レーニン グラード。 レニングラード戦をめぐる7つ事実:なぜ戦火と飢餓の872日に耐えられたのか

レニングラード戦をめぐる7つ事実:なぜ戦火と飢餓の872日に耐えられたのか

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友よ、船はサンクトペテルブルグ市を貫く大きな川・ネヴァ川の河口岸壁に接岸した。 久しぶりの快晴、されど風は強く冷たい。 接岸地点は殺風景な岸壁で多くの鴎が出迎えてくれた。 人影は港湾労働者が散見されるのみ。 今日の証言交流会場に行く前に、午前中の時間をさいて戦争博物館を見物。 ここで約1時間かけて第2次大戦時のレーニングラード包囲戦時代の展示物をみる。 それは第二次世界大戦当初の独ソ戦で、ドイツ軍はソビエト連邦・第二の大都市レーニングラード(現・サンクトペテルブルグ)を900日近くにわたり包囲したがレーニングラード市民は耐え抜いた記録の遺物 展示である。 1941年6月22日ドイツ軍の猛侵攻に始まり1944年1月18日に開放される迄の間飢餓や砲爆撃によって死者は100万人以上(ソ連政府は67万人)とも云われる。 これは日本本土における民間人の戦災死亡者数(東京大空襲・沖縄戦・広島・長崎)を上回るものだ。 午後の証言交流会場は、包囲網戦々時下を極限の飢餓状態を生き抜いた3人のロシア婦人の体験談を聞き、合わせて2名の女性被爆体験者が語り合うのを、現地の医学生10名が傍聴する会が催された。 3名のロシア婦人等は、異なる家庭環境であった。 一人はパン屋の子供で4才、もう一人は5才で上流階級の子供だったらしい。 そしてもう一人は普通官吏の娘で10才。 彼女等の話を総括すると、当時のドイツ軍の進撃は猛侵攻で、レーニングラード市民の疎開は殆ど実行する余裕がなかったらしい。 ドイツ軍は8月末にはネヴァ川に到着してレーニングラードに通じる鉄道線路が遮断された。 9月4日から市内への砲撃が開始された。 又空襲によって市内の到るところで火災が発生し、穀類や砂糖など食料品が消失した。 9月には穀物輸送船が撃沈されたが船は後に引き揚げられ、濡れた穀物もパンを焼くのに使われた。 馬の資料であるエン麦も食用に廻され、肉類は枯渇し、皮革までも調理された。 秋になると石油・石炭は底をつき、燃料は街の倒木であった。 公共交通機関も運行停止、大部分の工場も操業を停止した。 冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。 当時12才のターニヤちゃんは日記に肉親全員が次々死んでいく様子を克明に書き残している。 そして少女自身も疎開先で1943年夏に死亡した。 レーニングラードの街角は死体で溢れた。 やがて食料が切れた市内には飢餓状態が訪れ、死体から人肉を喰う凄惨な情況が常習化した。 人肉を売る店まで現れ、人々はそれで飢えを凌いだという。 特に子供の人肉は美味とされたので、市内では子供の誘拐や殺人が横行したと云われる。 街の家庭で多く飼われていた猫は全く姿を消し、ネズミが増えた話も聞かされた。 極限状態の中で、3人に生きのびられた秘訣は何かと尋ねると「親の要領の良さと温かい庇護」という答えしか返ってこなかった。 幽霊と死骸の街となったレーニングラードは、1944年1月初め、ソ連軍は最後の総攻撃をかけ、1月18日に開放されこの時レーニングラード封鎖の悲劇的な900日は終わった。 第二次世界大戦で世界全体の死者数は約6. 300万人、その内ソ連では軍人だけで1. 450万人 民間人の死者700万人以上とされている。 この日傍聴、同席したロシアの若い医学生に時間の関係で「被爆の実相」について何処まで知っているか質問出来なかったのは非常に残念に思う。 今日の核兵器の威力は、広島型の千倍、5千倍はおろか30万倍の核があるという。 爆発すれば、人類共倒れであることだけは伝えて置きたかった。 如何なる戦争も無惨で虚しいものなのに、どうして人間は性懲りもなく戦争を繰り返すのだろう。 (写真;レーニングラード・900日包囲戦を生き抜いた時の証言をするロシア婦人達).

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レニングラード900日包囲戦を生きのびた、ロシア婦人との証言交流会(2010・6・5)

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レニングラード包囲戦は、ナチス軍が1941年9月8日から1944年1月18日までの872日もの間、 レニングラード(現サンクトペテルブルク)を包囲し、それによって 150万人ものソ連軍とレニングラード市民が犠牲になったと言われている悲惨極まりない戦闘でした。 そんな大勢の犠牲者を出していたソ連軍は1943年1月12日に決死の反攻作戦( Operation Iskra)を決行します。 そして1月18日には、完全に周囲からシャットアウトされ陸の孤島と化していたレニングラードへ続く陸上ルートが確保されました。 遂に包囲戦が終わった時でした。 更に少しの間、ナチス・ソ連両軍間の砲撃戦は続いたものの、 1944年1月27日にドイツ国防軍はレニングラードの南部まで押しやられました。 これが事実上の解放となったのです。 彼の作品には悲しみや当時の悲惨な状況が、現在の平和な様子とともに多いに込められていますよ。 ギャラリーを用意しましたので是非ご覧下さい。 こうやって過去の真実を未来に伝えていくというのは、本当に大切なんでしょうね。 河原田長臣(JESUS DIAZ/)• Tags :•

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サンクトペテルブルク

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までの首都であった。 人口535万人。 地理 [ ] 東部のの最も奥に位置し、隣国との国境線に近く、フィンランドの首都、エストニアの首都との距離は、それぞれ300km、350kmである。 一方、首都のとは直線距離で600km以上離れている(東京~函館、東京~広島間の距離に相当)。 行政上はモスクワおよびとともに単独でを形成しており、他の二都市と同じく都市単独でロシア連邦を構成する85のひとつである。 世界の100万都市の中で世界で最も北に位置する。 市街はネヴァ川河口デルタの島々を結ぶ運河網が発達し、バルト海の最重要の地位を持っている。 ネヴァ川は運河や河川などにより、、、と結ばれているため、この都市はやウラル、ヴォルガからの船舶のバルト海への出口となっている。 港は冬季となる11月から4月に凍結してしまうが、厳寒期を除き常に砕氷船がこれらの氷を破砕し、航路を維持している。 また、市中心部にが縦横に巡る美しい街並みを有することから、「水の都」として名高いイタリア北東部の都市にちなんで「北のヴェネツィア」と称されることもある。 街の中心は、からにいたる街の目抜き通りであるである。 この通りは帝政時代より街の中心であり、現在でもサンクトペテルブルクを代表する建築物や観光名所が立ち並び、多くの観光客が訪れる。 歴史 [ ] 名前の変遷 [ ] 像。 市の建設者ピョートル1世を記念した像である 都市の名は「聖の街」を意味する。 これは、建都を命じたが自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたもの。 隣国のではサンクトペテルブルクを、ペテロの名そのままにピエタリ Pietari の名で呼んでいる。 なお、単にペテルブルクと呼ばれることも多い。 ロシア帝国の首都として長く定着していた。 しかし、を受けて、に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。 州名は従来どおりレニングラード州となっている。 市の建設以前 [ ] ネヴァ川河口域は、古くはからヴォルガ川、ドニエプル川といった内陸水路を通じて黒海へと向かう「」と呼ばれた交易ルートに位置し、の北辺に位置していた。 分裂後の1136年、北方にが建国した。 首都はネヴァ川水路でバルト海とつながっており、の4大商館のひとつが置かれ、商業の中心地として繁栄した。 一方で、ネヴァ川河口はフィンランドを支配下に置くとの国境地帯ともなっていた。 1240年には両国の間にが起こった。 この戦いはノヴゴロド公、アレクサンドルの活躍によりノヴゴロド公国側が勝利し、アレクサンドルは「ネヴァ川の勝利者」という意味を持つ「ネフスキー」という名を加えて以後を名乗るようになった。 その後は領となっていたが、、によりにスウェーデンがここを支配下に置いた。 ほどなくスウェーデンはを通じて、バルト海南岸に領土を拡大し、バルト海沿岸の交易を独占的に支配する大帝国となった。 都市の歴史-ロシア帝国時代 [ ] 1700年に始まったでスウェーデンの要塞を陥落させ、河口を占領した は1703年5月27日(当時のロシアで使われていたでは5月13日)にの建設を開始した。 これがサンクトペテルブルクの歴史の始まりとされ、現在では5月27日は建都記念日として市の祝日となっている。 当時、この地域はと呼ばれ、荒れ果てた沼地であったが、ピョートル1世は、内陸のに代わるロシアの新しい貿易拠点となる都市を夢見ていた。 建設は戦争と同時進行であったため労働条件は過酷で、1万人ともいわれる人命が失われたという。 建設費用と戦費はによって賄い、後に貿易によって生じる利益で返済する計画だったため、経済面においてこの都市にかかる期待は非常に大きかった。 1713年、に勝利後、この地が首都と定められた。 1721年、大北方戦争が終結し、ロシアと同盟国側の勝利となった。 戦後のによりフィンランド湾沿岸のスウェーデン領が正式にロシアに編入された。 に皇帝がサンクトペテルブルクに科学アカデミーを創設した。 同年、人口が10万人を超えた。 翌年ロシアがに加盟したため、ロシアの仮想敵国はプロイセンだけとなった。 1728年に印刷所が開設され、の情報が経由で科学アカデミーに集積された。 それがへ送られた。 1734年、英露通商条約。 ロシアはでに軍政を委ね、との奪取に成功した。 歴代ロシア皇帝は帝都サンクトペテルブルクの整備を続けた。 には皇帝が冬の時期を過ごす宮殿としてが完成し、が整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られた。 には演劇アカデミーが創設された。 の時代のには冬宮の一角に後のの元となる展示室が開設された。 1766年、再び英露通商条約を締結。 1768年に貨幣改革をして、翌年1月にロシア初の紙幣であるを流通させた。 この年アムステルダムでロシア初のも発行した。 このため市章はをモチーフとした。 1779年、アシグナト銀行が設立された。 ペテルブルクで銀行業務を行いながら、地方都市に割引事務所を開設した。 1787年、仏露通商条約。 、サンクトペテルブルクの人口が22万人に達する。 1812年のにおいて第2の都市モスクワが壊滅したがサンクトペテルブルクは戦火には見舞われず、、アシグナト銀行本体と割引事務所が母体となり、国立商業銀行が誕生した。 にはが創設された。 にはが起きたもののすぐに鎮圧された。 にはペテルブルクととの間にロシア初の鉄道が建設された。 この鉄道事業には、とが投資していた。 にはモスクワとサンクトペテルブルクを結ぶ鉄道が完成した。 1860年、政府は国立商業銀行などを統合して、国立銀行を設置した。 このときのロシア投資を仲介するが初代総裁となった。 1869年、人口は67万人になった。 1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本のの記録である『』に詳しく記されている。 ロシア革命時、冬宮前に押し寄せる民衆 1894年、ロシアがと通商条約を結んだ。 、国立銀行が中央銀行となる。 1898年6月、国立銀行がの新株を全部引き受けて、の支配に対抗した。 19世紀末にはやなど、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物がこの時期に多く建設された。 また、サンクトペテルブルク市民の経済力も向上し、ネフスキー大通りを中心に豪奢な建築物が立ち並ぶようになった。 1905年10月、サンクトペテルブルクでがゼネストを起こす。 1907年、。 には人口は190万人に達していた。 同年、が誕生した。 このころ、株式商業銀行をふくめたサンクトペテルブルクの群がロシアの金融界で支配力を急速に増した。 これらはなどをきっかけに都市開発が進んだ結果である。 1912-14年、ロシアの大銀行が・などのへ支店・持株会社を設立した。 1913年にもサンクトペテルブルクでゼネストが起きていた。 都市の歴史-ソビエト連邦時代 [ ] スモーリヌイ修道院 ソビエト政権独立宣言がここで行われ、首都がに移されるまで政府の中枢であった ロシア革命では・の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。 その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をペトログラード(サンクトペテルブルク)からより国境から遠いモスクワに移転、に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。 にロシア革命の指導者が死去すると、その功績を称えペトログラードは「レーニンの街」を意味する レニングラードに改名された。 レニングラードはフィンランドとの国境地帯に近いため、有事の際はフィンランドによって占領される危険性があった。 そこではフィンランドに対してレニングラード付近にあるフィンランド領の割譲を要求したが、フィンランド政府はこの要求を断固拒否したため、にが勃発。 ソ連とフィンランドには絶望的な戦力差があり、当初はソ連の圧勝かと思われたがフィンランドは善戦し、多大な犠牲をソ連に強いた。 しかし結局翌には当該地域の割譲をもって講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。 中は、フィンランドと軍による約900日、足掛け4年にもわたる包囲攻撃を受けた()。 枢軸軍はレニングラード市民の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側はこの苦境を耐え抜き、最後までにレニングラードがドイツ・フィンランド軍の占領を受けることはなかった。 その功績により、レニングラードはの称号を与えられた。 戦後もレニングラードはソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯や地理的要因からモスクワとは違った文化や風土を維持した。 また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力闘争でも影響力を持つことになった。 しかしながら、ロシア革命以降でレニングラード(サンクトペテルブルク)出身者がロシアのトップに登り詰めたのはソ連崩壊後のに大統領に選ばれたが初めてである。 都市の歴史-ロシア連邦 [ ] に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市や等)をし、市域が拡大した。 5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。 2006年には(G8サミット)、2013年にが開かれている。 会場は ()の ()。 よりという高層ビルが市の郊外に建設されの完成を予定している。 高さ463mを予定しており、完成すればロシア及びヨーロッパでもっとも高いビルとなる。 より、電子査証によるおよびへの訪問が可能となった。 (詳細はを参照) 気候 [ ] ではの Dfb に属する。 北緯60度と非常に高緯度にあるため、5月半ばから7月半ばの2ヶ月間は昼が長く、日の入り後、日の出前もの時間が長い。 その一方、冬の日照時間は非常に短い。 冬の寒さは暖流の影響で内陸部やモスクワよりは温和であるが、時に-25度前後の日々が一週間程度続くことも珍しくない。 年間降雪量は297cmほどと欧州の都市のなかでは多い。 高緯度なため、可照時間が増えてくる2月が最寒月である。 9度、過去最高気温は2010年8月の37. 1度である。 3 46. 9 10. 2 50. 4 14. 9 58. 8 25. 3 77. 5 30. 9 87. 6 34. 6 94. 3 35. 3 95. 5 37. 1 98. 8 30. 4 86. 7 21. 0 69. 8 12. 3 54. 1 10. 9 51. 6 37. 1 98. 1 26. 1 26. 4 2. 0 35. 6 9. 3 48. 7 16. 0 60. 8 20. 0 68 23. 0 73. 4 20. 8 69. 4 15. 0 59 8. 6 47. 5 2. 0 35. 5 29. 3 9. 1 48. 5 22. 8 21. 3 29. 7 5. 1 41. 2 11. 3 52. 3 15. 7 60. 3 18. 8 65. 8 16. 9 62. 4 11. 6 52. 9 6. 2 43. 2 0. 1 32. 7 25. 3 5. 78 42. 0 17. 5 16. 2 24. 4 1. 5 34. 7 7. 0 44. 6 11. 7 53. 1 15. 0 59 13. 5 56. 3 8. 8 47. 8 4. 0 39. 8 28. 1 21 2. 7 36. 6 20. 1 0. 1 32. 2 4. 9 40. 8 1. 3 34. 1 26. 9 8. 6 mm inch 44 1. 73 33 1. 3 37 1. 46 31 1. 22 46 1. 81 71 2. 8 79 3. 11 83 3. 27 64 2. 52 67 2. 64 56 2. 2 51 2. 01 662 26. 06 平均月間 21. 7 53. 2 124. 0 180. 0 260. 4 276. 0 266. 6 213. 9 129. 0 71. 3 24. 0 12. 4 1,632. 5 出典 1: Pogoda. net 出典 2: HKO sunshine hours 行政 [ ] 旧サンクトペテルブルク証券取引所(現在は中央海軍博物館) サンクトペテルブルクはロシアを代表する港湾工業都市である。 造船業を初めとして、電気機器、工作機械・工具類、農業機械、化学工業、製紙、家具、繊維・衣類、食品加工、タバコ、皮革などの工業が発達している。 大規模なコンテナ埠頭があり、クルーズ船用の旅客ターミナルも備えている。 1703年に都市建設を開始して以来、外国資本を積極的に受け入れて街を発展させてきた歴史がある。 帝政ロシア時代にはドイツやオランダの商人が拠点を置き、貿易を行っていた。 ソビエト時代には停滞したが、近年は外資の進出が盛んであり、の自動車工場が建設された。 ドイツの影響で、ロシア随一のの生産地となっており、ここではよりも人気がある。 文化 [ ] 文学 [ ] サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。 そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。 『』を物した詩人で作家の、いわゆる「ペテルブルクもの」を物した出身の作家、『』を物したなどがその代表である。 また、の作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。 音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。 こうしたことから、ペテルブルク市民はこの都市の高い文化水準に誇りを持っているとされている。 音楽 [ ] マリインスキー劇場のメインホール• が指揮していた時代には、世界有数の実力を誇るオーケストラと言われた。 旧称「レニングラード・フィルハーモニー交響楽団」。 20年間に渡り音楽監督を務めているのもと、現在のロシアで最も評価の高いオペラハウスに成長。 オペラ・バレエだけでなくコンサート(として)においてもレベルの高い演奏を続けている。 現在でも旧称の「キーロフ歌劇場管弦楽団」名義で販売されているCDが少なからずあることから、旧称で当該楽団を知る向きも多い。 の作曲家として知られるは、1856年から連続して1865年までと、1869年、それに晩年の1886年の夏にペテルブルクやその近郊の街である(現在の)やを訪れ、特にバヴロフスクの駅舎コンサートではロシア人聴衆を前に多数のワルツやポルカの数々を相次いで発表し、当地で熱狂的な支持と歓迎を得た。 シュトラウス2世自身も滞在先のロシアからウィーンの友人に宛てたある手紙の中で「生きるならロシアに限ります。 ここには多くの金がある。 金がある所にこそ生きがいがあるのです!」と述べている。 ロシア滞在時代には多くのセンチメンタルな作品が書かれ、多くはロシアの民謡を直接に取り入れた作品や、ロシア的内容の濃い作品が多く目に留まる。 なお、ヨハン2世の弟のも1862年と1869年の夏に兄のヨハン2世夫妻に随行する形でロシアを訪門した。 パヴロフスクの駅舎で自作自演し、公式にロシア・デビューを果たした。 1857年には、当時のサンクト・ペテルブルクの上流社会に因んで流行のフランス語でタイトルが与えられた、印象的な内容のカドリーユ『(=美しい世界)』op. 199が誕生し、さらに翌1858年には、渋いチェロの独奏で開始される穏やかな内容のワルツ op. 210が作曲された。 1859年にはコーダ部分で嵐の情景の様を効果的に描いた力作ワルツ<>op. 227が作曲された。 1860年には素朴ながらも感傷的なロシア情緒が交錯する幾分悲劇的な転調で変化を見せる内容の op. 242や、「北のヴェネツィア」の愛称の由来となったネヴァ川にちなんで1864年の夏に滞在先のロシアで偶然に書かれたとされる愛らしく無邪気な内容の op. 288などの作品がロシアで作曲された。 これらの他にもロシア風な特徴を持つ多数の作品群がヨハン・シュトラウス2世の作品表上にはある。 どのロシア時代の作品も傑作と呼ぶべき密度の濃い作品が揃っており、それらの大半は今日、演奏される機会にほとんど恵まれず埋もれた状況となっている。 マスメディア [ ] 新聞• ヴェースチ(日刊) - レニングラード州最大の新聞• サンクトペテルブルクスキエ・ヴェードモスチ - サンクトペテルブルク市最大の新聞• (月水に発行)• コムソモーリスカヤ・プラーヴダ・ペテルブルク(日刊)• (英語紙、週二回)• テレヴィディェールニエ・ラジオ(週刊、テレビ・ラジオ番組専門) など テレビ• ペールヴイ(第一)• 5 カナール(5 チャンネル)• など12チャンネルくらいがある。 ラジオ• ラジオ・ロシア・サンクトペテルブルク(66. 3 MHz、)• ラジオTRKペテルブルク(69. 47 MHz)• ムジカールノエ・ラジオ・オルフェイ() がある。 テレビとラジオの番組表は土曜日の「ヴェースチ」紙、「テレヴィディェールニエ・ラジオ」週刊誌などに、翌週(月~日)のを載せている。 スポーツ [ ]• サッカークラブのの本拠地• アイスホッケーチームの の本拠地• 1914年に大会が開催された際、賞金の一部を寄付したが決勝進出者の5名(・・・・)に与えた称号がの原型である。 の開催都市のひとつとなり、新築のが大会中の名称を「サンクトペテルブルク・スタジアム」として使用された。 大会後はに所属するの本拠地として使用される。 観光 [ ] サンクトペテルブルクの観光名所の多くがユネスコの世界遺産に登録されている。 を参照のこと。 LM-2008形路面電車 市内にはをルーツに持ち、に開業したが存在する。 2010年現在の総延長は205. 5km である。 道路 [ ] 市内の道路は広く設計されていて、舗装状態もいい。 、(小型乗合バス)、、の運行も行われている。 は駅、空港周辺近く以外は比較的少なく、街頭では私設タクシーが横行している。 自動車専用道路は「」が完成しており、最近誘致した外国企業の工場はほぼこの環状線に沿って配置されている。 この環状道路の真ん中を有料「」が南北に走っている。 サンクトペテルブルクから他都市への道路は、(へ、網のの一部)、(へ、同E105号線の一部)、ロシア連邦道路A181(国境へ)、(国境へ、同の一部)などがある。 モスクワへの道路もがまだ完成しておらず、通常道路(M10幹線道路)で、に入る近くまでは片側2車線で、その後は片側1車線でときどき追い越し車線もある状態となる。 近郊の都市 [ ]• (フィンランド) 1953年初めての姉妹都市• (ドイツ)1953年• (ドイツ)1961年• ()1962年• ()1968年• ()1979年• ()1986年• ()1988年• ()1989年• ()1992年• ()1999年• (アメリカ合衆国)• ヴェネツィア、イタリア• ()1995年• (中国)2007年• , 1996年. , 1998年• , 1999年• , 1997年• , 2002年• , 1997年• , 2000年• , 2002年 双子都市 [ ]• (アメリカ合衆国) 英語での名称が同一のため、「姉妹都市」でなく「双子都市」(Twin city)提携をしている。 なお、セントピーターズバーグの市名はサンクトペテルブルク出身のロシア人移民が故郷にちなんでつけたものである。 標準時 [ ]• および参照• ・山本達朗 ・ ・。 『詳説世界史 改訂版』( 地理歴史科用文部省検定済。 1997年3月31日検定済。 3月5日 発行。 教科書番号 81 山川 世B575。 さらに第一次世界大戦後レニングラードとなったが, 1991年に旧名のサンクト=ペテルブルクにもどされた」と記載されている。 Legislative Assembly of Saint Petersburg. Law 555-75 of October 26, 2005 On Holidays and Memorial Dates in Saint Petersburg. 「図説 ロシアの歴史」p90 栗生沢猛夫 河出書房新社 2010年5月30日発行• 久米邦武 編『米欧回覧実記・4』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年、47~110頁• [ ]大辞泉 - Yahoo! 2007年7月29日閲覧。 2011年4月8日閲覧。 Railway Pro Magazine VIII 4. 102 : 39. 2013-12. 2018年7月29日閲覧。. 大前研一『ロシア・ショック』(講談社、2008)• [ ] 2013年3月2日閲覧• Saint Petersburg City Government. 2008年3月23日閲覧。 [ ]• 2005—2009. 2009年6月22日閲覧。 [ ]• 2008年12月1日閲覧。 [ ]• 2008年12月1日閲覧。 [ ]• 関連項目 [ ]• 数学の問題)• (映画ロケ地) ロケの当時、レニングラード市ソビエト議長はサプチャークであり、国際関係担当顧問または同市対外関係委員会議長はであった。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 サンクトペテルブルクに関連する および があります。 ウィキトラベルには、に関する旅行ガイドがあります。 政府 サンクトペテルブルク市 公式サイト: (ロシア語) 日本政府 (日本語).

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