインドネシアでは現地女性のほか、現地在住のオランダ人も慰安婦とされた。 政府は38年、日本女性が慰安婦として中国へ渡る場合は「売春婦である21歳以上の者」を対象とするよう通達した。 21歳未満の女性や児童の人身売買や売春を禁じた「婦人及び児童の売買禁止条約」のためとみられる。 ただ政府は25年に条約を批准した際、植民地を適用除外とした。 このため植民地や占領地では売春婦でない未成年女子も対象となった。 朝鮮からは17歳、台湾からは14歳の少女が慰安婦とされたとの記録がある。 Q 何人くらいいたのか。 A 総数を示す公式記録はなく、研究者の推計しかない。 現代史家の秦郁彦氏は93年に6万~9万人と推計し、99年に2万人前後と修正。 吉見義明・中央大教授(日本近現代史)は95年に5万~20万人と推計し、最近は5万人以上と改めた。 韓国や中国ではさらに多い数字をあげる人もいる。 Q 慰安所はいつ、どんな経緯で作られたのか。 A 満州事変の翌年、32年の上海事変で日本兵が中国人女性を強姦(ごうかん)する事件が起きたため、反日感情の高まりを防ぐためとして九州から軍人・軍属専用の慰安婦団を招いたとの記録がある。 その後、性病蔓延(まんえん)による戦力低下や機密漏洩(ろうえい)の防止、軍人の慰安のためなどの理由が加わった。 Q どのようにして集められたのか。 A 多くの場合、軍の意向を受けた業者がまず日本国内で、さらに植民地の朝鮮や台湾で集めた。 「仕事がある」とだまされたり、親に身売りされたりした場合も多いことがわかっている。 一方、フィリピンやインドネシアなど占領地では、日本軍が直接暴力的に連行したとの記録もある。 フィリピン政府の2002年の報告書によると、同国で日本軍は、現地の女性を暴力的に拉致・連行して日本軍の兵営とされた教会や病院に監禁し、集団で強姦を続けた事例もあったという。 Q 慰安婦の暮らしは? A アジア女性基金のサイトでは「(慰安所で)兵士は代金を直接間接に払っていたのはたしかですが、慰安婦にされた人々にどのように渡されていたかははっきりしません」と記す。 戦況や場所により処遇にばらつきもあったことが推定される。 政府は93年、河野談話とあわせて調査結果を発表し「戦地では常時軍の管理下で軍とともに行動させられ、自由もない生活を強いられた」と説明している。 Q 慰安婦問題が国内で知られるようになった経緯は。 A 戦後まもない時期から兵士の体験談や手記で触れられていた。 70年6月、作家の故千田夏光氏が週刊新潮で「慰安婦にさせられた」という女性や旧軍関係者の聞き取りを紹介。 73年にルポ「従軍慰安婦」を刊行した。 当時はまだ戦時下の秘史という扱いだった。 Q 日韓間の問題として認識されたいきさつは。 A 90年1月、尹貞玉(ユンジョンオク)・梨花女子大教授が韓国ハンギョレ新聞に「挺身(ていしん)隊『怨念の足跡』取材記」の題で慰安婦問題の記事を連載。 5月の盧泰愚(ノテウ)大統領訪日をきっかけに、植民地時代の朝鮮半島で日本の軍人・軍属とされた韓国人らから日本に謝罪と補償を求める声が高まった。 慰安婦問題の主な経緯(肩書は当時) 1991年 8月 韓国で元慰安婦が初めて名乗り出る 12月 元慰安婦が日本政府を提訴。 政府が調査開始 1992年 1月 宮沢喜一首相が日韓首脳会談で謝罪 7月 政府が調査結果発表。 政府の関与を認める 1993年 8月 河野洋平官房長官が談話で慰安婦の募集、移送、管理に強制性を認め「お詫(わ)びと反省」を表明(河野談話) 1994年 8月 村山富市首相が談話で慰安婦問題の解決策について「幅広い国民参加の道を探求したい」と表明 1995年 7月 政府主導で民間のアジア女性基金が発足。 国民の寄付をもとに「償い金」を元慰安婦に支給するなどの「償い事業」を実施 2007年 3月 基金が解散 7月 米下院、慰安婦問題で対日謝罪要求決議を採択 2014年 6月 政府が河野談話作成過程の検証結果を公表.

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今さら聞けない「慰安婦」問題の基本を研究者に聞く――なぜ何度も「謝罪」しているのに火種となるのか(2019/08/07 19:45)|サイゾーウーマン

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林博史・関東学院大学教授 「慰安婦」はいなかったとする「否定派」の主張を、資料の検証や元「慰安婦」の聞き取りを行っている歴史学者、政治学者らが反証し、問題の争点を浮上させた映画『主戦場』。 4月から上映している東京・渋谷の映画館イメージフォーラムではいまなお終映日未定のロングランとなっており、現代ではアンタッチャブルとなりつつあった「慰安婦」問題への関心が高まっている。 これついては、「表現の自由」の制限のみならず、歴史を歪曲する動きが表出したことも懸念すべき点だといえよう。 それを裏付けるように、大阪市の松井一郎市長は8月5日に記者団に対し、「慰安婦問題は完全なデマ」などと語っている。 歴史学において事実だとされている「慰安婦」問題。 だが、それを否定するような政治家の発言や、外務省などの対応は国際的にも非難を浴びている。 しかしながら、現在の学校教育においては教科書から「慰安婦」の文字が消え、どこに火種があるのか、なにが国際的に非難されているのか、理解している人は少ない。 また、韓国とのあつれきに耳目が集中するため、問題が朝鮮人「慰安婦」に狭められることで、取りこぼされる事実も。 そこで今回の特集では、改めて「慰安婦」問題の全体像を取り上げてみたい。 第1回は、長年「慰安婦」問題を研究し、『日本軍「慰安婦」問題の核心』(花伝社)などの著書を持つ、林博史・関東学院大学教授に「慰安婦」の実態や問題の本質を解説してもらった。 林博史氏(以下、林氏) 日本軍「慰安婦」制度というのは、軍専用に女性たちを集めて、兵士のセックスの相手をさせることを指します。 明治以降、日本では国が性売買を公認・管理する公娼制が敷かれ、その場合は「娼妓」などの言葉を使っていました。 日本軍も最初は同じような言葉を使っていたんですけれども、次第に兵士を「慰安」する女性として、「慰安婦」を使い始めた。 研究者も、日本軍が使っていた歴史用語として「慰安婦」を使いますが、この言葉は実態をまったく表していない。 彼女たちは「慰安婦」ではなく、性暴力の被害者・性奴隷です。 そのためカギ括弧を付けて使用しています。 そして「慰安婦」になった経緯や被害のあり方も、まったく異なります。 もちろん一人ひとり事情は異なりますが、「慰安婦」問題の全体像を把握するために、国籍ごとの傾向を教えてください。 林氏 まず日本軍が国内にいる場合は、各駐屯地の近くに売春宿があり、兵士たちは普段からそこに通っていました。 日中戦争が始まってそれぞれの部隊が中国へ行くことになると、通っていた売春宿に「女性たちを連れて一緒にきてくれ」と頼むわけです。 だから最初は、日本人女性が連れて行かれました。 ただ、普段から売春に関わっている女性は、性病にかかっている率が高く、兵士にうつるケースが多い。 そこで、性病になっていない、若くて売春に関わっていない女性を集めようという発想になる。 しかし日本国内で女性を集めると大問題になるので、朝鮮半島や台湾といった植民地から連れてくるわけです。 どちらも植民地になってから日本の公娼制度が持ち込まれ、業者が若い女性を借金漬けにして売春に従事させる仕組みが完成されていますから、日本軍が直接関わらなくても、業者を使って女性を集めることができました。 そのため、朝鮮人・台湾人の場合は人身売買が多い。 韓国国内やアメリカ、ドイツ、オーストラリアなど、海外にも設置される。 「歴史戦」と呼ばれる、海外での「慰安婦」問題の論争の火種のひとつともなっており、設置された国や都市において、外務省が撤去のため積極的な手回しをしていることが海外でも問題視されている。

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