明治天皇 側室。 明治天皇の玄孫・竹田恒泰氏が結婚!家系図は?お相手は?

明治天皇を5分で!すり替え説の真相、女遊びで梅毒って?│れきし上の人物.com

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明治天皇のすり替え説の真相と信憑性とは? 明治天皇といえば、明治維新前後に即位され 日清・日露戦争を戦った歴史的にも重要な 役割を持たれていた天皇です。 その明治天皇が 「ある時期に別人にすり替えられた」 という説というか、噂?都市伝説?があるのは ご存知でしょうか? 明治天皇すり替え説ってどんな内容なのか? そもそもこの説が起こった切っ掛けというのは どうやら昭和4年に、 田中光顕(たなかみつあき) という方が 「もう知っているのは私だけだから…」 と、語ったことが始まりだったようです。 その話によると 「ある時点で明治天皇に即位した睦仁を毒殺し、別人にすり替えた」 のだといいます。 田中光顕は11年間にわたり、宮内大臣を務めた 人物で、皇室内部の表裏を知り尽くした人だと いわれています。 そんな人物が 「天皇すり替え」を語った為 その話を聞いた人が書籍として出版して 一般にも広まったそうです。 では、いったい誰と入れ替わったのか。 田中光顕の証言によれば、 「すり替え後の明治天皇は大室寅之祐(おおむろとらのすけ)という人物である」 と、言っています。 この大村寅之祐という人は南朝の 血筋だそうです。 北朝南朝といえば、室町時代の話になのですが この問題を日本皇室は近現代までずっと引きずって いるのだとか。 室町時代に、後醍醐天皇が足利幕府と対立したため 天皇家は北朝(京都平安京)と、南朝(奈良吉野) に分裂しました。 その後南北が合体して元に戻りますが、主導は 北朝であり、南朝は格下に置かれたまま江戸時代に 南朝は滅亡したと考えられてきました。 しかし、実は南朝の血統は滅んでおらず その血筋に大室寅之祐が居るというのです。 そしてその 南朝が明治維新前後の混乱に乗じて 密かに天皇をすり替え、主権を取り戻した という話のようです。 また、そのすり替えを行ったのが 長州藩 だとも言われています。 大室寅之祐のバックに居たのが長州藩で 幕末に長州藩の精神的指導者となっていた 松田松陰は 「南朝正統論者」でした。 松田の弟子であった伊藤博文らも その影響を受けていたと言われています。 そういった背景があり、長州藩出身者からすると 大室寅之祐を天皇にすることは 「師(松田松陰)の悲願である」 と考えられたのです。 明治天皇がすり替えられた説のまさかの根拠! 天皇をすり替えるというのは、普通の感覚で言えば とんでもない事ですよね。 ドラマではないのですから、まず信じられません。 しかしいくつかの点で、睦仁と明治天皇が同一人物とは 思えない点もあるようです。 記録によれば、睦仁は内向的で、右利きで字が 下手だったそうです。 そして馬に乗るのも嫌うほど運動音痴だったといいます。 即位した後の明治天皇は、スポーツマンで 乗馬と相撲が好きで、左利きで字が上手かった。 なんとも正反対ですよね。 また、明治政府の役人たちが天皇を見下して いたような話も残っています。 西郷隆盛は、わがままを言う明治天皇に対して 「昔の身分に戻しますぞ」等と叱っていたと 言われています。 また西郷隆盛の弟である西郷従道は、天皇の 命令を無視して台湾出兵なども行っており 伊藤博文も明治天皇の前でも座ったまま だったといいます。 そして山岡鉄舟などは、相撲で明治天皇を 張り倒したともいいます。 これらの話から、側近達に軽んじられていたと 見る意見がありますが、もちろん反論する 意見もあります。 天皇家は元々徳川幕府から権力を奪られ 京都に閉じ込められていたのですが、討幕を 果たした明治維新功労者から見れば 「自分たちが権力の座に戻してやったんだ」 と、考えていた面もあるのではないか。 そうした気持ちが言動に表れていたと考えれば なんとなくわからないでもない気がします。 また、政府にとっても、正統に続いてきている 睦仁を即位させ、天皇家の万世一系を保っていた 方が都合が良いはずですし、やはり簡単に すり替え説を信じるのは難しいところかもしれません。 Sponsored Link 明治天皇は側室の子?皇后に関わる驚愕の事実! 過去、子供が1人も居なかった天皇は 何人か居ます。 世襲君主制というのは、血を継承していく という危うさを秘めたシステムとも言われます。 その安定を保つために、 一夫多妻制で 対応していました。 正室、側室という言葉はドラマ等でも 聞いた事があると思います。 その側室制度というのは、明治時代までは 普通の事だったのです。 事実、 明治天皇も側室の子ですし、その父 孝明天皇も側室の子だそうです。 明治天皇の生母は 中山慶子(よしこ) といい、幕末に権大納言であった 公家中山忠能の娘でした。 今でこそ一夫多妻制と言うのは言葉を 聞いた事はあっても、実感することは 無いものですから、驚きもあります。 でも決して血を絶やさない施策として 手を尽くすのが正義とされた天皇家には あってしかるべきの制度だったのかもしれません。 明治天皇すり替え説が書籍にもあった? このすり替え説を扱った書籍も発売されています。 興味がある方、一度読んでみてはいかがでしょうか。 Sponsored Link おわりに 日本の天皇家が正しく継承されてきた世界最古の皇室であるという事は、日本の誇りです。 明治天皇すり替え説については、オカルトや都市伝説のようなネタ話として楽しむくらいが丁度良いと思いますが真相は闇の中なのかもしれませんね。

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愛子さまは本当は生まれてなかった? 「側室なしで男系維持はムリ」を実証的に完全論破!(宮本タケロウ)|菊ノ紋ニュース

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(明治天皇の皇后:一条美子) 一条美子が皇后として立てられたのは明治元年のことです。 皇后・一条春子は1849年嘉永2年に左大臣・一条忠香の三女として生まれます。 その後1867年慶応3年に明治天皇の元で女御という官職に就きます。 この女御という官職は非常に高い身分を持つ女官で、明治天皇の寝所でも仕えていました。 そして1869年明治元年に皇后になります。 皇后に立てられたとき、美子は若干20歳でした。 ところが、皇后には一向に懐妊の兆候が見られません。 もともと病弱ということもあり、その人生の最後まで実子をもうけることはありませんでした。 当時の皇室が後継者が生まれることを重要視していたことが伝わってきますね。 公家の出身の光子が側室となったのは19歳でした。 翌年1873年の9月には第一皇子として男児を出産しますが、その子は間もなく死亡します。 また光子自身も産後の不良により出産から4日後、そのまま息を引き取り、わずか20年の人生に幕を引いたのです。 夏子は公家の出身で、側室になったのは16歳のときでした。 順調に妊娠しましたが、1873年11月に女児を死産。 その翌日、夏子本人も帰らぬ人となりました。 こののち柳原愛子は順調に2男1女を出産します。 しかし、この3人の中で成人できたのは柳原愛子にとって二人目の息子の嘉仁親王だけでした。 この嘉仁親王はのちに大正天皇になっています。 また柳原愛子には、白蓮事件で有名になった柳原白蓮がいます。 白蓮がかわいらしい印象を与える女性であったように、愛子の写真を見ると、幼さが残る可愛い印象を与える女性です。 彼女は息子を大正天皇にするという特権にあずかりましたが、それでも皇后の位につくことはなく、その長い生涯を側室として終えています。 彼女の人徳は宮中でも広く知れ渡っており、皇后にも他の側室や女官たちにも愛されたようです。 それは嫁との関係にまで影響を及ぼし、愛子の息子・大正天皇の嫁である貞明皇后にも、まるで実母であるかのようにしたわれました。 柳原愛子が病気で伏せていたときには、皇后がお見舞いに来て、その手をとって感謝をのべたという逸話が残されています。 彼女は昭和43年に自宅で死去します。 享年84歳でした。 幼くして側室となった彼女は順調に娘を授かり、19歳で初めての出産をします。 しかしその娘もわずか1歳で死去してしまいます。 その後も明治天皇から愛された彼女は出産が続きます。 最終的に2男6女というたくさんの子どもを出産していますが、そのうち二人の息子と一人の娘は幼くして死亡します。 成人するまで生き残った子どもは、5人もいましたが、すべて女の子だったためどの子も皇太子となることはありませんでした。 なお、園祥子の産んだ2番目の娘(昌子)は後の1908年に陸軍少将・竹田宮恒久王と結婚します。 ちなみに、この竹田家の子孫が近年有名になったのが作家の竹田恒泰さんです。 竹田恒泰さんは、今上天皇のはとこの子ということになりますね。 しかし、この二人の子は幼くして亡くなっています。 この女性に関しては謎のことが多いです。 事実上子どもがなかったことなどもあり、注目されていないのかもしれません。 ただこの千種任子のあまりにも不幸なところは、一人目の娘が死んだ翌々日に二人目の娘が死んだということです。 一人目の娘は2歳まで育ちました。 そして二人目の娘はおよそ8か月という小ささで死んでいるのです。 それがたった3日の間という、続けざまに起こったこの母親の悲しみを想像することは出来ないでしょう。 皇后と側室の関係はどうだった? 側室たちにとって、皇后は「ライバル」という感覚はなかったと思われます。 当時の皇后や側室制度というのは、女官たちの位の一つで、皇后は圧倒的に高い地位ということになります。 皇后は女官の最高位であり、それを頂点として、典侍や権典侍という女性達の地位があったのです。 ですから、側室たちにとって皇后はライバルではなく上司にあたります。 皇后は天皇のそばにいる女性たちを取り仕切る女性たちの上司のような役割をしていました。 そのため、明治天皇が自分の意志で女性を選び、その女性と一緒に過ごすことは許されていなかったようです。 [ad co-5] 誰が天皇と夜を過ごすのかは、皇后が選んでいた 今夜、天皇と一緒に過ごす側室を選ぶのは皇后の仕事でした。 これは、一部の女性にのみ天皇の寵愛が注がれるのをふせぐ目的もあったでしょうが、明治天皇の皇后は聡明な方だったようですから、一部の女性だけに負担がかかるのをふせぐ目的もあったでしょう。 また、一人の女性だけを寵愛し続けた場合、その女性に子供ができなかったなら、結局家系は途絶えてしまいます。 これをふせぐために皇后が、その日その日で公平に側室を選んで天皇をかよわせた可能性もあります。 皇后は還暦のお祝いの時に、側室の柳原愛子に女官の代表としてその場を務めさせています。 これはライバル関係などではなかったことの証明となるでしょう。 皇后と側室たちはあくまでも上司と部下のように、そして家族のように天皇に仕え続けたようです。 [ad co-6] 明治天皇の側室の子は? 最終的に、明治天皇は5人の息子と10人の娘をもうけました。 しかし、4人の息子と6人の娘は5歳になる前にみんな死んでしまい、無事に成人できたのはたった5人だけだったのです。 さらにいうと、生き残った5人のうち息子はただ1人で、他4人は娘です。 このただ一人残った、息子がのちの大正天皇になります(側室の柳原愛子の子) 明治天皇の子どもたちがあまりにも小さいうちに亡くなった理由や死因は明らかにされていません。 この当時の医療技術が発展していなかったことも原因にはあるでしょうが、明治天皇自身も病弱だったため、それが遺伝したかもしれません。 明治天皇が特別に寵愛したのはどの側室? 明治天皇は柳原愛子、園祥子を特別に寵愛したといわれています。 明治天皇が若いころには、柳原愛子を寵愛し、ある程度の年齢になってからは園祥子を愛したといわれています。 実際に、園祥子は2男6女と8人もの子供を産んでいます。 また園祥子は、権掌侍という地位から権典侍へ、という異例の出世をとげており、このことからも寵愛を受けていたことがうかがえるでしょう。 ちなみに柳原愛子がかわいい印象なのに対し、園祥子はすっきりとした美人という印象があり、明治天皇の好みも年齢と共に変わっていったのかもしれません。 [ad co-7] 最後に愛された女性はどの女性? 子どもを産まなかったこともあり、公式な記述には残されていませんが、実は小倉文子(おぐらふみこ)という側室がいました。 小倉文子は明治天皇に最後に寵愛を受けた女性でした。 小倉文子も地位としてはほかの側室たちと同じでしたが、それまでの正式な側室たちがすでに5人いたこともあり、また子供がなかったことから公式には伝えられていません。 まとめ 明治天皇と言えば、日清日露戦争など、強い軍人としてのイメージが強く残る人物です。 しかし、実際には生まれた子供が幼くして死に、愛した女性だけと一緒に居続けることは許されないような、寂しい生活を送っていたのかもしれません。 二人の側室をのぞけば、皇后と側室たちは比較的長生きをしたようですが、明治天皇は60歳ほどで亡くなっていることを考えれば、ストレスの多い人生だったと言えるかもしれません。 [ad co-shita].

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明治天皇の子供がなんと18人?死因に暗殺説があるんです。

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明治天皇が生まれ育った京都の宮廷文化は純和風で、遷都となって東京に来るまでは、洋装して各国の外交官達と社交するなどということはまったく考えられなかった。 ある観菊会でも、外交団を皇居に招きながら1時間も待たせた挙句、一人馬に乗って現れ、彼らと直接挨拶もまじ合わせなかったという(オットマール・フォン・モール「ドイツ貴族の明治宮廷記」金森誠也訳 - 講談社学術文庫)。 これにポルトガル公使夫人が激怒し、そのあとの宮廷行事をポルトガル公使館全員がボイコットしたらしい(同書)。 これ以外にも、皇后と一緒に並んで歩かないなど男尊女卑の傾向があったという(同書)。 そんなことで明治天皇に興味を持った。 調べてみて不思議なことを見つけた。 側室が 5人、生まれた子供が 15人、内 2名が死産、6名が夭逝だという。 日本も以前は乳幼児死亡率が高かったことは知っていた。 でも、生まれた子供の半数以上が 1-2年で亡くなっているというのはかなり多い。 側室は皆公家の系統だから、何か家系的な遺伝性の病気でもあるのかとも思った。 ちょうど、「ドイツ貴族の明治宮廷記」に謎めいた次の文が出てきてますます気になった。 「 ---- 宮中で天皇の一番下の皇子昭宮猷仁親王が歯と関連のある脳の病気、脳膜炎にかかられた。 皇太子明宮を除き、天皇のすべての皇子がこの病気で亡くなられている。 この病気は日本の高位の貴族の家系に秘められた悲惨な伝統である。 実にこの病気は日本の平民の間ではなく、とくに五摂家や大名家に多く発生している。 」 そこで更に調べてみた。 すると、明治天皇の皇子女は 10名が脳膜炎(現在の髄膜炎)で亡くなっているらしいことがわかった。 その原因は白粉(おしろい)だという。 大正の頃まで、高い身分の女性(明治以降は一般人も)はお化粧として首から胸まで白粉を塗っていた(公家や一部武家では男性も)。 当時、白粉は鉛白 = 2PbCO3Pb OH 2 を使っていて、それを使う女性は鉛毒を患っていた。 その粉を乳幼児が吸ったり、母乳から摂取してしまうわけだ。 存命した皇子の一人、明宮嘉仁親王(後の大正天皇)には乳母がいたが、彼さえも、その乳母から鉛を摂取し、結局脳膜炎にかかったと言われている(後年、病弱天皇として知られる)。 明治天皇は伊藤博文のことを「西洋かぶれ」と呼んでいたという。 文字通り「骨の髄まで」和が浸透していた天皇家と高位の公家が西洋科学の恩恵を得るには時間を要した。 和風の白粉が皇子女の命を奪っていたことを明治天皇は知る由もない。 白粉が鉛毒をもたらし、脳膜炎を発生するということが初めて学術発表されたのは大正13年(1924年)のことだ。 以下、参考:「近現代・系図ワールド」より 平井毓太郎(いくたろう) 医博、京大教授、小児科医 明治22年、東大医科を卒業。 ベルツの助手として内科諸病、特に脚気の研究に従事。 27年、京都府立医学校(京都府立医大)教諭となり内科部長を兼務。 32年、小児科学研究のためドイツに留学、アダルベルト・ツェルニーに師事。 新設の京大医科助教授を命ぜられ、35年教授に就任して小児科学講座を担当。 明治の中頃より授乳中の乳幼児にみられた「所謂脳膜炎」の原因が、母親が使用する含鉛白粉(おしろい)であることを発見、本症が慢性鉛中毒であることを明らかにした。 この業績は大正13年日本小児科学会において発表され、昭和7年学士院賞受賞。 19年学士院会員。

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