田代 眞人。 KAKEN — 研究者をさがす

岡田晴恵は何者なのか?経歴の謎と不倫疑惑の真相

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写真=iStock. さらに当時の上司にあたる田代眞人との不倫疑惑も取りざたされた。 同誌によれば岡田は、1990年代後半に感染研・ウイルス第一部の実験補助員に採用された。 そのとき部長だったのが、当時のインフルエンザ研究の権威であった田代眞人。 彼が第三部の部長に異動した際に、岡田は研究員として正式採用されたそうだ。 岡田は田代のもとで実績を積み、共同研究者として数々の論文を発表する。 岡田がこれまで出版した書籍を見ると、『鳥インフルエンザの脅威』(河出書房新社)をはじめ田代が監修したものが多く、『感染症とたたかう インフルエンザとSARS』(岩波書店)など共著も多い。 岡田の研究姿勢には、田代イズムが脈々と受け継がれているに違いない。 東北大学医学部卒業後、自治医科大学助教授などを経て、感染研に入所。 同インフルエンザウイルス研究センター長、WHOインフルエンザ協力センター長、WHOパンデミック緊急会議委員、国際インフルエンザ学会理事などを歴任し、昨年秋には瑞宝小綬章を受章している。 日本にとどまらず世界で感染症の権威として活躍した田代。 今から15年前の2005年、当時猛威を振るっていた鳥インフルエンザ感染者数について「中国は国家ぐるみで世界を欺いている」とドイツで告発をしたのだ。 その様子は、現地の有力紙・フランクフルター・アルゲマイネでも取り上げられている。 東南アジアを中心に流行していた高病原性鳥インフルエンザ(H5N1型)。 告発当時、報告されていた中国での感染者はたったの3人だった。 しかし、田代はこれに対して異議を唱えた。 田代氏はWHOインフルエンザ協力センター長。 東京の感染研にある彼の研究室は、アジア地域の鳥インフルエンザ調査を行う、国連のアジア窓口の一つとされていた。 同紙によれば、アジアで鳥インフルエンザが流行するなか、田代が中国・湖南省を訪れた際、非公式ながら驚くべき情報を得た。 現地の共同研究者から、「中国国内ではすでに数百の人が死んでいる。 さらに数千人が隔離施設に押し込められている」というのだ。 中国が公式に報告している数字と桁がまるで違う。 この証言をしたとされる関係者はすでに中国当局に逮捕された、という恐ろしい話だったという。 もし本当ならば、現地研究者の決死の告発ともいえる。 同年11月19日、この情報を持ち帰り、田代が中国の虚偽を告発したのはドイツにあるマールブルク大学。 ウイルス学の権威・ハンス・ディーター・クレンク博士の引退講演によせてこのスピーチを行い、他の専門家たちの度肝を抜いたのだった。 中国保健相スポークスマン・毛群安は「私たちが虚偽の報告をしているとの話は、まったくのデマだ」と話したことを中国・人民日報は報じている。 記事によれば「保健省とWHOが検証したところ、湖南省で鳥インフルエンザの調査をしたWHO専門家の中に、日本人はいなかった。 何百もの中国人が鳥インフルエンザで死んだという報告は真実ではない」「田代眞人がWHOの専門家として中国を訪問したことはない」と名指しで否定した。 さらに英科学誌『ニュー・サイエンティスト』はこの騒動に触れ、WHOスポークスマンのディック・トンプソンのコメントを掲載。 「中国が虚偽を働いている噂 うわさ に根拠はない」というものだった。 結果的に、デマを拡散したという形になってしまった田代。 この件でWHOの職を解かれたということはないようだ。 真相は闇のままである。 2004年に出版した岡田との共著『感染症とたたかう インフルエンザとSARS』のなかで、SARS(重症急性呼吸器症候群)流行に関して、2002年11月から中国広東省を中心に流行していた原因不明の新型肺炎について、当初中国は流行の事実を隠蔽 いんぺい したと指摘。 WHO専門家チームによる調査・支援の受け入れを中国は拒否し、この初動対応の遅れが世界的な感染拡大を招いたと述べている。 田代と中国の因縁の関係。 これは岡田にも受け継がれているのだろうか。 医学関連の研究も盛んで、免疫血清療法と破傷風血清療法を発見したベーリングも研究活動を行った。 彼は1901年に第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞している。 岡田は、同大学のウイルス学研究所に、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団の奨学研究員として留学していた。 時期は2000年前後と推定される。 アレクサンダー・フォン・フンボルト財団はドイツのノーベル財団といわれるほど権威ある団体である。 関連する「日本フンボルト協会」ホームページによれば、この財団を通して世界中から毎年2000名以上の研究者がドイツでの在外研究に携わり、うち48名のノーベル賞受賞者を輩出しているという。 奨学研究員になれば、若手研究者であれば奨学金として月額2650ユーロ(6カ月から24カ月)、中堅研究者であれば月額3150ユーロ(6カ月から18カ月)が給付されるとある。 その奨学生に選ばれるのは決して簡単なことではないだろう。 ちなみに、田代も同じ奨学研究員として1984年にギーセン大学に留学している。 ギーセンはマールブルクの隣町だ。 奨学研究員として選ばれた岡田は、ドイツで一体何の研究を行っていたのか。 残念ながら、留学時に発表した論文は見つけることができなかった。 彼女の留学時代を知る人物は「正義感あふれる人」と評している。 自分の損得は顧みずに、正しい行いを追求する信念の強さがあったという。 (文中敬称略) (プレジデント編集部) 外部サイト.

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【文春砲】岡田晴恵がデータ捏造?上司の田代眞人と不倫パワハラの噂も

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岡田晴恵が上司と不倫?内容や田代眞人との関係は? 岡田晴恵という、医療崩壊を起こしかねない全数検査に固執する医師ヅラした薬学者(医師ではない)は、論文も読まず業績も鑑みない下調べの不十分なマスコミに珍重される、疫病アイドルと化した。 私はこの女の言説を信じない。 — Z旗新聞社 zshinbun 岡田晴恵さんが過去に田代眞人さんと不倫していたと週刊文春が報じました。 岡田晴恵さんは元感染研の方で、今は大学教授。 最近コロナ関連のニュース番組などに引っ張りだこで、PCR検査についてで話題になりましたよね。 そんな岡田晴恵さんが田代眞人さん(感染研の部長)と不倫関係にあるというんです。 その内容は以下の通り。 岡田晴恵さんは、スリットのチャイナドレス風の服を着用し、流し目することも• 岡田晴恵さんが感染研に入った時、田代眞人さんは第一部の部長だった• 田代眞人さんが第三部に異動する時に、岡田晴恵さんも一緒に異動となった• 田代眞人さんは、岡田晴恵さんのために実験補助員を2名付けるという異例の対応をした• 岡田晴恵さんを、田代眞人さんが最寄り駅から感染研まで車で送迎していた• 1999年のウイルス大会で「僕の後継者です」と紹介した• 岡田晴恵さんがドイツ留学してた際には、田代眞人さんが出張帰りにドイツに立ち寄って問題になった事もある• 陰で「女王様」と呼ばれていた岡田晴恵さんは、『部長命令です』が口癖だった なるほど…。 かなり溺愛されていたのは分かりますね。 実際にホテルに行くところなどを目撃されたわけではないようですが、溺愛っぷりは厚生労働省にまで伝わるほどだったそうです。 そうなると、岡田晴恵さんと田代眞人さんが不倫関係にあった可能性もありますよね。 週刊文春では元同僚のBさんとCさんがこの件について語っていました。 スポンサーリンク 岡田晴恵がパワハラ?内容は? 岡田晴恵!TBSでサンモニ、アッコにおまかせ掛け持ちでデマを撒き散らす — イタジゴロ AkCuoco 岡田晴恵さんが、更にパワハラ行為をしていたとも文春は報じています。 その内容は以下の通り。 『部長は私に逆らえない』などと発言し、自分の要求を強引に通していた• 数千万円の実験器具を自室で独り占めしていた• 欲しい研究機材を無理矢理購入させた• 室長が2代続けて早期退職してしまった• 岡田晴恵さんの論文が問題になった時に、部員に聞き取り調査をすると実験ノートの提出が無く、あとから「岡田さんが怖くてできなかった」と発言していた• 普段から部員は岡田晴恵さんに気に入らないことがあると「首にしてやる!」と怒鳴られていた なかなかの内容ですね。 確かにテレビで見ていると「女王様」として君臨していた時のイメージが出来てしまいます…。 スポンサーリンク 岡田晴恵が上司と不倫、パワハラの内容は本当?田代眞人との関係は?【週刊文春】まとめ 『岡田晴恵が上司と不倫、パワハラの内容は本当?田代眞人との関係は?【週刊文春】』ということで岡田晴恵さんの不倫やパワハラなど週刊文春で報じられていることについてまとめました。 また、岡田晴恵さんと田代眞人との関係ですが、内容が事実なら不倫と思われても仕方ないですよね…。 車で送迎とか、毎回自分と一緒に部署異動とか…。 最近テレビでは人気ですが、今回の週刊文春のスクープで世間の目も変わるのでしょうか。 旦那さんが可哀相だなと思いました。

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【文春砲】岡田晴恵がデータ捏造?上司の田代眞人と不倫パワハラの噂も

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風の匂いとか、水のせせらぎとか、名物の味とか、五感を通してのみ得ることができる、その土地の雰囲気としか言いようのないものがあるのである。 もっと言うと、その土地が独自に持っている根源的な力がそこには横たわっていると思う。 このたび拙著(岩波書店)を刊行した。 同書では、一般的に池というものが人の心を慰安する存在であること、不忍池が時代を追うにつれて、江戸的情緒を醸し出す名所から文明開化を象徴する場所へと変化したこと、しかし蓮が名物だという伝統的な美意識は継続していること、などを論じた。 そのこと自体興味深いし、広く知っていただけたら、とてもうれしい。 しかし冒頭に記したように、やはりその土地に行ってみないとわからないことがある。 その際大事なのは、すでに知識があった上で現地を体感してこそ理解が深まるということだ。 特に不忍池のように歴史と文化が豊かな所なら、なおさらである。 予備知識を蓄えた上で、実際にこの池を訪れて、清水観音堂からの眺望、弁天堂のたたずまい、ボートからの四方の光景、隣接する動物園の雰囲気など、感じていただけたら、著者としてこの上なくありがたい。 ちょうど今頃は渡り鳥がたくさん来ていることだろう。 場合によっては、広重が「名所江戸百景」で描いた雪景色を鑑賞できるかもしれない。 いずれもが、一〇〇年前の災厄が忘れ去られている現状を憂慮し、その教訓を生かして、いつか必ず起こる人類存亡のインフルエンザ危機に備えて、地球全体で準備・対応することの必要性を警告している。 一九一八-一九年のスペイン・インフルエンザの世界大流行(パンデミック)では、当時の世界人口約二〇憶人の三分の一が感染発症し、二千万-五千万人が死亡したと推計されている(中国、アフリカなどを含めると一億人との推定もある)。 犠牲者の多くが青壮年であった。 さまざまな資料や文献にも、世界中で起こった悲惨な実態と社会機能の停滞・破綻が数多く記録されている。 最近、ようやく旧植民地や低開発地域における被害の実態も明らかにされてきた。 一九一八年初春に米国カンザス州の新兵訓練所で、季節遅れのインフルエンザ流行により多数の兵士が入院した。 その後、各地へ拡大したが、症状や致死率は通常の季節性インフルエンザと大差なく、とくに注目されなかった。 一九一四年に始まった第一次世界大戦に途中から参戦した米国は、一八年春から多数の兵士を欧州へ派遣したが、それに伴って流行は欧州へ、さらに世界各地へ広がった。 前線の塹壕から毎日大勢の患者が後方へ移送されて戦力は低下し、後方の市民にも流行が拡大した。 しかし一般に健康被害は軽く、パンデミックの先ぶれである第一波の流行は八月までに終息した。 ところが九月、インフルエンザが再出現した。 この第二波は激烈で、三カ月のうちに欧州から全世界へと拡大し、壊滅的な大流行を起こした。 生存患者の多くも二次性の細菌性肺炎で死亡した。 原因も予防・治療法も不明であった。 医療体制は崩壊し、葬儀や埋葬も間に合わず、社会機能は破綻した。 そして多くの孤児が残された。 膠着状態に陥った世界大戦の最終局面で両陣営の戦力は激減し、パリに迫る西部戦線では、ロシア戦線から戦力を転用したドイツ軍の最終突撃は中止された。 それがドイツ降伏(一九一八年一一月)の原因ともいわれる。 第一次大戦の戦死者一千万人に対して、参戦国におけるスペイン・インフルエンザの死亡者はそれ以上、重症患者はさらに膨大な数に上り、総動員体制下での社会・生活基盤にも大きな影響が出た。 政府による報道管制にもかかわらず、国民の戦意は低下し、厭戦気分が広がった。 休戦後の一九一九年にも第三波が追い打ちをかけ、流行規模は減少したが死亡数はさらに増加した。 命をとりとめたウィルソン大統領は精神神経症状を呈して思考・意欲が低下し、病床でフランスによる強硬な講和条約案に無気力の状態でサインしたと伝えられている。 スペイン・インフルエンザの結果、労働人口不足で戦後の経済復興が遅れ、膨大な賠償金でドイツ経済は破綻し、世界はその後の大恐慌を克服できずに不安定化し、ファシズムの台頭と第二次世界大戦への伏線が敷かれたと指摘されている。 アウシュビッツをはじめとするナチス・ドイツの絶滅収容所や沖縄、広島・長崎などの惨事や、戦後から現在に至る多くの国際問題も、その延長線上にあるのだろう。 このように、一〇〇年前のパンデミックは、中世ヨーロッパの終焉を導いたペスト大流行と並んで、歴史に大きな影響を与えた感染症である。 しかしその記憶は視覚に強く残る多くの事件に隠され、貴重な教訓が感染症大流行への準備・対策に生かされることはなかった。 スペイン・インフルエンザの原因は何だったのか。 いつどこから来たのか。 なぜ大きな流行が起こり、病原性が高まって若い人に健康被害をもたらしたのか。 今後、再出現する可能性はあるのか。 予防や対策をどうすればよいのか。 多くの疑問が提起されてきた。 専門家にとってはこれらに対する回答を探ることが大きな課題となった。 スペイン・インフルエンザ流行当時は、ロベルト・コッホを頂点とする近代細菌学の全盛期で、インフルエンザの病原体はインフルエンザ菌という細菌であると信じられており、これに対するワクチンも開発された。 日本でもコッホの高弟の北里柴三郎らはこの説を支持し、対立する帝大学派は異論を唱えていた。 インフルエンザの病原体がウイルスであることは、一九三〇年代になって英米の研究者が初めて証明し、それに基づいて近年の研究発展がなされたと、一般には認識されている。 しかし、スペイン・インフルエンザ流行当時、山内保ら三人の日本人研究者が、スペイン・インフルエンザの病原体は細菌ではなく、ウイルスであることを証明し、英国の医学雑誌"Lancet"に発表していた。 被検者への感染実験など、現在では問題のある研究方法もあり、長く無視されていたが、最近、世界的に再評価されつつある。 詳細は、山内一也先生が岩波書店の雑誌『科学』(二〇一一年八月号、八〇七頁)に書かれている。 この一〇〇年間の研究によって、インフルエンザウイルスはヒト以外にもブタ、ウマ、鳥類などで伝播・維持される人獣共通感染症であることがわかった。 そして、すべてのインフルエンザウイルスは、カモなどの渡り鳥がもつ鳥インフルエンザウイルスに由来していること、これらのウイルスは激しい遺伝子変異を繰り返し、さらに異なるウイルス間での遺伝子の交換によって、頻繁に性状を変化させていること、そして、これらの変異ウイルスの中からスペイン・インフルエンザなどのヒトの新型インフルエンザが出現することが明らかになった。 近年、鳥やヒト、動物での感染・伝播・病原性を規定するウイルス側と宿主側の遺伝子の解明が進み、スペイン・インフルエンザを含むさまざまなウイルスの正体が分子レベルで明らかにされてきた。 特筆すべきは、一〇〇年前の犠牲者(病理解剖後の保存臓器および永久凍土に埋葬されていた凍結遺体)からウイルス遺伝子を回収し、その全塩基配列(遺伝情報)を決定したトーベンバーガーらの偉業である。 さらに、東京大学医科学研究所の河岡義裕教授らは、その遺伝情報に基づいて生きたスペイン・インフルエンザウイルスを再構成し、強い病原性の原因を示した。 しかし、スペイン・インフルエンザの起源、第二波が強毒化した場所と機序、第三波のあとに弱毒化した理由などは、各時期のウイルス遺伝情報がすべて得られない限り未解明のままである。 一方、ウイルスの性状が解明された結果、診断方法、ワクチンや抗ウイルス剤の開発が進み、細菌性肺炎の合併に対する抗生物質の導入などの医療の進歩と相まって、現在の状況は一〇〇年前とは別世界である。 しかし、それらの活用は政策次第であり、地球環境・生活様式の変化を考慮すると、決して楽観視はできない。 流行予知とリスク評価は依然、大きな課題である。 この一月、前記の研究のほとんどの局面で世界を牽引・指導してきた世界的インフルエンザ研究者R・G・ウェブスター博士の自伝的著書が、として、総勢一三人のウイルス学者の翻訳によって岩波書店から出版された(田代・河岡監訳)。 スペイン・インフルエンザに関する疑問の解明を目指し、常に世界各地の第一線に身を置いて経験してきた、成功と失敗に関する回想と教訓である。 インディー・ジョーンズ顔負けの科学冒険物語の中に、インフルエンザ研究の全体の足取りと、誰も予想しなかった自然界でのインフルエンザウイルスの驚異的な存在様式、将来への教訓と問題提起が平易に述べられている。 現在、H5とH7亜型の鳥インフルエンザウイルスがヒトでも大きな健康被害を起こし、パンデミックの出現が懸念されている。 博士はこれまでの知見に基づき、スペイン・インフルエンザを超える最悪のパンデミックの発生は時間の問題であり、これに対して十分な事前準備の必要を説いている。 感染症専門家はもちろん、一般読者や将来研究者・医療従事者を目指す若い人にもぜひ読んでもらいたい。 日本でも一九一八-二〇(大正七-九)年に、スペイン・インフルエンザによる甚大な健康被害(当時の内地の人口五五〇〇万人のうち四五万人が死亡)と、市民生活・社会機能に大きな影響が生じたが、その実態が解明されぬまま記憶が薄れている。 大正デモクラシーの楽観的な社会の雰囲気と、逆に昭和前期の軍事優先の流れによって、国民の士気を削ぐような健康被害と社会的影響は過小評価され意図的に隠された。 さらに映像に残る関東大震災の強烈な記憶の陰で、その五倍もの死者を出したスペイン・インフルエンザの惨劇は忘れ去られた。 著者の速水先生は、日本がスペイン・インフルエンザからほとんど何も学んでこなかったことを教訓として、その実態を解明し、今後必ず起こるパンデミックの災厄を「減災」するための事前準備と緊急対応の確立を強調している。 研究者には有効な対応手段の開発が喫緊の課題であり、行政には市民生活を維持するための行動計画を立て、実施可能に準備しておく責任がある。 しかし、現在の科学・技術と行政能力には限界があり、被害ゼロはあり得ない。 各自は、想定される最悪の事態における最善の対応方法と、自分はどのように行動すべきかを考え、普段から準備しておくことが必要である。

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