ココ シャネル 映画。 ココ・シャネルの人生と生涯|その生き方は現在でも語り継がれる

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ココアヴァンシャネルのネタバレあらすじ 【起】 - ココアヴァンシャネルのあらすじ1 ガブリエルと姉のアドリエンヌは、母が亡くなって孤児院に預けられます。 父は浮気ばかりしていて、会いには来てくれませんでした。 二人は酒場で「ココの歌」を歌ってお金をもらいます。 ガブリエルはココというあだ名で呼ばれていました。 アドリエンヌは男爵に夢中で、男爵の友人のバルザンとココは出会います。 物事をはっきりと言うココをバルザンは気に入ります。 ココ達は、昼は仕立て屋の奥で洋服を直す仕事をしていました。 バルザンが再度酒場を訪ねて来て、有名な人が行うオーディションに参加させてくれます。 新曲を披露するために衣装を作らねばと思います。 酒場の支配人が現れて文句を言ってくるので、言い返してやります。 すると解雇されてしまいます。 酒場の衣装をふんだくってやります。 ココはアドリエンヌが動きやすいようにドレスを少し仕立て直します。 バルザンに夕食に招待されたココは、その夜一線を越えてしまいます。 帰ってくるとアドリエンヌが男爵と結婚するから、一緒に歌うことはできないと告げてきます。 【承】 - ココアヴァンシャネルのあらすじ2 ココは独りでオーディションに参加しますが、見向きもされずに終わります。 バルザンが故郷に帰ることになって、ココは独りになります。 お金を使って馬車を借りて、バルザンの屋敷に向かって泊めてもらいます。 アドリエンヌも結婚して近くに住んでいました。 ココは優雅な暮らしができるため、屋敷に留まろうとします。 バルザンは来客があるため、二日だけなら良いと言ってきます。 馬のレースが好きなバルザンに連れられてココも行きます。 バルザンはココを隣には置きませんでした。 ココはアドリエンヌと再会して喜びます。 屋敷に戻って、バルザンは馬車を呼んでココを帰らせようとします。 女優のエミリエンヌ達とバルザンは遊びに出かけます。 ココは馬車に乗らず、馬でバルザン達の場所まで向かいます。 エミリエンヌはココを気に入ります。 ココはエミリエンヌに制作した帽子をあげます。 バルザンの屋敷でパーティーが開催されて、ココも呼ばれることになります。 バルザンに買ってもらったドレスでなく、ココは自分で作ったシックな服に着替えます。 そこでココは楽しませるためにとココの歌を歌わされます。 翌日、バルザンの仕事仲間であるボーイとココは知り合います。 【転】 - ココアヴァンシャネルのあらすじ3 ボーイはココのセンスを見抜いていました。 ココはボーイに恋をしてしまいます。 嫉妬し始めたバルザンとココは喧嘩を始めます。 屋敷を出て働きたいと思うココは、エミリエンヌに仕事を紹介してもらおうとします。 何人か候補はいるものの、屋敷に帰るよう勧められます。 仮装パーティーが開かれて、ココは自分とエミリエンヌの衣装を作ります。 エミリエンヌは衣装が好評で喜びます。 ココとボーイは皆が隠れんぼのゲームをしている間に結ばれます。 その後、ボーイはバルザンに二日間のココとの旅行を了承してもらいます。 ボーイはココを海に連れて行きます。 そしてパーティーに参加して欲しいと頼みます。 ココは生地をもらって、ドレスを制作します。 そのドレスの斬新さと美しさに、パーティーではココが注目の的となります。 屋敷に戻ったココは、嫉妬しているバルザンから求婚されます。 バルザンはボーイが結婚することを知っていたのです。 ボーイの結婚相手は富豪の娘でした。 彼は次に会った時にそれを言うつもりでした。 【結】 - ココアヴァンシャネルのあらすじ4 ココはエミリエンヌから以前あげた帽子が好評だと聞きます。 ボーイがやってきてココとの関係は変わらないと話します。 ココはボーイと一緒になりたかったのですが、一生結婚しないことを誓っているとボーイとバルザンに言います。 ココは自ら富と名声を得るためにパリへ向かう事を決意します。 バルザンは屋敷にいながら帽子を作れば良いと言います。 ココは決意を曲げず、ボーイが資金援助をしてくれることになります。 パリで成功を収めて、ココのブランドは有名になっていきます。 ココはボーイとの愛人関係が続いていました。 彼が車を持ってきていて、ココに運転させて楽しみます。 エミリエンヌの帽子が舞台で動きます。 気になったココが手入れをしてあげます。 舞台が終わってアドリエンヌがやってきます。 ボーイが交通事故で亡くなったのです。 事故現場を見たココは悲しみます。 それから仕事に没頭したココはファッションショーを開きます。 盛大な拍手が彼女に贈られます。 しかし彼女の目はどこか寂し気でした。 それからココは結婚することなく、亡くなる直前まで仕事をしました。 ココのブランドは揺るぎないもので多くの著名人に愛されました。 終わりです。 この映画は、ココ・シャネルの生い立ちや有名になっていく過程が描かれています。 彼女が男性上位の社会でどのように歩んできたかを、ボーイとバルザンの二人の男性との恋愛を絡めて映像化しています。 最後の有名なシャネルとなるファッションショーの演出で、どこか寂し気で遠くを見るココの姿が印象的でした。 また、ココ・シャネルが信念を曲げない強い女性だった事も強く描かれています。 この作品は、随所に登場するシャネルの服を見ることができるのも魅力です。 シンプルで動きやすくて、かつ独創的な服ばかりで見入ってしまうこと間違いなしです。 特にココが男装した時の服がかっこ良く、ボーイとパーティーで踊った時の黒いドレスが素晴らしかったです。 そして20世紀初めのフランスの様子が描かれていて、当時の時代にタイムスリップしたような気分にもなります。 出演者だけでなく、制作陣の頑張りを感じられました。 最後まで見終わって、重い空気と共に切なさと感動を与えてくれました。 同時に美しい映像美と、ココ役のオドレイ・トトゥの演技力が記憶に残りました。

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映画『ココ・アヴァン・シャネル』ネタバレあらすじ結末|映画ウォッチ

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ココ・シャネルは、本名をガブリエル・シャネルといい、世界的有名ブランド「CHANEL」の創立者で20世紀を代表するファッションデザイナーです。 かつてココ・シャネルは、今では当たり前となっている、パンツスタイルや黒を普段着に取り入れるなど、当時の女性のファッション大きく変えました。 シャネルが生きた時代は、まだ19世紀のファッションが色濃く残っていて、コルセットのドレスや装飾の多いデザインが主流でした。 彼女は、それまでのデザインとは違う「シンプルでシックな」ファッションを生涯をかけて作り上げ、今では伝説のデザイナーと呼ばれています。 ココ・シャネル シャネルの目指したファッションは、普遍的で変わらないスタイルでした。 彼女の残したスタイルとはブランドのアイテムの事ではなく、黒のワンピース、ショルダーバック、ジャージー素材の服など、今も街の中で見かけるものばかりで、女性のファッションに大きな功績を残しました。 シャネルのスタイルは、女性が社会に進出していく激動の時代の中で、女性に自由を与えるものであったとも言えます。 27歳で自分の店舗を持ってから87歳で生涯を終えるまで、ファッション界において第一線で活躍し続けました。 そんなシャネルの女性として自立した生き方や情熱的な言葉に刺激を受け、数多くの本や映画を見続けてきた私が、シャネルについて解説していきます。 シャネルが12歳の頃、もともと体の弱かった母親が結核を患い病死。 母の死後、行商人であった父親に捨てられたシャネルは、姉のジュリアと共に孤児院に預けられ貧しい幼少期を過ごしました。 孤児院での生活は厳しく質素なものでしたが、シャネルはここで裁縫を学ぶことになります。 その経験が、その後の仕事に繋がったと言われていますが、シャネル本人が孤児院での生活や幼少期の真実を語ることはありませんでした。 18歳で孤児院を出たシャネルは、フランスの中央に位置するムーランに場所を移します。 シャネルは、芸能界に憧れをもち歌手を目指していたこともありますが、その頃から「ココ」の愛称で呼ばれるようになったと言われています。 ココ・シャネルの性格 激しい性格から火山のような性格と言われることも… 幼少期を恵まれない環境で過ごしたシャネルは、その思いをバネに成功への道を切り開いていきます。 そんな、シャネルは自身でも「傲慢さは私の性格の鍵」というほどに、傲慢できつい性格だったと言われています。 シャネルのいう傲慢さとは、人を見下すような態度を指すのではなく、他人に厳しくする以上に自分に厳しく、自立した強い女性でいることでした。 また、恋多き女性であったシャネルは、常に女性としてのエレガントさを忘れることはありませんでした。 恋愛においては、「強さを隠し弱さを楽しむことは駆け引き」と話していたとのエピソードもあり、強さと同時に女性らしいエレガンスな性格を持ち合わせていました。 いずれにしても、シャネルは自分の性格をよく理解しており、仕事・恋愛とその場面で最大限自分の力を引き出す方法を知っていました。 ココ・シャネルの恋人たち シャネルとアーサー・ボーイ・カペル シャネルは生涯、結婚することはありませんでしたが、恋多き人生を歩みました。 恋人の中には、画家のや、作曲家のストラヴィンスキーなど有名な人物の名もありますが、シャネルが深く愛したとされる2人を紹介します。 シャネルの生涯の恋人と言われる人物に、イギリス人実業家のアーサー・ボーイ・カペルがいます。 カペルに出会ったのが26歳の時。 カペルはシャネルの才能に惹かれ高く評価し、その才能をサポートすべく、店舗を広げていくための資金援助もしていました。 後にカペルは他の女性と結婚をしますが、それでも彼との関係は続き、カペルが自動車事故で亡くなる1919年まで続きました。 そしてもう一人、1920年シャネルが37歳の時、詩人のルヴェルディに出会います。 シャネルは男性としてもルヴェルディを愛していましたが、詩人としての才能を評価し尊敬していました。 恋人としての関係が終わってからも、30年以上深い友情関係は続いていきました。 ココ・シャネルのファッションに対する考え 代表的なシャネルスーツを着る映画「ココ・シャネル」主演のシャーリー・マクレーン シャネルのファッションは、「シンプル・着心地がよい・無駄がない」の3点が基本と言われています。 彼女はそれまでの、コルセットで腰を締めたドレスと過度に装飾のついた帽子といった、とても動きやすいものとは言えなかった女性のファッションに疑問を抱いていました。 女性の社会進出が進んだ時代の流れの中で、シンプルでかつ着心地の良いシャネルのスタイルは、女性のニーズにマッチし浸透していったのです。 彼女は流行によって変わっていくものをモードと捉え、「モードではなく、私はスタイルを作り上げたの」という言葉を残しました。 この言葉の通り、シャネルは変わらず残り続けていくスタイルを作り上げ、現在でもそのスタイルは多くの女性に受け入れられ続けています。 ココ・シャネルの功績 功績1「ジャージー素材の使用【窮屈なドレスからの解放】」 ジャージー素材が広まる前、1900年代始めのヨーロッパの女性のスタイル 今では当たり前となったジャージー素材ですが、シャネルが初めて女性のファッションに取り入れました。 当時、主に靴下やスポーツウェアなどに使われていたジャージー素材は、動きやすく丈夫で、安価で手に入れられました。 シャネルのジャージー素材のドレスは、それまでの体を締め付けるようなシルクやサテンのドレスとは正反対とも言えるものだったでしょう。 ジャージー素材のドレスの誕生は、第一次世界大戦が始まったことがきっかけでした。 当時、新しい店舗を開店した地に、上流階級の女性が疎開してきたことをビジネスチャンスと捉え、ジャージー素材を買い占め洋服を量産し始めます。 戦後、女性が労働に従事することが増えたこと、高級素材が手に入りにくくなったこともあり、シャネルのジャージー素材の服は瞬く間に人気となりました。 功績2「リトルブラックドレス【黒をシックな色として広める】」 リトルブラックドレスのスタイル 現在も高い人気を誇るリトルブラックドレスですが、1920年頃に発表され「黒」をシックな色として広めることになりました。 それまで黒は喪服にしか用いられておらず、黒のドレスを普段使いすることは世の中を驚かせる出来事でした。 シャネルは、オペラを鑑賞していた女性たちの色とりどりのドレスを見て、全ての女性に黒を着せると誓ったと言われています。 無駄のないシンプルさこそエレガントであると考えていたシャネルは、リトルブラックドレスを黒の単色使い、ドレスの装飾も減らしたシンプルなデザインに仕上げました。 発表された当時は、華やかな装飾のドレスが主流だったのに対し、貧相なスタイルというという批判もあったそうです。 「黒はすべての色に勝る」という言葉も残したシャネルの思いは、批判などなかったかのように今でも受け継がれています。 功績3「香水CHANEL No. 5【100年近く愛され続ける香り】 」 シャネルの香水No. 5 シャネルと言えば「No. 5」がイメージに浮かぶほど世界的に有名な香水で、1921年シャネルが38歳の時に発表されました。 当時の香水は、上流階級の女性が使うような単一の花の香りのもの、夜の女性が使うような何種類も香りを合わせたものの二つが主流で、一般の女性が使う香りはあまり出回って居ませんでした。 香水に強いこだわりを持っていたシャネルは、一般の女性が使える日常使いの香水を求めていました。 「No. 5」という名前は、出されたサンプルには番号が振られておりその中の5番目を気に入ったこと、5という数字がシャネルにとって特別なものであったことから名付けられたと言われています。 「No. 5」はマリリン・モンローの「寝るときはシャネルのNo. 5を5滴」という発言によって、1950年代にブームが再熱しました。 その後も、有名女優が広告に起用されるなど、現在に至るまで100年近く変わらずに愛され続けています。 ココ・シャネルの名言 翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすために、どんな障害も乗り越えなさい。 If you were born without wings, do nothing to prevent them from growing. シャネルの生い立ちは、決して恵まれていたとは言えないものでしたが、自ら強い意志で人生を切り開いて成功を収めました。 生まれた環境が恵まれていない、生まれ持った才能がないからとあきらめるのではなく、それを乗り越えるために行動してこそ、希望していた未来につながるという強いメッセージが込められています。 シンプルさこそ、真のエレガンスの鍵 Simplicity is the keynote of all true elegance. シャネルは自身の過去から、裕福な家庭に生まれ育ち夫の富で着飾る上流階級の女性を好んでおらず、豪華な宝石やドレスを身につけることがエレガントではないと捉えていました。 シンプルな装いだからこそ際立つ、女性らしい仕草や動き、過度に装飾しないその謙虚さこそがシャネルの求める真のエレガントさでした。 彼女のエレガントという概念は今も多くの女性に支持され、シャネルに憧れる女性も多いのでしょう。 その日、ひょっとしたら、運命の人と出会えるかもしれないじゃない。 その運命のためにも、できるだけかわいくあるべきだわ。 恋多き女性で、少女のような気持ちを大切にしていたシャネルらしい言葉のひとつです。 言葉のままですが、いつ運命の人に会えるかは分からない、だからこそいつでも最高の自分でいることで運命を手に入れられる。 シャネルは一流と言われる数々の男性と関係を持ちましたが、そういった人たちを惹きつける魅力を持ち続ける努力を怠ることはありませんでした。 上記を含め、さらに他の名言を以下の記事で紹介してるので、こちらも合わせてご覧ください。 ココ・シャネルの人物相関図 ココ・シャネルにまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「英国の公爵からのプロポーズを断った?」 シャネルと恋人関係にあった第2代ウェストミンスター公爵 ヒュー・グローヴナー シャネルの恋人の一人に、イギリス貴族のウェストミンスター公爵がいます。 シャネルが40歳の頃に出会い、それから10年ほど2人の関係は続きました。 ウェストミンスター公はヨーロッパで一番の大富豪とも言われ、彼と結婚したいと願う女性も多く、誰もがふたりの華やか関係に憧れを抱きました。 世間でも結婚の噂が流れ、公爵からプロポーズを受けたシャネルですが、この申し入れをあっさりと断ります。 後に、どうして結婚しなかったのか聞かれたシャネルは「公爵夫人はたくさんいるけれど、ココ・シャネルは私一人しかいないから」と話しています。 公爵夫人の一人になるのではなく、ココ・シャネルとしてそれまで築き上げた自分のスタイルを貫くことを選んだのです。 都市伝説・武勇伝2「シャネルはナチス政権と関わりがあった?」 第二次世界大戦中、占領されたパリの様子 シャネルは、第二次世界大戦中にドイツの占領下にあったパリで、ナチスのスパイとして協力していたと言われています。 シャネルがナチスに協力した理由としては、自身の安全確保と、長年に渡る香水のNo. 5の所有権を巡る争いに決着をつけるためでもありました。 当時、No. 5の所有権はユダヤ人のヴェルテメール兄弟の運営するパルファム・シャネルが持っていました。 ナチスによってユダヤ人の経営する会社が押収される中で、この所有権を自身のものにしよう考えたのです。 結果は、ヴェルテメール兄弟が先手を打ち、所有権はシャネルのものにはなりませんでした。 また戦後は、ナチスに協力していたことからフランス国内で追い詰められ、シャネルはスイスへと亡命しています。 都市伝説・武勇伝3「愛煙家だったことが映画のポスターに影響?」 タバコを吸うココ・シャネル シャネルは愛煙家だったことで有名ですが、後世に彼女を描いた映画の中でもヘビースモーカーである様子が再現されています。 2009年に上映された映画「ココ・アヴァン・シャネル」は、当初その広告ポスターにシャネルを演じた主演のオドレイ・トトゥがタバコを持った姿を採用していました。 しかし、フランスの交通機関は喫煙禁止で、法律でも広告に喫煙姿を乗せることが禁止されていたため、公共交通機関からポスターが撤去される事態になります。 結果的には他のものに変更されたそうですが、シャネルのヘビースモーカーがこのような形で注目を集めるのは、伝説のデザイナーと言われる彼女だからこそのエピソードです。 ココ・シャネルの簡単年表 ココ・シャネルの年表 1883年 — 0歳「フランスのソーミュールに生まれる」 幼少期を過ごした孤児院のあったフランスのオーバジーヌ シャネルの生い立ちと、歌手を夢見た若きシャネル シャネルは、フランスのソーミュールに生まれます。 5人兄弟の2番目で、姉と妹、2人の弟がいました。 12歳の時に母親が病死し、その後父親に捨てられフランスのオーバジーヌにある孤児院で幼少期を過ごしました。 この孤児院で、シャネルは裁縫を学び後の仕事に繋がっていくことになります。 18歳になると孤児院を出なければいけなかったため、フランスのムーランという町のカトリック寄宿学校に預けられました。 舞台に立つことを夢見ていたシャネルは、ムーランの「ラ・コンド」というカフェ・コンセールで歌を歌うこともありましたが、歌唱力が評価されずなかなか舞台での仕事を得ることが出来ませんでした。 その頃、このムーランでエティエンヌ・バルサンに出逢います。 1903年 — 20歳「最初の恋人エティエンヌ・バルサンとの出逢い」 映画「ココ・アヴァン・シャネル」内でのシャネルの乗馬スタイル(オドレイ・トトゥ) バルサンの愛人としての日々、乗馬とシャネルのパンツスタイル シャネルの最初の恋人といわれるエティエンヌ・バルサンですが、2人の関係は愛人関係にありました。 シャネルはバルサンから宝石やドレスなどを与えられ、不自由なく暮らしていくことが出来ました。 その生活の中で上流階級の人々の生活を知り、交流を広めていくことになります。 競馬好きであったバルサンのもとで、シャネルは乗馬を学びかなりの才能を持っていました。 当時は、女性が乗馬する際にはロングスカートにブーツを履くことが作法とされていましたが、シャネルは動きやすさを重視しパンツスタイルで乗馬しました。 パンツスタイルは男性のスタイルとされた時代に、シャネルがパンツを履いたことは周りから驚かれますが、女性のパンツスタイルはここから始まったと言われています。 また、シャネルはバルサンの支援で帽子のアトリエを持ち、ファッション界へと進出していきます。 1909年 — 26歳「生涯の恋人アーサー・ボーイ・カペルとの出逢い」 シャネルの帽子をかぶった舞台女優のガブリエル・ドルジア カペルとの恋愛とシャネルスタイルに繋がるヒント シャネルが26歳の時、最も愛したと言われるアーサー・ボーイ・カペルに出逢います。 バルサンの友人でもあったカペルとの関係を、「彼は私にとって、父であり、兄であり、家族そのものだった」と語っています。 それほどまでに彼はシャネルにとって大切な人であり、彼もまたシャネルの才能を高く評価し支援をしました。 シャネルはカペルのファッションからもデザインのヒントを得ていたと言われています。 カペルの服を借りて着ていたことや、男性の洋服の素材などに注目し、後のシャージー素材を取り入れるきっかけにも繋がりました。 27歳、帽子店「シャネル・モード」の開店 翌年27歳の時、カペルの出資を受けてパリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」を開店します。 当時、女性がお店を持つことや女性が自立して働くことが当たり前ではない時代でしたが、カペルはシャネルの才能や強い意志を受け入れ支援し続けました。 後にファッション界で成功したシャネルは、カペルに支援の金額を全額返金します。 その時彼は、「おもちゃを与えたつもりだったのに、自由を与えてしまった」とシャネルに話したそうです。 2人の関係はシャネルが36歳の時、カペルが自動車事故で亡くなるまで続きますが、シャネルの自立した人生の大きなきっかけを与えたことは間違いありません。 1914年 — 31歳「第一次世界大戦の勃発と成功への第一歩」 ブティックを出店したドーヴィルの景色 ドーヴィル出店と第一次世界大戦 第一次世界大戦が起こる1年前の1913年、シャネルはフランスのリゾート地であるドーヴィルにブティックを出店します。 この出店も、カペルによる資金提供により実現しました。 ドーヴィルのブティックでは、帽子だけでなくリゾート地ふさわしい豪華でありながらカジュアルな洋服を打ち出し、この頃から使用し始めていたのがジャージー素材でした。 出店の翌年、第一次世界大戦が勃発します。 戦争の始まりと共に、パリから疎開のために上流階級の女性がこの地に押し寄せたことをきっかけに、ジャージー素材の洋服が受け入れられると確信したシャネルは量産を始めました。 ジャージー素材のドレスがアメリカのファッション誌に掲載される 1916年、シャネルのジャージー素材のドレスが、アメリカの「ハーパーズ・バザー」誌に掲載されます。 ドレスが注目されたきっかけは、第一次世界大戦の影響が大きく関係していました。 戦争の影響で、それまでドレスに使われていたようなシルクやサテンの素材が不足していいたこと、女性の社会進出が進み動きやすい服装が求められたことが、シャネルのジャージー素材ドレスとニーズがマッチしたのです。 これをきっかけに、高級ファンションに新しいジャージー素材が取り入れられるようになり、シャネル成功の第一歩となりました。 1923年 — 40歳「ウエストミンスター公爵との出逢いとシャネルのスタイル」 シャネルが愛用していたことから「シャネルツイード」と呼ばれるようにまでなった ウェストミンスター公爵との華やかな関係とファッションへの影響 シャネルと英国貴族とのつながりは深いものでしたが、1923年にヨーロッパ一の大富豪とまで言われたウェストミンスター公爵と出逢い恋人関係になります。 ウェストミンスター公爵と関係が続いた約10年の間に、リトルブラックドレス、ツイード素材のスーツなど数多くのシャネルスタイルが生まれます。 ウェストミンスター公爵との関係の中でシャネルスタイルに繋がるヒントを多く得ますが、中でも公爵のヨットの乗組員から影響を受けた、ボーダーのシャツにパンツを合わせたマリンルックは多くの女性から注目を集めました。 公爵のファッションからツイード素材を取り入れる シャネルスーツにも使われているツイード素材ですが、ウェストミンスター公爵の着ていたコートやジャケットからヒントを得たと言われています。 それまで、ツイードは男性のジャケットなどに使われるメンズ服の素材とされていました。 シャネルは、1928年にツイード素材を使ったスーツを発表しますが、この時初めて女性のファッションにツイード素材が取り入れられます。 柔軟で軽いツイード素材で作られたスーツは実用性が高く、動きやすさを徹底的に追求したデザインは長くシャネルスタイルの定番として残り続けることになりました。 1939年 — 56歳「第二次世界大戦の勃発によりファッション界から身を引く」 クリスチャン・ディオールの発表したニュールック 戦争が始まり、絶頂期を迎えた事業を閉める 1935年シャネル52歳の時、手がけていた事業は絶頂期を迎えました。 その4年後である1939年に第二次世界大戦が始まると、シャネルは突然アクセサリーや香水など一部のブティックを残しアトリエを閉めました。 解雇された従業員は3000人以上にも及び、考え直すよう説得されてもシャネルが応じることはありませんでした。 理由は明らかになっておらす、シャネル自身は戦争を理由にしていますが、事業が絶頂期を迎える中で過酷な労働環境に従業員がストライキしたことに対する報復とも言われています。 これをきっかけに、シャネルはカムバックするまでの約15年間、ファッション界から身を引くことになります。 戦後スイスへの亡命と新しいファッションへの危惧 1945年、長きにわたった第二次世界大戦が終戦します。 この前の年、シャネルはナチス軍に協力していたということで逮捕されます。 その時はチャーチル首相の計らいにより、わずか数時間で解放されていますが、終戦後は告発から逃れるためにスイスへ亡命しました。 シャネルがスイスに亡命している間、ファッション界ではクリスチャン・ディオールのニュールックが成功を収めます。 かつての伝統的なシルエットを復活させたニュールックは、シャネルのスタイルとは正反対とも言えるファッションでした。 シャネルはこれに対し危惧を抱きますが、戦争により活動をやめ亡命している身であった彼女が復活したのは、ニュールック発表された1947年から7年後になります。 1954年 — 71歳「ファッション界へのカムバック、酷評からの復活」 シャネルスーツを着る女優のロミー・シュナイダーとココ・シャネル 71歳でファッション界へカムバック、酷評を受ける 1954年、シャネルはファッション界にカムバックします。 この時シャネルは71歳でした。 ファッション界から身を引き約15年経っていたこともあり、復帰第一回目のコレクションで「シャネルスーツ」を発表しますが、パリではかつてのスタイルと何も変わらないと酷評を受けました。 一方、女性の社会進出が進んでいたアメリカでは、シャネルの実用的な「シャネルスーツ」が高く評価されます。 復帰後3回目のコレクションを行う頃にはシャネルはかつての人気を取り戻し、生涯を終えるまでファッション界のトップに君臨しました。 ショルダーバックとバイカラーパンプスの誕生 カムバック翌年の1955年、今もCHANELの定番であるショルダーバッグ「シャネル2. 55」を発表します。 シャネルは1929年に、それまでのハンドバッグは片手がふさがれてしまうものだったことから、持ち手を長くしたショルダーバックを作成していました。 シャネル2. 55はかつてのバッグのデザインを一新したもので、チェーンの持ち手とキルティング風の見た目が特徴で、修道院での生活や乗馬を楽しんだかつての経験からインスピレーションを受け作成されています。 同じ年には、バイカラーのパンプスを発表し、つま先を黒にしたことで汚れを目立ちにくくするなど、実用性を考えたデザインで人気のアイテムとなりました。 カムバック後も、シャネルのスタイルを象徴するアイテムを精力的に生み出しました。 1971年 — 87歳「パリで最期を迎える」 1970年のココ・シャネル 長年過ごしたパリで最期を迎える 最期までファッション界の第一線で活躍したシャネルは、この年の1月10日にパリのホテル・リッツで亡くなります。 前日まで普段と変わらす仕事をしていましたが、友人との食事を終えたあと気分が悪くなったシャネルは早めに休みます。 その時メイドに「人はこんな風に死ぬのよ」と自分の死を察したかのように語り、その後目を覚ますことはありませんでした。 パリのマドレーヌ寺院で行われた葬儀には、シャネルスーツを着たファッションモデルが参列し、本人の希望でシャネル自身もシャネルスーツ姿で埋葬さました。 「創造できなくなったとき、それは私が終わるとき」という言葉を残しているシャネルは、最期まで自分のスタイルを貫き通したのです。 ココ・シャネルの関連作品 おすすめ書籍・本・漫画 ココ・シャネルという生き方 第二次世界大戦後にカムバックした頃のシャネルが主人公として描かれた、シャーリー・マクレーン主演の映画です。 晩年のシャネルが過去を振り返りながら、ストーリーが進んでいきます。 シャネルのスタイルに関するエピソードが多く、デザイナーとしてのシャネルを知りたいという方にはこちらの映画がおすすめです。 関連外部リンク• ココ・シャネルについてのまとめ 時代の転換期において、ファッションを通して女性を自由に導き、ファッションのみならず彼女の生き方そのものが今なお愛され続けるココ・シャネル。 シャネルの自由で自立した生き方の裏側には、誰よりも自分に厳しく、何があっても信念を持ち続ける強さがありました。 CHANELは高級ブランドというイメージが強かったのですが、ココ・シャネルという人物や彼女のスタイルを知れば知るほど身近なものに感じる不思議な感覚がありました。 ファッションデザイナー、実業家、一人の女性として様々な顔を持つシャネルの魅力を、この記事から少しでも感じ取って頂ければ幸いです。

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ココ・シャネル(1981)

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映画のストーリー 結末の記載を含むものもあります。 1895年、当時10歳のガブリエル・シャネル、通称ココ(リエラ・フレチェット)の母が死亡。 父は彼女と妹ジュリアを田舎の孤児院に預けて渡来し二度と二人の前に現われなかった。 孤独な日々が続く。 ジュリアもココを残して世を去る。 18歳になったココ(マリー・フランス・ピジェ)は、大して年の違わない叔母のアドリエンヌ(ブリジット・フォッセー)の家に引きとられた。 優しい叔母はココにお針子の仕事を与え、つつましいながら安定した生活が始まった。 あるダンス・パーティで、ココは金持ちの地主エチエンヌ(ルトガー・ハウアー)と出会った。 勝気で情熱的なココに興味を持った彼は、彼女を屋敷に住まわせ、馬の世話をさせる。 だが彼女を恋人としては扱わないエチエンヌに対するココのいらだちが爆発した。 かつて愛人だった歌手のエミリエンヌ(カレン・ブラック)がやって来て、エチエンヌと激しく抱きあうのを見た時だ。 ココは彼に自分を抱くように命じる。 馬小屋での甘美な初体験。 エチエンヌは強がって大人ぶるココを優しくみつめる。 彼の友人でイギリス人のボーイ・カペル(ティモシー・ダルトン)が屋敷を訪れ、ココを一目見て愛情を抱く。 エミリエンヌの勧めで、ココはパリに帽子屋を開く。 今では軍人ロベルトの妻となったアドリエンヌをアシスタントにしたこの店は、金持ちの女の間で人気を得て、ココはパリの名物女となる。 彼女の最愛の恋人となったボーイが協力する。 大富豪の彼は私生児としての辛い過去を背負っており、ココにどこか共通の思いを感じ取っていたのだ。 1914年、戦争が始まり、ココは保温性のあるジャージを使って活動的なドレスを売り出し、大当たりをとる。 ドービルに開いた支店も順調だった。 戦時中にボーイはココに求婚する。 だが、戦争が終るとボーイは戦地で知り合った名門の女性と結婚した。 激しい怒りと絶望のあまり、ココは長い髪を切ってしまった。 ボーイを失ったココの生活は派手になっていく。 人妻ミシアとの間に友情以上の感情が生まれ、二人の間の会話から、のちに香水の傑作シャネルの5番が生まれることになる。 ココの前に再びボーイが現われ、妻と離婚調停中であることを告げ、もう一度自分の所へもどってほしいと訴える。 最初は耳を貸さなかったココだったが、やがてうなずき泣きくずれるのだった。 しかし、そのボーイは妻の所へ向かう途中、交通事故で死亡した。 過去のさまざまな思い出をかみしめながら、ココは第一回のファッション・ショウの会場にたっていた。

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