なつめ 名前。 棗の種類

女の子で 読めますか?キラキ…

なつめ 名前

影響を与えたもの• 、、 、、、、 多くの日本の作家 夏目漱石(なつめ そうせき、(3年) - (5年))は、の、、。 本名は 夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。 は愚陀仏。 代表作は『』『』『』など。 明治の文豪としての肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。 漱石の私邸に門下生が集った会はと呼ばれた。 の馬場下横町(現在の)出身。 大学時代にと出会い、を学ぶ。 (のちの、現在の)英文科卒業後、で教師、熊本で教授などを務めたあと、へ留学。 帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。 講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『』に発表。 これが評判になり『坊っちゃん』『』などを書く。 その後に入社し、『』『』などを掲載。 当初はと呼ばれた。 「修善寺の大患」後は、『』『こゝろ』『』などを執筆。 「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。 晩年はに悩まされ、『』が絶筆となった。 夏目漱石の母・千枝 夏目金之助(後の漱石)は、(3年)にのにて、の・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。 父の直克は江戸の牛込からまでの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵のもその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。 ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。 名の「金之助」は、生まれた日がに当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるというがあったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。 また、3歳頃には()に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。 金之助の祖父・は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。 しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。 とはいえ、当時は後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐにの古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 5、6歳頃の金之助 金之助はその後、(元年)11月、のところへに出された。 塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。 しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。 一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。 養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。 このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。 この養父には、漱石がに入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。 養父母との関係は、後の自伝的小説『』の題材にもなっている。 (明治7年)、浅草寿町下等小学第八級に入学後、金之助はを経てへと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。 12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の) に入学したが、(のちの)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で(14年)に中退し、漢学私塾(現在の)に入学する。 ただし、長兄・に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。 なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている。 しかし、長兄・大助がを志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。 大助は病気でを中退し、で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。 2年後の(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾 に入学し、頭角を現した。 大学予備門時代の金之助 (明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。 大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。 その友人は不合格であった。 大学予備門時代の下宿仲間には、後に総裁となるがいる。 予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、、、、らとともに「十人会」を組織している。 (明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。 その年、金之助はを患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第する。 その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。 以後、学業に励み、ほとんどの教科においてであった。 特に英語が頭抜けて優れていた。 正岡子規との出会い [ ] 夏目漱石句碑「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉」(京都市中京区御池通木屋町東入ル) (明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる・と出会う。 子規が手がけたやなどの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。 この時に初めて 漱石という号を使う。 漱石の名は、代の『』にある故事「」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。 「漱石」は子規の数多いのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。 同年9月、()を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。 漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。 以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の(明治35年)に子規が没するまで続く。 帝国大学時代の漱石(1892年12月) (明治23年)、創設間もなかった(のちの)英文科に入学。 この頃から・に陥り始めたともいわれる。 先立(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。 同年6月に次兄・と死別。 さらに直後の(明治24年)には三兄・の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。 漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。 翌年、特待生に選ばれ、教授の依頼で『』の英訳などをする。 (明治25年)、のために分家し、貸費生であったため、に籍を移す。 同年5月あたりから(現在の)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。 漱石と子規はの辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの『』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。 7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。 夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。 岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、邸に1か月あまり逗留する。 この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。 漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。 その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。 子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳のと出会う。 子規は(明治26年)3月、大学を中退。 イギリス留学 [ ] 愛媛県尋常中学校教師の漱石(1896年3月) (明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の)に英語教師として赴任する。 は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。 この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。 赴任中はに下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。 これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。 (明治29年)、熊本市の(の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のため症が激しくなり井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。 家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。 (明治31年)、ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社のを興し、俳句の指導をする。 同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 滞在時の夏目漱石の最後の家。 も参照 (明治33年)5月、より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、を命じられる。 9月10日に日本を出発。 最初のへの申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。 やをよく読み漁った。 大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、の英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくる研究家の(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。 「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。 このロンドンでの滞在中に、を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。 (明治34年)、化学者のと2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。 その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。 (明治35年)9月にらが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。 漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。 帰国時の船には、留学を終えた精神科医・がたまたま同乗しており 、の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石がを患っているためであろうと、いよいよ心配したという。 当時の漱石最後の下宿の反対側には、(59年)にによって「ロンドン漱石記念館」が設立された。 漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館。 漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のにある恒松宅の一部を改装して再開された。 作家への道と朝日新聞社入社 [ ] 帰国後の漱石が居住した千駄木の邸宅(現在はへ移築)。 漱石の前はが住んでいた。 (明治36年)1月20日に英国留学から帰国。 3月3日、東京の駒込町57番地に転入(現在の2-20-7、徒歩約10分。 現在は同窓会館。 敷地内に記念碑あり)。 同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。 同年4月、第一高等学校との講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。 当時の一高校長は、親友のであった。 東京帝大ではの後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶されるなどした。 また、当時の一高での受け持ちの生徒にがおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれる事となった。 こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居する。 (明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、の講師も務める(月給30円)。 その年の暮れ、高浜虚子から精神衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『』を執筆。 初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。 (明治38年)1月、『』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。 この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『』『』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。 漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であったとは対立すると呼ばれた。 漱石が東京帝国大学総長のへ宛てた辞表(1907年) (明治40年)2月、一切の教職を辞し、に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。 当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。 同年6月、職業作家としての初めての作品『』の連載を開始。 執筆途中に、神経衰弱やに苦しめられる。 (明治41年)3月23日にとで未遂事件を起こした門下のの後始末に奔走する()。 (明治42年)、親友だった満鉄総裁・の招きで・を旅行する。 この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 修善寺の大患 [ ] 夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園) (明治43年)6月、『』『』に続く前期三部作の3作目にあたる『』を執筆途中にで長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。 同年8月、療養のため門下のの勧めでのに出かけ、でする。 しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。 これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。 この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。 漱石自身も『』で、この時のことに触れている。 最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。 『』では、本音に近い真情の吐露が見られる。 同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。 その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。 (明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。 東京に戻った後は、にかかり通院。 (元年)9月、痔の再手術。 同年12月には、『』も病気のため初めて執筆を中絶する。 (大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。 (大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。 作品は人間のを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『』『』『』へと繋がっていく。 (大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。 6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『』の連載を開始。 (大正5年)にはにも悩まされる。 その年、の結婚式に出席して後の、体内出血を起こし『』執筆途中に自宅で死去(49歳10か月)。 最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。 だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。 死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室においてによって解剖される。 その際に摘出されたとは寄贈された。 脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で医学部に保管されている。 重さは1,425グラムであった。 戒名は文献院古道漱石居士。 墓所はの(1種14号1側3番)。 (59年)から(16年)まで発行されたに肖像が採用された。 略年譜 [ ]• (3年) - 江戸牛込馬場下横町(現・喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。 夏目家は代々であったが、当時家運が衰えていたため、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたものの、すぐに連れ戻される。 (元年)11月 - 新宿の・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。 (明治2年) - ・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。 (明治3年) - がもとでを病み、顔に瘢痕(あばた)が残る。 「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。 (明治6年) - 養父・昌之助と養母・やすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。 浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。 現・)に入学。 (明治9年) - 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。 市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・)に転校。 大学予備門時代の金之助(1886年)• (明治17年) - 小石川極楽水の新福寺二階にと下宿。 生活をしながらに通学。 9月 - (明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の)に名称変更)予科入学。 同級に、、、などがいた。 (明治18年) - 、ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。 (明治19年)7月 - のため。 この落第が転機となり、のち卒業までを通す。 中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。 (明治20年) - 3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助がともに肺病のため死去。 急性を患い、自宅に帰る。 夏に初めての富士登山。 (明治21年)• 1月 - 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。 7月 - 第一高等中学校予科を卒業。 9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。 (明治22年)• 1月 - との親交が始まる。 (明治23年)• 7月 - 第一高等中学校本科を卒業。 9月 - (のちの)文科大学英文科入学。 文部省の貸費生となる。 第一高等学校本館玄関前の漱石(1907年2月)• (明治36年)• 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。 10月 - 三女・栄子誕生。 を始め、書もよくした。 (明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。 (明治38年)1月 - 『』を『』に発表(翌年8月まで断続連載)。 12月 - 四女・愛子誕生。 (明治39年)4月 - 『』を『』に発表。 (明治40年)• 1月 - 『』を『ホトトギス』に発表。 4月 - 一切の教職を辞し、に入社。 職業作家としての道を歩み始める。 6月 - 長男・純一誕生。 『』を『』に連載( - 10月)。 (明治41年)• 1月『坑夫』( - 4月)、6月『文鳥』、7月『夢十夜』( - 8月)、9月『三四郎』( - 12月)を『朝日新聞』に連載。 12月 - 次男・伸六誕生。 (明治42年)3月 - 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。 (明治43年)• 3月 - 五女・雛子誕生。 6月 - のための長与胃腸病院に入院。 8月 - 療養のために転地。 同月24日夜、大吐血があり、一時危篤状態に陥る。 10月 - 長与病院に入院。 (明治44年)• - からの号授与を辞退。 8月 - 朝日新聞社主催の講演会のために明石、和歌山、堺、大阪に行き、大阪で胃潰瘍が再発し、湯川胃腸病院に入院。 - 五女・雛子、原因不明の突然死。 のちの漱石の遺体解剖の遠因となる。 (2年)• 1月 - ひどいが再発。 3月 - 胃潰瘍再発。 5月下旬まで自宅で病臥した。 北海道からに再転籍する。 「漱石山房」書斎の漱石(1914年)• (大正3年)• 4月 - 『』を『朝日新聞』に連載( - 8月)。 11月 - 「私の個人主義」をで講演。 (大正4年)• 6月 - 『道草』を『朝日新聞』に連載( - 9月)。 11月 - 中村是公とに遊ぶ。 12月 - 、が門下に加わった。 このころからに悩む。 (大正5年)• 1月 - リウマチの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。 5月 - 『』を『朝日新聞』に連載( - 12月)。 - 午後7時前、胃潰瘍により死去。 ・文献院古道漱石居士。 (昭和59年)11月 - に肖像が採用される。 栄典 [ ]• (明治29年) -• (明治32年) - 作品一覧 [ ] 小説 [ ] 中・長編小説 [ ]• 文学論(1907年5月、大倉書店・服部書店)• 文学評論(1909年3月、春陽堂) 随筆• 私の個人主義(1914年)。 他に「道楽と職業」「中味と形式」「文芸と道徳」などがある。 漱石俳句集(1917年11月、岩波書店)• 漱石詩集 印譜附(1919年6月、岩波書店) 新体詩• 従軍行(1904年5月、『帝国文学』10巻5号) 画• 我輩はお先真っ暗の猫である• 自作の『吾輩は猫である』のパロディ。 全集 [ ]• 漱石全集(1993年 - 1999年、岩波書店、全28巻・別巻1)。 2016年12月より新版刊• 漱石文学全集(1982年 - 1983年、集英社、全10巻)• 夏目漱石全集(1987年 - 1988年、、全10巻)• 旧版「夏目漱石全集 筑摩全集類聚」 (、全10巻・別巻1)• (1999年、、全11巻)• (2001年、、全5巻)• (2002年、、全8巻) 映像化作品 [ ]• 吾輩は猫である(1935年、、監督:)• 坊っちゃん(1953年、東宝、監督:)• こゝろ(1955年、監督:)• 三四郎(1955年、監督:)• 坊っちゃん(1958年、監督:)• 坊っちゃん(1966年、監督:)• 心(1973年、原作「こゝろ」監督:)• 吾輩は猫である(1975年、監督:市川崑)• 坊っちゃん(1977年、監督:)• それから(1985年、監督:)• ユメ十夜(2006年、監督:) 家族・親族 [ ] 夏目家はには身分のだったが、祖先は武家で、()家臣のの曾孫にあたるを祖とする。 漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。 子供らの生年月は次のようになっている。 明治32年(1899年)5月 - 長女 筆子誕生。 明治34年(1901年)1月 - 次女 恒子誕生。 明治36年(1903年)11月 - 三女 栄子誕生。 明治38年(1905年)?月 - 四女 愛子誕生。 明治40年(1907年)6月 - 長男 純一誕生。 明治41年(1908年)12月 - 次男 伸六誕生。 明治43年(1910年)3月 - 五女 雛子誕生(1歳で死亡)。 夏目家 [ ] 夏目家の()によると、何代目か前の先祖がに仕え、夏目邑を賜わり、それから数代後にが没落したため、から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れてとなった。 (15年)旧暦4月、の時、名主に任じられた。 生誕の地の碑も坂に面している。 なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。 これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。 父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。 千枝は直克のであり、伊豆橋という新宿の屋の娘だった。 『夏目漱石 人と作品3』 11頁によると、「遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。 その家族は店と別に住み、遊芸やをして過ごすというふうで、的な生活をしていたのである。 しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。 そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝のお出入りのの妹としてしたが、表向きは四谷大番町の鍵屋というから嫁いだことにしていた。 そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。 直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。 三兄・和三郎()の孫に、芸能プロダクション経営者でのCFで漱石役を演じたがいる。 三兄・和三郎()の別の孫に朝日新聞社員(『』副編集長、『』編集長、『』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の。 妻 - との間に2男5女。 次女・恒子は、『其面影』を著している。 四女・愛子は、の少女像のモデルとなっている。 五女・雛子は1歳で亡くなっている。 そのの緒が発見され、が購入している。 長男家 [ ]• 長男 - (バイオリニスト)• 孫 - (漫画批評家・エッセイスト、純一の長男)• 曾孫 - (ライター・エディター、房之介の長男) 長女家 [ ]• 長女 - (作家、1899-1989)熊本県出身。 日本女子大付属高女卒。 本名・筆。 娘婿 - (作家、筆子の夫)• 孫 - (名誉教授、筆子の次女)• 孫 - (エッセイスト、筆子の四女) 次男家 [ ]• 次男 - ()• 孫 - (伸六の長女)• 曾孫 - ・、沙代子の三男• 曾孫 - (、沙代子の次男)• 玄孫 - 夏目ひみか(、沙代子の長女の娘) 夏目漱石書 五言絶句「芳菲看漸饒 韶景蕩詩情 却愧丹青枝 春風描不成」 漱石の門下生とされる者には、作家だけでなく、様々な分野の学者・文化人が含まれている。 彼らによって漱石の影響は広汎な文化領域に及び、大正後期から昭和初期の知識人の間でスタンダードな価値観を形成した。 そこで、はこの時期に「漱石文化」が成立していた とし、その発信源となった門下生の集団はによって 漱石山脈と命名されている。 門下の画家とされるの「漱石山房と其弟子達」が彼らの姿を描いた絵画として有名で、以下の顔ぶれが見られる。 (臼川)• また、以下の作家も漱石門下に連なっている。 更に、以下の学者・文化人も漱石門下とされている。 漱石は彼らと、自分の後継者を養成するという意味での師弟関係を結んでいたわけではない。 漱石が教員だった時期の教え子もかなりの割合を占めているが、多くは木曜の面会日(所謂「」)を中心に客としてやって来た青年で、漱石との交流を通じて強い感化を受け、門下を称するに至ったものである。 ただ、漱石は木曜会においてもほとんど対等の立場で彼らと議論しており、は自分が師事したと比べ「漱石氏の場合は事情が少し違って、厳密な意味の師弟関係とはいへない、各人は相当自由な態度でゐられたやうに思ふ」という。 門下生の一人とされる阿部次郎も次のように述べている。 「若し門下生とは、先生と正式に師弟の約を結んだ者を意味するならば、自分は先生には門下生なるものが全くなかったと云ひたい。 固より先生の周囲には多くの若い人達が集ってゐた。 先生と此等の人達との間には、先輩及び後輩として、今日の日本の文壇では他に見られないほどの親しみがあった。 併し此等の人達は、先生がその道を伝へるために、特に簡抜された人達ではなかった。 (中略)先生は唯その寛容な心を以て、自然にその門に集って来る青年を接見して、之と話をしたり、その相談に預かったり、時としてはその世話をされたりしたに過ぎなかった。 所謂先生の門下生となるには、唯先生の風を慕って、木曜日にその家の客となれば足りたのである。 先生と所謂門下生との関係は最初はこれほどの意味に過ぎない。 (中略)先生はいつも独立を重んぜられる人であったから、所謂門下生に対して自分の意見を強制するやうなことは殆んどないやうに見受けられた。 さうして実際先生と所謂門下生との間には、随分激しい意見の扞格があった。 」 また、阿部次郎が挙げている漱石門下のリストには、白樺派のやも含まれており、も彼らを事実上の弟子としている。 彼らは文壇に先輩や師を持たないというポリシーを持っており、漱石門下を自称することはなかったが、当時の文壇で漱石を最も尊敬していることを自認していて、漱石も彼らに目をかけていた。 彼らを上記の門下生と区別して、「直接の門下生ではなかった」とする見解もある が、漱石本人にそのような区分意識があったわけではない。 門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会を中心になって仕切っていたので、「漱石門下の四天王」と称されている。 中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。 時代から漱石と深い信頼関係にあった寺田寅彦は門下生中でも別格扱いされており、一番弟子と呼ばれることも多い。 一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、 から「漱石の最も正統な継承者」と評されている。 また、漱石文学の多様な性格のうち、「反自然主義の文学伝統は芥川龍之介に、倫理性は志賀直哉に、浪漫性は内田百閒に」継承されたという見解もある。 これらの作家のうち、一般的人気が最も高いのは芥川であり、学術面では阿部次郎・安倍能成・和辻哲郎が大正教養主義を主導して戦前のアカデミズムに大きな影響を与えたことから、はこの四人を「漱石文化の代表者」としている。 出版業界において「漱石文化」を普及させた最大の功労者が岩波茂雄である。 なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『』『』を連載させ、それが彼らの出世作となった。 大正3(1914)年、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。 志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤・野上弥生子らに依頼している。 そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった。 (ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12(1937)年にようやく完成させた。 これが彼の唯一の長編『』である)。 また漱石は明治42(1909)年、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。 そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。 大正4(1915)年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。 彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、二日後のに「新しき 女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。 漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 思想 [ ] アジア観 [ ] 1909年(明治42年)11月6日付の『』に掲載された漱石の随筆『(下)』の記事において、「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にしてに生れたと云ふ自覚を得た事である。 に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた。 同時に、余はやに生れなくつて、まあ善かつたと思つた。 彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ」などと書いており 、当時の漱石の「アジア観 」が示されている。 この一連の記事に対し、比較文学者のは、「漱石は帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。 に疑義を呈したやのような政治的叡智は示していない。 正直に『余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た』『余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた』と書いている。 『まあ』に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ」と評している。 伊藤博文暗殺事件への反応 [ ] 1909年(明治42年)付の『満洲日日新聞』に掲載された漱石の随筆『韓満所感(上)』の記事において、に触れており、「昨夜久し振りに寸閑を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認め出すと、伊藤公がで狙撃されたと云ふが来た。 哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有の兇変と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」 などとしたうえで「余の如き政治上の門外漢は(中略)報道するの資格がないのだから極めて平凡な便り丈(だけ)に留めて置く」などと書いており、伊藤博文の暗殺事件に対する感想が綴られている。 その他 [ ] この記事の内容の信頼性について。 確認のための文献やをご存じの方はご提示ください。 、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。 漱石と病気 [ ] 漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、、、、、、命取りとなったまで、多数の病気を抱えていた。 『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。 「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。 酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずやなどの脂っこい食事を好んだ。 大ので、療養中には当時貴重品だったを欲しがり、ついには家族に無断で業務用アイスクリーム製造機を取り寄せ、妻と大喧嘩になったこともある。 当時出回り始めたもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという。 胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れに風が吹きつける音にそっくりだったことから、「破障子」なるを作り、使用していたことがある。 また、漱石は(疱瘡)にかかっており、自分の容姿にを抱いていた。 しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。 精神医学上の研究対象 [ ] 漱石は、神経衰弱やあるいはを患っていたとされている。 このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のでもあった漱石の生涯および作品に対していかに影響を及ぼしているのかが、精神医学者の上の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。 漱石と鴎外 [ ] 望まれぬ末子としての町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられたは死ぬまでをはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。 夏目漱石は「」、森鴎外は「」と呼ばれた。 しかし、その一方では二人とも「の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広いをもって活動を進め、歪んでいくにおけるの主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応のを与えた。 なお、鴎外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸はのに移築保存されている。 神格化 [ ] 「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、のちの多くの批評家・研究家によって語られた論評である。 また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、『』にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残したわけではなく、漱石の発言を弟子たちが書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない。 この点については、の書いたもの、とりわけ『夏目漱石』(1938)も改めて精査する必要がある。 留学時の指導教授探し [ ] 熊本在住の英国人宣教師の母親と親しくなり、また渡航の船でも相談していることは彼の日記にある [ ]。 言葉遊びと造語 [ ] 漱石の作品には、順序の入れ替え、などの多用が見られる。 漱石以前に使った形跡が見られない造単語や一般的に使われている漢字とは異なる別種の綴りがある。 現在、下記の「浪漫」「沢山」のように一般用語化されたものも多いが、の上級問題として用いられることも多い。 単簡(簡単)• 笑談(冗談)• 八釜しい(やかましい)• 非道い(ひどい)• 浪漫(ロマン)• 沢山(たくさん)• 月並み(つきなみ) 時代の同窓生が旧派が毎月の一日に行う句会を「月並俳句」と呼んだことから。 転じて「ありきたりで面白みに欠けるもの」という意味として定着。 案排(あんばい) 普通は「塩梅」や「案配」と書く。 などので変換しても候補として出てこない。 烈敷(はげしく) 普通は「激しく」。 そもそも引用元の「坑夫」は「鉱夫」と書くのが普通。 「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。 しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前の全ての資料を確認しない限り、確定はできない。 「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」などは漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。 一例としては、漱石が「」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃(江戸時代後期)からの、に用例が見られる。 学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある。 漢詩 [ ] 日本人が作ったの中にはが合っていてもでのまで意識していないものもあるため、中国語で吟じられた場合には優れた漢詩とされにくい場合がある。 しかし、漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しい とされ、(平成17年)には『中国語で聞く 夏目漱石漢詩選』(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。 漱石の漢詩についての先駆的研究書としては、『漱石詩注』((昭和42年))があるが 、これは漱石の造詣が深かったの用語などに関しては注釈がないなどの不備があるとされている(『週刊読書人』勝又浩)。 またそれに先立ち、(昭和21年)、娘婿のが『漱石の漢詩』 を出版している。 (20年)に作家のにより『漱石の漢詩』 が発表された。 禅の観点から注釈されたものとしては『新訳 漱石詩集』 がある。 ほかに和田利男『漱石の漢詩』 がある。 2016年1月25日にが、漱石直筆の漢詩文屏風を古書店から購入したと発表した。 屏風は2枚折り1対、1枚が縦1m62、横80cm。 内容は『禅林句集』から春夏秋冬の場面が選ばれていた。 遺品 [ ] 早稲田南町の漱石山房は第二次世界大戦中に空襲で焼失したが、小宮豊隆が館長を務めた縁で蔵書・日記等の自筆資料の大半が付属図書館に移動されており焼失を免れている。 東北大学では「夏目漱石ライブラリ」として研究者へ公開している。 近年では原稿用紙の劣化が進んでいるため、2019年にはデジタルアーカイブとして保存する資金をで調達した。 では遺族から提供された書画や落款印の画像を「Web版夏目漱石デジタル文学館」として公開している。 日本国外での評価 [ ] 日本での絶大な名声に比較すると、での知名度はそれほど高いとは言えないものの、では主要な作品のいくつかが訳されており、一定の評価を得ている。 に、英国人による『草枕』の英訳 "The Three Cornered World" が刊行された。 これはのピアニストのが愛読するところとなり、晩年に、自らラジオ番組で一部分を朗読したことがある。 の批評家のは、「死後の生 マシャード・デ・アシス」(『書くこと、ロラン・バルトについて』所収)の中で漱石について、「ヨーロッパ中心の世界文学観が端に押しやってしまったもうひとりの多才な天才、夏目漱石」と評している。 の批評家で、に『倫敦塔』の翻訳 "The Tower of London" を刊行したは、漱石をやなどに並ぶ世界的な文豪であると評価したうえで、イギリスなど欧米ではほとんど漱石が認知されておらず、その理由として、やのような「日本らしさ」が漱石には感知されないためではないかとしている。 しかしフラナガンによれば、漱石は単に「日本文学」を代表するのみならず、人間や心の普遍性を探求した世界文学であり、現在はそのように認知されていないが、シェイクスピアが世界的な評価を得るに至ったのは、やゲーテなどによるところが大きいことを引用しながら賞賛している。 アメリカの比較文学者(Jay Rubin)の英訳 "Sanshiro A Novel"(出版局)に添付された自身執筆の評論 "SANSHIRO AND SOSEKI: A Critical Essay" は『』論として包括的で優れている。 漱石全集の本文を厳密に引用・英訳するルビンの姿勢には、漱石が世界文学の仲間入りをしていることを如実に感じさせる。 ルビンは他にも『坑夫』などを英訳している。 ・・ではよく知られており、多くの作品がやに訳されている。 中国語圏ではにより紹介されて以来、多くの読書人に愛されてきた。 韓国でも古くから漱石作品が親しまれてきたが、以降特に人気が高まり、「漱石ブーム」と言われるほどになった。 作品における差別表現問題 [ ] 『坑夫』における「芋中の」(芋の中で最下等のもの、の意)との表現が問題視され、角川書店はこの語を伏字にしたが、巻末の注で「特殊部落の人々への蔑称」と記述したためにかえって問題となり、1981年初めに部落解放同盟から糾弾された。 このくだりは、『夏目漱石全集4』(ちくま文庫)でも「芋中のヽヽ」と伏字になっている。 その他、1994年3月には『坊っちゃん』における「小使」()の語がの朗読の時間に問題となり、「それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ」などの文章をそのまま読み上げたうえで、朗読終了後にアナウンサーが弁解したことがある。 しかし、1994年4月からの『吾輩は猫である』では「 盲 ( めくら )」「 跛 ( びっこ )」などの表現が問題となり、これらの語は飛ばして朗読された。 また、漱石はからにかけて、のと名乗る者から缶入りの茶を贈られ、富士登山の絵に賛をしてくれ、に関する俳句を書いてくれとねだられたが断ったことがある。 すると岩崎は「書かないなら茶を返せ」としつこく要求を繰り返した。 漱石は岩崎の言動にあきれて「何(ど)うも穢多かでもなけりや、こんな鄙嗇(けち)なことは云はなかろう」と疑い、播州近くの男に岩崎の地元を調べさせた。 すると「坂越と云ふは播州でも素封家の揃つて居る所ださうだ」との回答であった。 現在は、作者が故人でありかつ文学作品であることから、これらが差別用語であることを認めたうえで、そのまま掲載されていることが多い。 このような取り扱いは他の故人の作家でも同様であることが多い。 有名イラストレーターの起用 [ ] 1980年代に、が漱石の一連の作品の表紙絵に当時流行のでのを起用している。 では、2007年から、販促活動である「夏の一冊 ナツイチフェア」において、人気漫画家が不朽の名作とされる作品の表紙イラストを書き下ろす企画が話題を集め、の世の若者が作品に触れるきっかけとなった。 この企画において、2008年には『』などの作画を担当したが『』の表紙絵に起用された。 また、2011年にはが『』の表紙絵を 、が『・』の表紙絵を描いている。 ただし漱石の著作や記録にはそのような話は残されておらず、また漱石からそれを直接聞いたという文献・記録も存在しない。 また似たような話は1970年代末にも存在し、そちらでは「月がとっても青いなあ」 ・「」 と訳したとされている。 典拠が不明で 、1970年代頃から言われ始めた逸話であることから、これは後世の者による創作である可能性が高いとされている。 夏目漱石を演じた人物 [ ] 映画• - (1963年、大映)• - 第三夜(2007年、日活)• - 第四夜(2007年、日活)• - 第八夜(2007年、日活)• - (2011年、ファントム・フィルム) テレビドラマ• - (1985年、テレビ朝日)• - (2005年、TBS)• - (2006年、TBS)• - (2009年-2011年、NHK)• - (2015年7月1日、NHK)• - (2016年、テレビ朝日)• - (2016年、NHK)• - (2016年、NHK)• - (2017年、) 夏目漱石を描いた作品 [ ]• 先生と僕(香日ゆら、メディアファクトリー)• (・、双葉文庫) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 当時は学校のあった地名をとって一ツ橋中学ないし一ツ橋尋常中学とも呼ばれた。 現在のとは無関係。 出身のにかわいがられ、教室以外でも先生の家に招かれて教えられ、「マードックさんは僕の先生だ。 ……英国人もあんな人許(ばかり)だと結構だが」と宛ての書簡に書いたり、マードックの『日本史』に推薦文を書いたりしている(『漱石の師マードック先生』 )。 狩野宛書簡に「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰つて来た。 日本人が英国人を真似ろ\/と云ふのは何を真似ろと云ふのか今以て分からない」と書いている。 夏目伸六の『父・漱石とその周辺』によれば次のよう。 ふと眼を開けた父の最期の言葉は、 「何か喰いたい」 という、この期に及んで未だに満し得ぬ食欲への切実な願望だったのである。 で、早速、医者の計いで一匙の葡萄酒が与えられることになったが、 「うまい」 父は最後の望みをこの一匙の葡萄酒のなかに味わって、又静かに眼を閉じたのである。 彼は其所で疱瘡をした。 大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。 彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。 身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。 〉「道草」(39)• 『』() 2009年7月3日放映分にて披露。 100万円で購入したそうである。 『硝子戸の中』に関連する記述あり。 の息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。 との親交が深かったことで、「父・夏目漱石」(文藝春秋社)を発表した。 門下生が集まれば必ず牛鍋を囲む。 羊羹、お汁粉、ケーキなど甘いものが好きで、特にお気に入りは自家製アイスクリームだった。 胃弱のためには大量の鶏肉を使ったスープを飲んでいたという。 なぜか鳥類のもらい物も多かった。 シャモ、カモ、山鳥、キジなどで、知人宅での雁の料理に舌鼓を打ったこともあったらしい(河内一郎『漱石、ジャムを舐める』)• 「吾輩は-」には1か月に8缶も舐めたとの記述がある。 医師のは「漱石非精神病説」を主張している。 漱石の精神病説の根拠は熊本の五高を辞職する時に出された神経衰弱の診断書と、妻、夏目鏡子の回想記『漱石の思ひ出』などに描かれた漱石の言動の記述や、同書で東大精神科のが、漱石を診断し、鏡子に漱石が病気であると告げたという記述があることであるが、辞職のために、五高に提出した診断書も書いた呉は、漱石が親しい菅虎雄の親友であり、また夏目家の家庭医、とも親しかった。 当時、実家に戻っていた、鏡子を、尼子を通した依頼で呉が説得した言葉が、鏡子のなかで漱石が精神病者であるという記憶に変わっていったのではないかと主張している。 『漱石の思ひ出』の記述を引用しただけの漱石の病跡学は学問的でないと主張している。 、を参照。 これより前に漱石が使用した例としては「同時にスコット一派の浪漫派を生まんがために存在した時期である。 」(『野分』11章、1907年1月)が最も早い。 また翌年の講演『創作家の態度』では「浪漫派」「浪漫主義」の語句が多く用いられている。 初版は十字屋書店。 昭和41年()に、で新装再刊。 たとえば押韻の問題について全く踏まえていないなどの問題があるとされる [ ]。 夏目漱石他著の小説文庫版の巻末参照 出典 [ ]• 『夏目漱石 人と作品3』 9頁• 『夏目漱石 人と作品3』 9頁• 『夏目漱石 人と作品3』 13頁• 「夏目漱石と二松學舎」『二松學舎百年史』、1977年、289-291頁。 歴史余話. 九州学院100周年記念歴史資料・情報センター. 2018年9月12日閲覧。 , p. 「赤いレンガ」 『医学芸術』 昭和57年10月号 斎藤茂吉生誕百年 坪井医院(千代田区神田和泉町1)のウェブサイトへの転載、平成23年11月3日閲覧• 斎藤茂太 『精神科医三代』 昭和46年刊• 朝日新聞デジタル(2019年5月9日)2019年5月18日閲覧。 『夏目漱石 人と作品』 41頁• 辞退の書面が掲載(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)• 『』第3963号「叙任及辞令」1896年9月11日。 『官報』第4885号「叙任及辞令」1899年10月10日。 『夏目漱石 人と作品3』 9頁• 角田秀雄『少女目にみゆ』(新評論)P. 『日本人名大辞典』• 現代に於ける「漱石文化」 『世界の一環としての日本』白揚社、1937年• 本多顕彰「漱石山脈」(『新潮』43(5)、1946年5月)なお、同論文は『新潮』編集者から「漱石山脈」という題で書くことを求められたものなので、厳密にはその編集者が命名者である。 「思い出るまま(九)師弟と朋党」(『徳田秋聲全集』第22巻、2001年、八木書店)。 紅葉の場合、門下生に交替で自宅の玄関番をさせたり、代作をさせたりするなど、徒弟制の性格が強いものであった。 「夏目先生のこと」(『阿部次郎全集』第13巻、1962年、角川書店)• 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 朝日新聞出版、2018年• 永田哲夫「白樺派研究 漱石への接近」、高知大学学術研究報告人文科学17 10 、1969年3月、高知大学• 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 朝日新聞出版、2018年• 佐々木亜紀子 野上彌生子の 先生 漱石という体験 教養と教育 共通科目研究交流誌 5 2005年 愛知教育大学• 『日本の文学 夏目漱石(三)』付録32「漱石山脈について」(中央公論社、1966年9月)• 現代に於ける「漱石文化」 『世界の一環としての日本』白揚社、1937年• 『武者小路実篤全集』第9巻「後書き」(1955年、新潮社)• 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 朝日新聞出版、2018年• 『』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『産経新聞』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『産経新聞』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『産経新聞』 2013年4月3日. 2013年8月7日閲覧。 『産経新聞』 2013年4月3日. 2013年8月7日閲覧。 『産経新聞』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『天才』p. 164 岩波新書(青版 621)• - 博物館明治村、2020年1月1日閲覧。 『』版50頁• 『』版326頁• 『』版80頁• ・(Jing, Hui)ら• 『漱石詩注』、1967年(昭和42年)。 で新版刊行。 『新訳 漱石詩集』柏書房、(平成6年)• 『漱石の漢詩』(文藝春秋・文春学藝ライブラリー(文庫)、2016年(平成28年))• 『』2016年1月26日 39面。 『』講談社インターナショナル、2007年• 『差別用語を見直す』p. 124• 「漱石山房座談」『反響』第1号、1914年4月。 野町均『永井荷風と部落問題』リベルタ出版、2012年、74-77頁。 ORICON NEWS. ORICON 2009年6月18日. 2018年3月14日閲覧。 コミックナタリー. 株式会社ナターシャ 2011年6月29日. 2018年3月14日閲覧。 MANTAN WEB. 2011年6月28日. 2018年3月14日閲覧。 小田島雄志「珈琲店のシェイクスピア」晶文社、1978年、236ページ• 豊田有恒「あなたもSF作家になれるわけではない」 徳間書店、1979年• にぐるた「」『にぐるたの物置』• 岐阜県図書館「」『レファレンス協同データベース』 国立国会図書館、2014年10月10日 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2019年12月)• 秋山豊 『漱石という生き方』(トランスビュー、2006年)• 『漱石はどう読まれてきたか』(、2010年)• 江藤淳 『漱石論集』(、1992年)• 江藤淳 『決定版 夏目漱石』(、改版2006年、)• 『増補版 漱石論集成』(平凡社ライブラリー、1997年)• 『漱石を読みなおす』(ちくま新書、1995年)• 『夏目漱石を江戸から読む』(中公新書、1995年)• 坂口昌弘『毎日が辞世の句』東京四季出版• 坂口昌弘『文人たちの俳句』本阿弥書店• 『漱石ゴシップ』(文春ネスコ、1993年)• 「118 夏目漱石」、『学問』所収(講談社、2004年、380 - 382頁)• 『夏目漱石 人と作品』(新書判:清水書院、1966年)• 『漱石 母に愛されなかった子』(岩波新書、2008年)• 『續 明暗』(筑摩書房、1990年、新潮文庫、ちくま文庫で再刊)• 原武哲「」『近代文学論集』第35号、九州支部、2009年11月。 『小林秀雄と夏目漱石 - その経験主義と内発的生』(総和社、2013年)• 廣木寧『江藤淳氏の批評とアメリカ』(慧文社)2010年• 荻原雄一『改訂 漱石の初恋』(未知谷) 2015年• 荻原雄一『〈漱石の初恋〉を探して 「井上眼科の少女」とは誰か』(未知谷)2016年• ウィクショナリーの ウィキブックスの ウィキクォートの ウィキソースの コモンズで() ウィキデータの• - 漱石が耳納連山を歩いた体験は『草枕』に活かされている。 - 漱石の先祖。 三河に仕え、の忠臣として知られる。 - 妻• - 同書にあるのエピソードが「漱石」の号の出典• - 作・演出の舞台。 英国留学時代の漱石を元に描かれている。 - 生誕150周年を記念した博物館。 外部リンク [ ]• - (2015年3月26日アーカイブ分)• の死没後100年との生誕150年を記念し、2年をまたぐ形で漱石関連のイベントや作文コンクール、展示会などを展開する大規模キャンペーン。 (小宮豊隆への書簡) オンライン・テキスト [ ]• - 東北大学附属図書館• - (パブリックドメインオーディオブック) 施設など [ ]•

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棗(ナツメ)の花言葉

なつめ 名前

子供の名づけについてご意見お願いします。 幼稚園に通う現在3歳の娘がおります。 娘との入浴時間にお腹にいる もう1人の娘(8ヶ月)の名前を何にするかをよく話します。 」 そんな繰り返しの中、私が思いつきで言った『なつめちゃん』という名前を 大変気に入ってしまいました。 本当に思いつきで言ったのですが、 それから娘は毎日のように私のお腹に語りかけるようになりました。 「なつめちゃん、お姉ちゃん幼稚園行ってくるねー。 」 「なつめちゃん、おやすみぃ。 」などなど。。。 そんな娘を見ていると、なんだか私もすっかり馴染んでしまいました。 「特に~な子に育ってほしい、などの意味もなくてもいいのかな・・・ でも、二人で一緒に考えたし、意味はこれからでもいいかな・・。 」 と、私も自分で言い聞かせるようにはしているのですが、困ったのは『漢字』です。 夏芽? 夏明? 捺芽? 捺明? ちなみに出産予定日は4月23日です。 なのに『夏』という漢字が入ってはおかしいでしょうか? こんなふうな流れの名づけについてのご意見、または、 春生まれなのに『夏』という漢字がつくことについてのご意見をお聞かせください。 この他に良い漢字があればアドバイスいただければと思います。 私だったらひらがなにします。 夏という漢字を使うと夏を余計に連想してしまいますが、ひらがなならほんわかして優しい感じになる気がするので春っぽくもかるかな…と思いました。 お姉ちゃんと一緒に決めてくれた名前と知ったら意味とかより嬉しいと思いますよ~。 私の名前はおばあちゃんが勝手に決めて呼んでいたことから付けた名前らしく、両親に聞いても意味とかもわからないと言われましたが、悲しくなることも嫌だと思うこともありませんでしたよ。 (すごく変わった名前です(笑)) 私の子も女の子みたいですでに名前も決めて毎日呼んでます!旦那さんが思いついた名前で、もうそれ以外は考えられないと言われて決めました。

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棗(ナツメ)の花言葉

なつめ 名前

影響を与えたもの• 、、 、、、、 多くの日本の作家 夏目漱石(なつめ そうせき、(3年) - (5年))は、の、、。 本名は 夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。 は愚陀仏。 代表作は『』『』『』など。 明治の文豪としての肖像にもなり、講演録「私の個人主義」も知られている。 漱石の私邸に門下生が集った会はと呼ばれた。 の馬場下横町(現在の)出身。 大学時代にと出会い、を学ぶ。 (のちの、現在の)英文科卒業後、で教師、熊本で教授などを務めたあと、へ留学。 帰国後は東京帝国大学講師として英文学を講じ、講義録には『文学論』がある。 講師の傍ら『吾輩は猫である』を雑誌『』に発表。 これが評判になり『坊っちゃん』『』などを書く。 その後に入社し、『』『』などを掲載。 当初はと呼ばれた。 「修善寺の大患」後は、『』『こゝろ』『』などを執筆。 「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。 晩年はに悩まされ、『』が絶筆となった。 夏目漱石の母・千枝 夏目金之助(後の漱石)は、(3年)にのにて、の・千枝夫妻の末子(五男)として出生した。 父の直克は江戸の牛込からまでの一帯を治めていた名主で、公務を取り扱い、大抵のもその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っており、生活も豊かだった。 ただし、母の千枝は子沢山の上に高齢で出産したことから「面目ない」と恥じたといい、金之助は望まれない子として生まれたといえる。 名の「金之助」は、生まれた日がに当たり、この日に生まれた赤子は大泥棒になるというがあったことから厄除けの意味で「金」の字が入れられたものである。 また、3歳頃には()に罹患し、このときできた痘痕は目立つほどに残ることとなった。 金之助の祖父・は道楽者で浪費癖があり、死ぬ時も酒の上で頓死したと言われるほどの人であったため、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。 しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。 とはいえ、当時は後の混乱期であり、夏目家は名主として没落しつつあったのか、金之助は生後すぐにの古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻したと伝わる。 5、6歳頃の金之助 金之助はその後、(元年)11月、のところへに出された。 塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。 しかし、昌之助の女性問題が発覚するなど塩原家は家庭不和になり、金之助は7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。 一時期、漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいたという。 養父母の離婚により金之助は9歳のとき生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。 このように、漱石の幼少期は波乱に満ちていた。 この養父には、漱石がに入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。 養父母との関係は、後の自伝的小説『』の題材にもなっている。 (明治7年)、浅草寿町下等小学第八級に入学後、金之助はを経てへと転校を繰り返したが、錦華小学校へ移った理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。 12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の) に入学したが、(のちの)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため、中学には2年ほどの在籍で(14年)に中退し、漢学私塾(現在の)に入学する。 ただし、長兄・に咎められるのを嫌い、中退後も弁当を持って一中に通うふりをしていた。 なお、中学中退の直前には実母の千枝が死去しており、そのショックと二松學舎への入学とは漱石の内面でかなり深くつながっていたのではないかと指摘されている。 しかし、長兄・大助がを志すことに反対したためもあり、二松學舎も一年で中退した。 大助は病気でを中退し、で翻訳係をしていたが、出来のよかった末弟の金之助を見込み、大学を出させて立身出世をさせることで、夏目家再興の願いを果たそうとしていた。 2年後の(明治16年)、金之助は英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾 に入学し、頭角を現した。 大学予備門時代の金之助 (明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。 大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えてもらっていたことも幸いした。 その友人は不合格であった。 大学予備門時代の下宿仲間には、後に総裁となるがいる。 予備門時代の金之助は「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、、、、らとともに「十人会」を組織している。 (明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。 その年、金之助はを患い、予科二級の進級試験が受けられず是公とともに落第する。 その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。 以後、学業に励み、ほとんどの教科においてであった。 特に英語が頭抜けて優れていた。 正岡子規との出会い [ ] 夏目漱石句碑「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉」(京都市中京区御池通木屋町東入ル) (明治22年)、金之助は同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる・と出会う。 子規が手がけたやなどの文集『七草集』が学友らの間で回覧された時、金之助がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。 この時に初めて 漱石という号を使う。 漱石の名は、代の『』にある故事「」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。 「漱石」は子規の数多いのうちの一つであったが、後に漱石は子規からこれを譲り受けている。 同年9月、()を旅した時の模様を漢文でしたためた紀行『』の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。 漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。 以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の(明治35年)に子規が没するまで続く。 帝国大学時代の漱石(1892年12月) (明治23年)、創設間もなかった(のちの)英文科に入学。 この頃から・に陥り始めたともいわれる。 先立(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。 同年6月に次兄・と死別。 さらに直後の(明治24年)には三兄・の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。 漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。 翌年、特待生に選ばれ、教授の依頼で『』の英訳などをする。 (明治25年)、のために分家し、貸費生であったため、に籍を移す。 同年5月あたりから(現在の)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。 漱石と子規はの辺りを一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの『』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。 7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規とともに、初めての関西方面の旅に出る。 夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。 岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、邸に1か月あまり逗留する。 この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。 漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。 その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。 子規の家で、のちに漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳のと出会う。 子規は(明治26年)3月、大学を中退。 イギリス留学 [ ] 愛媛県尋常中学校教師の漱石(1896年3月) (明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の)に英語教師として赴任する。 は子規の故郷であり、ここで2か月あまり静養を取った。 この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。 赴任中はに下宿したが、52日間に渡って正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。 これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。 (明治29年)、熊本市の(の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のため症が激しくなり井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。 家庭面以外では漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。 (明治31年)、ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社のを興し、俳句の指導をする。 同社は多くの俳人を輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。 滞在時の夏目漱石の最後の家。 も参照 (明治33年)5月、より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、を命じられる。 9月10日に日本を出発。 最初のへの申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。 やをよく読み漁った。 大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、の英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくる研究家の(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。 「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。 このロンドンでの滞在中に、を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。 (明治34年)、化学者のと2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人籠って研究に没頭し始める。 その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。 (明治35年)9月にらが訪れた際には「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出たためか、「夏目発狂」の噂が文部省内に流れる。 漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。 帰国時の船には、留学を終えた精神科医・がたまたま同乗しており 、の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石がを患っているためであろうと、いよいよ心配したという。 当時の漱石最後の下宿の反対側には、(59年)にによって「ロンドン漱石記念館」が設立された。 漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されていたが、イギリスの(EU)離脱への動きによる影響で、2016年9月末をもって閉館。 漱石ファンからの強い要望で、2019年5月8日、ロンドン南郊のにある恒松宅の一部を改装して再開された。 作家への道と朝日新聞社入社 [ ] 帰国後の漱石が居住した千駄木の邸宅(現在はへ移築)。 漱石の前はが住んでいた。 (明治36年)1月20日に英国留学から帰国。 3月3日、東京の駒込町57番地に転入(現在の2-20-7、徒歩約10分。 現在は同窓会館。 敷地内に記念碑あり)。 同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。 同年4月、第一高等学校との講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。 当時の一高校長は、親友のであった。 東京帝大ではの後任として教鞭を執ったが、前任者であった八雲の、一度口を開けばたちまち教室全体を詩的空気に包み込み酔わせてしまうような講義に対し、漱石の分析的な硬い講義は不評で、学生による八雲留任運動が起こったり、不平不満を陰口にされて貶されるなどした。 また、当時の一高での受け持ちの生徒にがおり、ある授業中に態度の悪さを漱石に叱責された数日後、に入水自殺してしまい、それに伴い一高の生徒や同僚の教師達だけでなく、事件に衝撃を受けた知識人達の間で「漱石が藤村を死に追いやった」と謂われのない噂が囁かれる事となった。 こうした職場での風評被害に苛まれて苦悩した結果、とうとう漱石は神経衰弱を患ってしまい、授業中や家庭において頻繁に癇癪を起こしては暴れまわるようになり、欠席・代講が増え、妻とも約2か月別居する。 (明治37年)にはある程度落ち着きを取り戻し、の講師も務める(月給30円)。 その年の暮れ、高浜虚子から精神衰弱の治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『』を執筆。 初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。 (明治38年)1月、『』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。 この頃から作家として生きていくことを熱望し始め、その後『』『』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。 漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であったとは対立すると呼ばれた。 漱石が東京帝国大学総長のへ宛てた辞表(1907年) (明治40年)2月、一切の教職を辞し、に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。 当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。 同年6月、職業作家としての初めての作品『』の連載を開始。 執筆途中に、神経衰弱やに苦しめられる。 (明治41年)3月23日にとで未遂事件を起こした門下のの後始末に奔走する()。 (明治42年)、親友だった満鉄総裁・の招きで・を旅行する。 この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。 修善寺の大患 [ ] 夏目漱石の墓(雑司ヶ谷霊園) (明治43年)6月、『』『』に続く前期三部作の3作目にあたる『』を執筆途中にで長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。 同年8月、療養のため門下のの勧めでのに出かけ、でする。 しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。 これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。 この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。 漱石自身も『』で、この時のことに触れている。 最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。 『』では、本音に近い真情の吐露が見られる。 同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。 その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。 (明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。 東京に戻った後は、にかかり通院。 (元年)9月、痔の再手術。 同年12月には、『』も病気のため初めて執筆を中絶する。 (大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。 (大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。 作品は人間のを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『』『』『』へと繋がっていく。 (大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。 6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『』の連載を開始。 (大正5年)にはにも悩まされる。 その年、の結婚式に出席して後の、体内出血を起こし『』執筆途中に自宅で死去(49歳10か月)。 最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。 だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。 死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室においてによって解剖される。 その際に摘出されたとは寄贈された。 脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で医学部に保管されている。 重さは1,425グラムであった。 戒名は文献院古道漱石居士。 墓所はの(1種14号1側3番)。 (59年)から(16年)まで発行されたに肖像が採用された。 略年譜 [ ]• (3年) - 江戸牛込馬場下横町(現・喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。 夏目家は代々であったが、当時家運が衰えていたため、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたものの、すぐに連れ戻される。 (元年)11月 - 新宿の・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。 (明治2年) - ・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。 (明治3年) - がもとでを病み、顔に瘢痕(あばた)が残る。 「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。 (明治6年) - 養父・昌之助と養母・やすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。 浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。 現・)に入学。 (明治9年) - 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。 市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・)に転校。 大学予備門時代の金之助(1886年)• (明治17年) - 小石川極楽水の新福寺二階にと下宿。 生活をしながらに通学。 9月 - (明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の)に名称変更)予科入学。 同級に、、、などがいた。 (明治18年) - 、ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。 (明治19年)7月 - のため。 この落第が転機となり、のち卒業までを通す。 中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。 (明治20年) - 3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助がともに肺病のため死去。 急性を患い、自宅に帰る。 夏に初めての富士登山。 (明治21年)• 1月 - 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。 7月 - 第一高等中学校予科を卒業。 9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。 (明治22年)• 1月 - との親交が始まる。 (明治23年)• 7月 - 第一高等中学校本科を卒業。 9月 - (のちの)文科大学英文科入学。 文部省の貸費生となる。 第一高等学校本館玄関前の漱石(1907年2月)• (明治36年)• 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。 10月 - 三女・栄子誕生。 を始め、書もよくした。 (明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。 (明治38年)1月 - 『』を『』に発表(翌年8月まで断続連載)。 12月 - 四女・愛子誕生。 (明治39年)4月 - 『』を『』に発表。 (明治40年)• 1月 - 『』を『ホトトギス』に発表。 4月 - 一切の教職を辞し、に入社。 職業作家としての道を歩み始める。 6月 - 長男・純一誕生。 『』を『』に連載( - 10月)。 (明治41年)• 1月『坑夫』( - 4月)、6月『文鳥』、7月『夢十夜』( - 8月)、9月『三四郎』( - 12月)を『朝日新聞』に連載。 12月 - 次男・伸六誕生。 (明治42年)3月 - 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。 (明治43年)• 3月 - 五女・雛子誕生。 6月 - のための長与胃腸病院に入院。 8月 - 療養のために転地。 同月24日夜、大吐血があり、一時危篤状態に陥る。 10月 - 長与病院に入院。 (明治44年)• - からの号授与を辞退。 8月 - 朝日新聞社主催の講演会のために明石、和歌山、堺、大阪に行き、大阪で胃潰瘍が再発し、湯川胃腸病院に入院。 - 五女・雛子、原因不明の突然死。 のちの漱石の遺体解剖の遠因となる。 (2年)• 1月 - ひどいが再発。 3月 - 胃潰瘍再発。 5月下旬まで自宅で病臥した。 北海道からに再転籍する。 「漱石山房」書斎の漱石(1914年)• (大正3年)• 4月 - 『』を『朝日新聞』に連載( - 8月)。 11月 - 「私の個人主義」をで講演。 (大正4年)• 6月 - 『道草』を『朝日新聞』に連載( - 9月)。 11月 - 中村是公とに遊ぶ。 12月 - 、が門下に加わった。 このころからに悩む。 (大正5年)• 1月 - リウマチの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。 5月 - 『』を『朝日新聞』に連載( - 12月)。 - 午後7時前、胃潰瘍により死去。 ・文献院古道漱石居士。 (昭和59年)11月 - に肖像が採用される。 栄典 [ ]• (明治29年) -• (明治32年) - 作品一覧 [ ] 小説 [ ] 中・長編小説 [ ]• 文学論(1907年5月、大倉書店・服部書店)• 文学評論(1909年3月、春陽堂) 随筆• 私の個人主義(1914年)。 他に「道楽と職業」「中味と形式」「文芸と道徳」などがある。 漱石俳句集(1917年11月、岩波書店)• 漱石詩集 印譜附(1919年6月、岩波書店) 新体詩• 従軍行(1904年5月、『帝国文学』10巻5号) 画• 我輩はお先真っ暗の猫である• 自作の『吾輩は猫である』のパロディ。 全集 [ ]• 漱石全集(1993年 - 1999年、岩波書店、全28巻・別巻1)。 2016年12月より新版刊• 漱石文学全集(1982年 - 1983年、集英社、全10巻)• 夏目漱石全集(1987年 - 1988年、、全10巻)• 旧版「夏目漱石全集 筑摩全集類聚」 (、全10巻・別巻1)• (1999年、、全11巻)• (2001年、、全5巻)• (2002年、、全8巻) 映像化作品 [ ]• 吾輩は猫である(1935年、、監督:)• 坊っちゃん(1953年、東宝、監督:)• こゝろ(1955年、監督:)• 三四郎(1955年、監督:)• 坊っちゃん(1958年、監督:)• 坊っちゃん(1966年、監督:)• 心(1973年、原作「こゝろ」監督:)• 吾輩は猫である(1975年、監督:市川崑)• 坊っちゃん(1977年、監督:)• それから(1985年、監督:)• ユメ十夜(2006年、監督:) 家族・親族 [ ] 夏目家はには身分のだったが、祖先は武家で、()家臣のの曾孫にあたるを祖とする。 漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。 子供らの生年月は次のようになっている。 明治32年(1899年)5月 - 長女 筆子誕生。 明治34年(1901年)1月 - 次女 恒子誕生。 明治36年(1903年)11月 - 三女 栄子誕生。 明治38年(1905年)?月 - 四女 愛子誕生。 明治40年(1907年)6月 - 長男 純一誕生。 明治41年(1908年)12月 - 次男 伸六誕生。 明治43年(1910年)3月 - 五女 雛子誕生(1歳で死亡)。 夏目家 [ ] 夏目家の()によると、何代目か前の先祖がに仕え、夏目邑を賜わり、それから数代後にが没落したため、から武州埼玉郡岩槻邑に移り、さらに後武州豊島郡牛籠村に隠れてとなった。 (15年)旧暦4月、の時、名主に任じられた。 生誕の地の碑も坂に面している。 なお、漱石自身の家紋は「菊菱」である。 これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は違う家紋を用いるのが通常である)。 父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。 千枝は直克のであり、伊豆橋という新宿の屋の娘だった。 『夏目漱石 人と作品3』 11頁によると、「遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。 その家族は店と別に住み、遊芸やをして過ごすというふうで、的な生活をしていたのである。 しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。 そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝のお出入りのの妹としてしたが、表向きは四谷大番町の鍵屋というから嫁いだことにしていた。 そのため漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしいという。 直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。 三兄・和三郎()の孫に、芸能プロダクション経営者でのCFで漱石役を演じたがいる。 三兄・和三郎()の別の孫に朝日新聞社員(『』副編集長、『』編集長、『』編集長、『美術図書』編集長などを歴任)の。 妻 - との間に2男5女。 次女・恒子は、『其面影』を著している。 四女・愛子は、の少女像のモデルとなっている。 五女・雛子は1歳で亡くなっている。 そのの緒が発見され、が購入している。 長男家 [ ]• 長男 - (バイオリニスト)• 孫 - (漫画批評家・エッセイスト、純一の長男)• 曾孫 - (ライター・エディター、房之介の長男) 長女家 [ ]• 長女 - (作家、1899-1989)熊本県出身。 日本女子大付属高女卒。 本名・筆。 娘婿 - (作家、筆子の夫)• 孫 - (名誉教授、筆子の次女)• 孫 - (エッセイスト、筆子の四女) 次男家 [ ]• 次男 - ()• 孫 - (伸六の長女)• 曾孫 - ・、沙代子の三男• 曾孫 - (、沙代子の次男)• 玄孫 - 夏目ひみか(、沙代子の長女の娘) 夏目漱石書 五言絶句「芳菲看漸饒 韶景蕩詩情 却愧丹青枝 春風描不成」 漱石の門下生とされる者には、作家だけでなく、様々な分野の学者・文化人が含まれている。 彼らによって漱石の影響は広汎な文化領域に及び、大正後期から昭和初期の知識人の間でスタンダードな価値観を形成した。 そこで、はこの時期に「漱石文化」が成立していた とし、その発信源となった門下生の集団はによって 漱石山脈と命名されている。 門下の画家とされるの「漱石山房と其弟子達」が彼らの姿を描いた絵画として有名で、以下の顔ぶれが見られる。 (臼川)• また、以下の作家も漱石門下に連なっている。 更に、以下の学者・文化人も漱石門下とされている。 漱石は彼らと、自分の後継者を養成するという意味での師弟関係を結んでいたわけではない。 漱石が教員だった時期の教え子もかなりの割合を占めているが、多くは木曜の面会日(所謂「」)を中心に客としてやって来た青年で、漱石との交流を通じて強い感化を受け、門下を称するに至ったものである。 ただ、漱石は木曜会においてもほとんど対等の立場で彼らと議論しており、は自分が師事したと比べ「漱石氏の場合は事情が少し違って、厳密な意味の師弟関係とはいへない、各人は相当自由な態度でゐられたやうに思ふ」という。 門下生の一人とされる阿部次郎も次のように述べている。 「若し門下生とは、先生と正式に師弟の約を結んだ者を意味するならば、自分は先生には門下生なるものが全くなかったと云ひたい。 固より先生の周囲には多くの若い人達が集ってゐた。 先生と此等の人達との間には、先輩及び後輩として、今日の日本の文壇では他に見られないほどの親しみがあった。 併し此等の人達は、先生がその道を伝へるために、特に簡抜された人達ではなかった。 (中略)先生は唯その寛容な心を以て、自然にその門に集って来る青年を接見して、之と話をしたり、その相談に預かったり、時としてはその世話をされたりしたに過ぎなかった。 所謂先生の門下生となるには、唯先生の風を慕って、木曜日にその家の客となれば足りたのである。 先生と所謂門下生との関係は最初はこれほどの意味に過ぎない。 (中略)先生はいつも独立を重んぜられる人であったから、所謂門下生に対して自分の意見を強制するやうなことは殆んどないやうに見受けられた。 さうして実際先生と所謂門下生との間には、随分激しい意見の扞格があった。 」 また、阿部次郎が挙げている漱石門下のリストには、白樺派のやも含まれており、も彼らを事実上の弟子としている。 彼らは文壇に先輩や師を持たないというポリシーを持っており、漱石門下を自称することはなかったが、当時の文壇で漱石を最も尊敬していることを自認していて、漱石も彼らに目をかけていた。 彼らを上記の門下生と区別して、「直接の門下生ではなかった」とする見解もある が、漱石本人にそのような区分意識があったわけではない。 門下生のうち、鈴木三重吉・小宮豊隆・森田草平・安倍能成は漱石と親炙の度合いが特に強く、木曜会を中心になって仕切っていたので、「漱石門下の四天王」と称されている。 中でも小宮豊隆は漱石に最も愛されていたと言われ、漱石没後もその権威化に努めたことから「漱石神社の神主」と揶揄されることもあった。 時代から漱石と深い信頼関係にあった寺田寅彦は門下生中でも別格扱いされており、一番弟子と呼ばれることも多い。 一方、野上弥生子は木曜会に出席したことがなく、漱石と直接会ったのは数回だけだったが、 から「漱石の最も正統な継承者」と評されている。 また、漱石文学の多様な性格のうち、「反自然主義の文学伝統は芥川龍之介に、倫理性は志賀直哉に、浪漫性は内田百閒に」継承されたという見解もある。 これらの作家のうち、一般的人気が最も高いのは芥川であり、学術面では阿部次郎・安倍能成・和辻哲郎が大正教養主義を主導して戦前のアカデミズムに大きな影響を与えたことから、はこの四人を「漱石文化の代表者」としている。 出版業界において「漱石文化」を普及させた最大の功労者が岩波茂雄である。 なお、漱石は朝日新聞を、目をかけた新進を世に出す場ともしており、作家としては無名であった森田草平や中勘助に『』『』を連載させ、それが彼らの出世作となった。 大正3(1914)年、『こころ』の後の長編の連載を、それまで短編しか発表していなかった志賀直哉に依頼したのも同様の配慮による。 志賀はそれを受けて長編執筆に取り組んだが、書き悩んで辞退することになり、漱石はその穴埋めを武者小路実篤・野上弥生子らに依頼している。 そのとき武者小路が発表した「死」は、彼が最初にまとまった金を得た作となった。 (ただ、志賀は書き悩みながらも長編執筆を放棄せず、昭和12(1937)年にようやく完成させた。 これが彼の唯一の長編『』である)。 また漱石は明治42(1909)年、「朝日文芸欄」を創設して批評活動の場とし、森田草平・小宮豊隆に編集を担当させた。 そこでこの二人や阿部次郎・安倍能成らが反自然主義の論陣を張って注目されたが、紙面を私物化しているという批判が朝日新聞社内で発生し、明治44年に廃止された。 大正4(1915)年の初夏、津末ミサオという作家志望の女性が名古屋から漱石の家を訪れたが、漱石は彼女の文才を評価せず、「地元の両親の元で暮らし続けたほうがよい」と勧めた。 彼女はその後もたびたび木曜会に出席していたが、大正4年10月6日、霞ヶ浦で投身自殺を図り、二日後のに「新しき 女の入水、夏目漱石の門に学び、才媛の評あり」という記事が漱石の談話と共に掲載された(後に未遂と判明)。 漱石にとっては来客という以上の関係ではなかったが、マスコミは門下生とみなしており、阿部次郎の言葉にある「所謂門下生」の性格を裏付けるものとなっている。 思想 [ ] アジア観 [ ] 1909年(明治42年)11月6日付の『』に掲載された漱石の随筆『(下)』の記事において、「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にしてに生れたと云ふ自覚を得た事である。 に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた。 同時に、余はやに生れなくつて、まあ善かつたと思つた。 彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ」などと書いており 、当時の漱石の「アジア観 」が示されている。 この一連の記事に対し、比較文学者のは、「漱石は帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。 に疑義を呈したやのような政治的叡智は示していない。 正直に『余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た』『余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた』と書いている。 『まあ』に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ」と評している。 伊藤博文暗殺事件への反応 [ ] 1909年(明治42年)付の『満洲日日新聞』に掲載された漱石の随筆『韓満所感(上)』の記事において、に触れており、「昨夜久し振りに寸閑を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認め出すと、伊藤公がで狙撃されたと云ふが来た。 哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有の兇変と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」 などとしたうえで「余の如き政治上の門外漢は(中略)報道するの資格がないのだから極めて平凡な便り丈(だけ)に留めて置く」などと書いており、伊藤博文の暗殺事件に対する感想が綴られている。 その他 [ ] この記事の内容の信頼性について。 確認のための文献やをご存じの方はご提示ください。 、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。 漱石と病気 [ ] 漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、、、、、、命取りとなったまで、多数の病気を抱えていた。 『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。 「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。 酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずやなどの脂っこい食事を好んだ。 大ので、療養中には当時貴重品だったを欲しがり、ついには家族に無断で業務用アイスクリーム製造機を取り寄せ、妻と大喧嘩になったこともある。 当時出回り始めたもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという。 胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れに風が吹きつける音にそっくりだったことから、「破障子」なるを作り、使用していたことがある。 また、漱石は(疱瘡)にかかっており、自分の容姿にを抱いていた。 しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。 精神医学上の研究対象 [ ] 漱石は、神経衰弱やあるいはを患っていたとされている。 このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のでもあった漱石の生涯および作品に対していかに影響を及ぼしているのかが、精神医学者の上の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。 漱石と鴎外 [ ] 望まれぬ末子としての町方名主の家に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(に反抗する姿勢)な態度を貫いたことに対して、の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられたは死ぬまでをはじめ国家官僚の職を歴任し、官側の人間であり続けた、という対照がある。 夏目漱石は「」、森鴎外は「」と呼ばれた。 しかし、その一方では二人とも「の姿勢」とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広いをもって活動を進め、歪んでいくにおけるの主流においても自分たちの認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応のを与えた。 なお、鴎外が1890年から1年ほど過ごし、『文づかひ』などを執筆した千駄木の邸宅は、後にロンドンより帰国した漱石が1903年から約3年居住して『吾輩は猫である』を著した場所でもあったが、現在、同邸はのに移築保存されている。 神格化 [ ] 「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、のちの多くの批評家・研究家によって語られた論評である。 また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、『』にも紹介されている。 しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残したわけではなく、漱石の発言を弟子たちが書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない。 この点については、の書いたもの、とりわけ『夏目漱石』(1938)も改めて精査する必要がある。 留学時の指導教授探し [ ] 熊本在住の英国人宣教師の母親と親しくなり、また渡航の船でも相談していることは彼の日記にある [ ]。 言葉遊びと造語 [ ] 漱石の作品には、順序の入れ替え、などの多用が見られる。 漱石以前に使った形跡が見られない造単語や一般的に使われている漢字とは異なる別種の綴りがある。 現在、下記の「浪漫」「沢山」のように一般用語化されたものも多いが、の上級問題として用いられることも多い。 単簡(簡単)• 笑談(冗談)• 八釜しい(やかましい)• 非道い(ひどい)• 浪漫(ロマン)• 沢山(たくさん)• 月並み(つきなみ) 時代の同窓生が旧派が毎月の一日に行う句会を「月並俳句」と呼んだことから。 転じて「ありきたりで面白みに欠けるもの」という意味として定着。 案排(あんばい) 普通は「塩梅」や「案配」と書く。 などので変換しても候補として出てこない。 烈敷(はげしく) 普通は「激しく」。 そもそも引用元の「坑夫」は「鉱夫」と書くのが普通。 「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。 しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前の全ての資料を確認しない限り、確定はできない。 「新陳代謝」「反射」「無意識」「価値」「電力」「肩が凝る」などは漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。 一例としては、漱石が「」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃(江戸時代後期)からの、に用例が見られる。 学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある。 漢詩 [ ] 日本人が作ったの中にはが合っていてもでのまで意識していないものもあるため、中国語で吟じられた場合には優れた漢詩とされにくい場合がある。 しかし、漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しい とされ、(平成17年)には『中国語で聞く 夏目漱石漢詩選』(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。 漱石の漢詩についての先駆的研究書としては、『漱石詩注』((昭和42年))があるが 、これは漱石の造詣が深かったの用語などに関しては注釈がないなどの不備があるとされている(『週刊読書人』勝又浩)。 またそれに先立ち、(昭和21年)、娘婿のが『漱石の漢詩』 を出版している。 (20年)に作家のにより『漱石の漢詩』 が発表された。 禅の観点から注釈されたものとしては『新訳 漱石詩集』 がある。 ほかに和田利男『漱石の漢詩』 がある。 2016年1月25日にが、漱石直筆の漢詩文屏風を古書店から購入したと発表した。 屏風は2枚折り1対、1枚が縦1m62、横80cm。 内容は『禅林句集』から春夏秋冬の場面が選ばれていた。 遺品 [ ] 早稲田南町の漱石山房は第二次世界大戦中に空襲で焼失したが、小宮豊隆が館長を務めた縁で蔵書・日記等の自筆資料の大半が付属図書館に移動されており焼失を免れている。 東北大学では「夏目漱石ライブラリ」として研究者へ公開している。 近年では原稿用紙の劣化が進んでいるため、2019年にはデジタルアーカイブとして保存する資金をで調達した。 では遺族から提供された書画や落款印の画像を「Web版夏目漱石デジタル文学館」として公開している。 日本国外での評価 [ ] 日本での絶大な名声に比較すると、での知名度はそれほど高いとは言えないものの、では主要な作品のいくつかが訳されており、一定の評価を得ている。 に、英国人による『草枕』の英訳 "The Three Cornered World" が刊行された。 これはのピアニストのが愛読するところとなり、晩年に、自らラジオ番組で一部分を朗読したことがある。 の批評家のは、「死後の生 マシャード・デ・アシス」(『書くこと、ロラン・バルトについて』所収)の中で漱石について、「ヨーロッパ中心の世界文学観が端に押しやってしまったもうひとりの多才な天才、夏目漱石」と評している。 の批評家で、に『倫敦塔』の翻訳 "The Tower of London" を刊行したは、漱石をやなどに並ぶ世界的な文豪であると評価したうえで、イギリスなど欧米ではほとんど漱石が認知されておらず、その理由として、やのような「日本らしさ」が漱石には感知されないためではないかとしている。 しかしフラナガンによれば、漱石は単に「日本文学」を代表するのみならず、人間や心の普遍性を探求した世界文学であり、現在はそのように認知されていないが、シェイクスピアが世界的な評価を得るに至ったのは、やゲーテなどによるところが大きいことを引用しながら賞賛している。 アメリカの比較文学者(Jay Rubin)の英訳 "Sanshiro A Novel"(出版局)に添付された自身執筆の評論 "SANSHIRO AND SOSEKI: A Critical Essay" は『』論として包括的で優れている。 漱石全集の本文を厳密に引用・英訳するルビンの姿勢には、漱石が世界文学の仲間入りをしていることを如実に感じさせる。 ルビンは他にも『坑夫』などを英訳している。 ・・ではよく知られており、多くの作品がやに訳されている。 中国語圏ではにより紹介されて以来、多くの読書人に愛されてきた。 韓国でも古くから漱石作品が親しまれてきたが、以降特に人気が高まり、「漱石ブーム」と言われるほどになった。 作品における差別表現問題 [ ] 『坑夫』における「芋中の」(芋の中で最下等のもの、の意)との表現が問題視され、角川書店はこの語を伏字にしたが、巻末の注で「特殊部落の人々への蔑称」と記述したためにかえって問題となり、1981年初めに部落解放同盟から糾弾された。 このくだりは、『夏目漱石全集4』(ちくま文庫)でも「芋中のヽヽ」と伏字になっている。 その他、1994年3月には『坊っちゃん』における「小使」()の語がの朗読の時間に問題となり、「それだから中学校の小使なんぞをしてるんだ」などの文章をそのまま読み上げたうえで、朗読終了後にアナウンサーが弁解したことがある。 しかし、1994年4月からの『吾輩は猫である』では「 盲 ( めくら )」「 跛 ( びっこ )」などの表現が問題となり、これらの語は飛ばして朗読された。 また、漱石はからにかけて、のと名乗る者から缶入りの茶を贈られ、富士登山の絵に賛をしてくれ、に関する俳句を書いてくれとねだられたが断ったことがある。 すると岩崎は「書かないなら茶を返せ」としつこく要求を繰り返した。 漱石は岩崎の言動にあきれて「何(ど)うも穢多かでもなけりや、こんな鄙嗇(けち)なことは云はなかろう」と疑い、播州近くの男に岩崎の地元を調べさせた。 すると「坂越と云ふは播州でも素封家の揃つて居る所ださうだ」との回答であった。 現在は、作者が故人でありかつ文学作品であることから、これらが差別用語であることを認めたうえで、そのまま掲載されていることが多い。 このような取り扱いは他の故人の作家でも同様であることが多い。 有名イラストレーターの起用 [ ] 1980年代に、が漱石の一連の作品の表紙絵に当時流行のでのを起用している。 では、2007年から、販促活動である「夏の一冊 ナツイチフェア」において、人気漫画家が不朽の名作とされる作品の表紙イラストを書き下ろす企画が話題を集め、の世の若者が作品に触れるきっかけとなった。 この企画において、2008年には『』などの作画を担当したが『』の表紙絵に起用された。 また、2011年にはが『』の表紙絵を 、が『・』の表紙絵を描いている。 ただし漱石の著作や記録にはそのような話は残されておらず、また漱石からそれを直接聞いたという文献・記録も存在しない。 また似たような話は1970年代末にも存在し、そちらでは「月がとっても青いなあ」 ・「」 と訳したとされている。 典拠が不明で 、1970年代頃から言われ始めた逸話であることから、これは後世の者による創作である可能性が高いとされている。 夏目漱石を演じた人物 [ ] 映画• - (1963年、大映)• - 第三夜(2007年、日活)• - 第四夜(2007年、日活)• - 第八夜(2007年、日活)• - (2011年、ファントム・フィルム) テレビドラマ• - (1985年、テレビ朝日)• - (2005年、TBS)• - (2006年、TBS)• - (2009年-2011年、NHK)• - (2015年7月1日、NHK)• - (2016年、テレビ朝日)• - (2016年、NHK)• - (2016年、NHK)• - (2017年、) 夏目漱石を描いた作品 [ ]• 先生と僕(香日ゆら、メディアファクトリー)• (・、双葉文庫) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 当時は学校のあった地名をとって一ツ橋中学ないし一ツ橋尋常中学とも呼ばれた。 現在のとは無関係。 出身のにかわいがられ、教室以外でも先生の家に招かれて教えられ、「マードックさんは僕の先生だ。 ……英国人もあんな人許(ばかり)だと結構だが」と宛ての書簡に書いたり、マードックの『日本史』に推薦文を書いたりしている(『漱石の師マードック先生』 )。 狩野宛書簡に「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰つて来た。 日本人が英国人を真似ろ\/と云ふのは何を真似ろと云ふのか今以て分からない」と書いている。 夏目伸六の『父・漱石とその周辺』によれば次のよう。 ふと眼を開けた父の最期の言葉は、 「何か喰いたい」 という、この期に及んで未だに満し得ぬ食欲への切実な願望だったのである。 で、早速、医者の計いで一匙の葡萄酒が与えられることになったが、 「うまい」 父は最後の望みをこの一匙の葡萄酒のなかに味わって、又静かに眼を閉じたのである。 彼は其所で疱瘡をした。 大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。 彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。 身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。 〉「道草」(39)• 『』() 2009年7月3日放映分にて披露。 100万円で購入したそうである。 『硝子戸の中』に関連する記述あり。 の息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。 との親交が深かったことで、「父・夏目漱石」(文藝春秋社)を発表した。 門下生が集まれば必ず牛鍋を囲む。 羊羹、お汁粉、ケーキなど甘いものが好きで、特にお気に入りは自家製アイスクリームだった。 胃弱のためには大量の鶏肉を使ったスープを飲んでいたという。 なぜか鳥類のもらい物も多かった。 シャモ、カモ、山鳥、キジなどで、知人宅での雁の料理に舌鼓を打ったこともあったらしい(河内一郎『漱石、ジャムを舐める』)• 「吾輩は-」には1か月に8缶も舐めたとの記述がある。 医師のは「漱石非精神病説」を主張している。 漱石の精神病説の根拠は熊本の五高を辞職する時に出された神経衰弱の診断書と、妻、夏目鏡子の回想記『漱石の思ひ出』などに描かれた漱石の言動の記述や、同書で東大精神科のが、漱石を診断し、鏡子に漱石が病気であると告げたという記述があることであるが、辞職のために、五高に提出した診断書も書いた呉は、漱石が親しい菅虎雄の親友であり、また夏目家の家庭医、とも親しかった。 当時、実家に戻っていた、鏡子を、尼子を通した依頼で呉が説得した言葉が、鏡子のなかで漱石が精神病者であるという記憶に変わっていったのではないかと主張している。 『漱石の思ひ出』の記述を引用しただけの漱石の病跡学は学問的でないと主張している。 、を参照。 これより前に漱石が使用した例としては「同時にスコット一派の浪漫派を生まんがために存在した時期である。 」(『野分』11章、1907年1月)が最も早い。 また翌年の講演『創作家の態度』では「浪漫派」「浪漫主義」の語句が多く用いられている。 初版は十字屋書店。 昭和41年()に、で新装再刊。 たとえば押韻の問題について全く踏まえていないなどの問題があるとされる [ ]。 夏目漱石他著の小説文庫版の巻末参照 出典 [ ]• 『夏目漱石 人と作品3』 9頁• 『夏目漱石 人と作品3』 9頁• 『夏目漱石 人と作品3』 13頁• 「夏目漱石と二松學舎」『二松學舎百年史』、1977年、289-291頁。 歴史余話. 九州学院100周年記念歴史資料・情報センター. 2018年9月12日閲覧。 , p. 「赤いレンガ」 『医学芸術』 昭和57年10月号 斎藤茂吉生誕百年 坪井医院(千代田区神田和泉町1)のウェブサイトへの転載、平成23年11月3日閲覧• 斎藤茂太 『精神科医三代』 昭和46年刊• 朝日新聞デジタル(2019年5月9日)2019年5月18日閲覧。 『夏目漱石 人と作品』 41頁• 辞退の書面が掲載(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)• 『』第3963号「叙任及辞令」1896年9月11日。 『官報』第4885号「叙任及辞令」1899年10月10日。 『夏目漱石 人と作品3』 9頁• 角田秀雄『少女目にみゆ』(新評論)P. 『日本人名大辞典』• 現代に於ける「漱石文化」 『世界の一環としての日本』白揚社、1937年• 本多顕彰「漱石山脈」(『新潮』43(5)、1946年5月)なお、同論文は『新潮』編集者から「漱石山脈」という題で書くことを求められたものなので、厳密にはその編集者が命名者である。 「思い出るまま(九)師弟と朋党」(『徳田秋聲全集』第22巻、2001年、八木書店)。 紅葉の場合、門下生に交替で自宅の玄関番をさせたり、代作をさせたりするなど、徒弟制の性格が強いものであった。 「夏目先生のこと」(『阿部次郎全集』第13巻、1962年、角川書店)• 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 朝日新聞出版、2018年• 永田哲夫「白樺派研究 漱石への接近」、高知大学学術研究報告人文科学17 10 、1969年3月、高知大学• 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 朝日新聞出版、2018年• 佐々木亜紀子 野上彌生子の 先生 漱石という体験 教養と教育 共通科目研究交流誌 5 2005年 愛知教育大学• 『日本の文学 夏目漱石(三)』付録32「漱石山脈について」(中央公論社、1966年9月)• 現代に於ける「漱石文化」 『世界の一環としての日本』白揚社、1937年• 『武者小路実篤全集』第9巻「後書き」(1955年、新潮社)• 『漱石山脈 現代日本の礎を築いた「師弟愛」』 朝日新聞出版、2018年• 『』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『産経新聞』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『産経新聞』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『産経新聞』 2013年4月3日. 2013年8月7日閲覧。 『産経新聞』 2013年4月3日. 2013年8月7日閲覧。 『産経新聞』 2013年1月7日. 2013年5月12日閲覧。 『天才』p. 164 岩波新書(青版 621)• - 博物館明治村、2020年1月1日閲覧。 『』版50頁• 『』版326頁• 『』版80頁• ・(Jing, Hui)ら• 『漱石詩注』、1967年(昭和42年)。 で新版刊行。 『新訳 漱石詩集』柏書房、(平成6年)• 『漱石の漢詩』(文藝春秋・文春学藝ライブラリー(文庫)、2016年(平成28年))• 『』2016年1月26日 39面。 『』講談社インターナショナル、2007年• 『差別用語を見直す』p. 124• 「漱石山房座談」『反響』第1号、1914年4月。 野町均『永井荷風と部落問題』リベルタ出版、2012年、74-77頁。 ORICON NEWS. 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